優れた人ほど苦難を感じる小さな世界で
硬かったアイスクリームがとろけ、少しずつ手を付け始めたころ、宴会場と化した列車は関東平野の北部を悠々と駆けていた。
はやて号は大宮駅を出ると仙台までノンストップ。しばらくの間、のどかな田園風景の向こうに連なる山々、流れゆく雲をスローモーションのように追い抜くさまが見られる。
私の隣に座る本牧さんは眠りに堕ち、折り畳み式テーブルには完食したアイスクリームのカップにスプーンが挿し込まれ、その上に蓋が斜めに置かれている。アイスコーヒーは6割ほど飲んでいる。
じっくり味わいようやくアイスクリームを完食した私は、暫し背もたれに身を委ね、彼から漂う微かな香りに微睡んだ。
ピッチの狭い普通車の座席。出張で日頃から新幹線を利用している私は、隣の席に男性が座ると肘掛けからはみ出た腕が私の席まで侵食し、よく不快な思いをする。なのでなるべく混雑する列車は避け、やむを得ない場合は一人がけの座席があるグリーン車やグランクラスを利用する。
けれど彼は肘掛けの内側に腕を収め、両手を腹部に重ねているから、私に窮屈感はない。
こうした配慮のできる人は、実はとても稀少。昨年度までに彼と知り合っていれば、私はリミットを外し踏み込んでいた。
気を持ち直し、甘くほろ苦いコーヒーを一口啜って、移ろう景色を眺める。
雄大な田園風景と、刈った草でも燃しているのだろう、ぽつりと野から上がる白煙。
煙を構成する無数の粒子のように、この地球では絶え間なく、数多の命が天へと昇っている。
対して、無数の命が舞い降りている。
その理に愛する者が面したとき、この世の命は胸に哀や喜を宿す。
哀の中で見送られた魂は、何処へ還りゆくのか。この雄大な平野にも、あの山にもその向こうにも、遠い海の彼方にもいなくなってしまう。
そんな途方もない離別に、残された者は涙する。
残された者も、この世の如何なる命も、いずれこの楕円の地を去る。隣ですやすや眠る彼も、宴会中の愉快な人々も、他ならぬ私も、跡形もなく消え去る命。
その命は宇宙規模で見れば細菌にも及ばない、微小な一つ。
その宇宙だって、何か包んでいるものがあるとしたら、それにとっては微小であろう。
とてつもなく小さなことに喜怒哀楽しながら、此の世の命は生きている。
小さいからこそ、大切な存在が遠くへ逝き失せる事実が、途方もない悲壮感を生む。
そんな苦に身を置いている未来ちゃんの想い人に、自らの孤独感を紛らわすために手を出してしまった後悔は募るばかり。2時間後、彼女とどう顔を合わせようかと後ろめたさに駆られている。
しばし意識が遠退き、窓の外は住宅地が広がっていた。まもなくデパートやビジネスホテルが見えてきて、駅を通過した。線路沿いには、車内からその姿は見えないけれど、プラネタリウムの球体を格納したビルがある。
「郡山か」
本牧さんが隣にいるので、声を発した。福島県で最も栄えた街、郡山。本牧さんの同僚、成城さんの出身地。
「仙台まではもう少しありますね」
「起きていらしたのですね」
「(一つ手前の)新白河辺りから」
「私は那須塩原までの記憶はあるので、互い違いで眠ったのですね」
「そうみたいです。三浦さんも寝不足ですか?」
「えぇ、夏は寝つきが良くないんです」
「僕もです。非番の日は昼近くまで起きられない日も少なくありません」
「あらあら、睡眠負債の返済は致し方ありませんが、寝すぎも毒ですよ?」
「はい、でも今週は、おかげさまでよく眠れました」
本牧さんは多くを語らないけれど多感で、常に多くの感情や情報が駆け巡っている、そんな人。きっと彼は未来ちゃんの気持ちにも気付いていて、私が抱く背徳感も承知している。
「マッサージの効果は切れていませんか?」
「まだ完全には切れていません。僕よりも、三浦さんはいかがですか?」
「私は、大丈夫です。少し寝てスッキリしました」
句読点を付け、わかりやすく真意を読ませる。すっかり心まで汚れてしまった。
「そうですか」
笑顔で言う彼の瞳は、私の表面的な嘘と、内に秘めたを見抜いている、そんな目をしている。思惑通り。
あの朝、背を包んでくれた強固な感触が忘れられなくて、心身が理性に反して彼を求めている。
理性と本能の間で揺れる私の終着点はまだ遠そうで、背負うものは増えるばかり。




