ありがとう、ありがとうね
なんということだ。お祖父さんとの会話を彼女に見られてしまった。
袋小路に立つ僕と、窓を擦り抜けて逃避可能なお祖父さん。しかしお祖父さんに逃げる理由はないだろう。
「じぃちゃん、そこにいるの?」
5メートルの距離を保ったまま、彼女は僕に問う。
「はい、いますよ」
そう答えるほかなかった。誤魔化したところで、ではなぜ僕が独り言を発していたか、もしくは他の霊体と会話していたかという問いが浮上する。
「あぁ、そうなんだ、そうなんだね」
僕が答え、刹那の沈黙の後、彼女はほっと安心したように頬の緊張が解け、目尻を垂らして涙を浮かべた。
いまこのとき、焼かれている身が生きていたころと同じ見た目の魂は、確かに僕の背後に在る。
僕が右後方に振り向きお祖父さんに目を遣ると、彼は酒飲みの豪快な笑いではなく、この世で堆積したあらゆる不純物を還元し、綺麗なものだけを残した、黄金色の朗らかな笑みを浮かべていた。
あぁ、僕も6年後、こうやって旅立てたら。
そう思わずにはいられなかった。
「じぃちゃん、ありがとうね、私にとっては、じぃちゃんがお父さんの代わりでもあった。ちゃんと私のことを見てくれた、かけがえのない存在でした」
ぐすっ、ぐすっ、と、彼女は鼻を啜る。お祖父さんは笑みを浮かべたまま、うん、うん、と頷き、彼女を見下ろしている。
他方で僕は、ちゃんと私のことを見てくれた、という彼女の言葉に背景を見た。
それは僕も、勘付いていた。
「どうしよう、どうしよう、何を話せばいいの? いっぱいあり過ぎて、出てこない」
僕の右肩が重たくなった。お祖父さんが寄って左手で僕の肩をかけて言った。
「いま言わなくてもいい。思い出したとき、言葉にしてくれればいつでも聞いているから」
言われたまま、僕は彼女に伝えた。
「うん、わかった。……いいな、本牧さん、じぃちゃんの姿を見て話せるんだ」
僕は柄にもなく微笑んで、頷いた。
なんて穏やかな心持ちだろう。最近は作り笑いや失笑ばかりしていた自分が、いつになくまっさらでいる。
僕もまた、堆積した泥や岩石から宝石を削り出したような、そんな気分でいる。
「そろそろ、時間が来たみたいだ」
「わかりました。衣笠さん、そろそろみたいです」
「はい。じぃちゃん、私から姿は見えないけど、消えてはいないんだって知れて、安心しました。お空の上から見守っててね」
「地獄かも知れんな、だそうです」
「えっ!? ちょっ、まさか生前飲酒運転とかしてねぇべな!?」
しめやかなムードだったのに急に東北訛り全開で、この地方の方々には恐縮だがコントに見えてしまう。
「してねぇしてねぇ、だがケムシさ踏み潰した数は知れねぇ」
僕は敢えて語尾の『だそうです』を省略し、イントネーションも真似た。東北弁は滑らかで喋りやすいと思った。
「あぁ、ついこの前もやってたなぁ、向こうさ行ったらちゃんと詫びるっちゃよ?」
人差し指で涙を拭う彼女。
「あぁ、わかった。ありがとうな、お世話になりました」
また僕は一つ、察してしまった。この世では孫の年齢でも、あの世において、彼女はお祖父さんより高い位に格付けされているのだろう。なんとなく、そんな気がした。
「私こそ、本当にお世話になりましたっ、ありがとう、ありがとうね」
僕の肩がすーっと軽くなった。
振り向くとそこにはもう、誰もいなかった。




