まだまだ未熟
「ねぇ小百合、ノート見せてくんない?」
しとしと雨音が響く梅雨。蛍光灯が眩しく、しかしどこかどんよりした中学校三年生の教室。従来通りがやがやと騒がしいけれど、日々を重ねるに連れて受験ムードが濃くなってゆき、多くの生徒は『志望校合格』という人生のうちのたった一点に目を奪われていた。
「どうして?」
「アタシ、ノートのとり方あんま綺麗じゃないから、小百合の写したほうが内申点上がりそうじゃん」
「どうして内申点が必要なの?」
「は? 受験有利だからに決まってんじゃん」
「将来、何かやりたいことでもあるの?」
「いまはわかんないけど、それは後から考えればいいじゃん。いいから早く見せてよ」
言って、彼女は小百合のノートを強引に持ち去り、少し離れた自分の机で模写を始めた。
自らの学習道具と時間を奪われた小百合は加害者に対し憤りを覚えるも表には出さず、彼女はこの先もずっと他人に依存した模倣的学習を続け、月並みな論を述べ就職活動へ流れるのか、どこかで過ちに気付き自由な選択を得られ、人間として生まれた意味を果たすのか。もし後者になるとしたら、奪ったノートで私のやり方を参考にし、何かを得るきっかけになるならば少しは救いになると、小百合は思考した。
中学時代まで、小百合は男女問わずほとんど人と接してこなかった。品のある口調で尚且つ文武両道。哲学に没頭する一部の地味な生徒と対等な会話ができる希少な存在ではあった。一方、やたらと大声で笑い、誰かを悪く言うのが日課である大半の生徒には溶け込めず、彼らからは遠ざけられ、しかし都合良く利用されていた。
ところが公立中学から偏差値の高い私立高校へ進学してからは一転。会話の成り立つ相手が多くでき、瞬く間に多くの生徒に好かれるようになったのだ。これまで遠ざけられていた小百合はようやく居場所を得て心華やぐ日々を送れるようになり、軽くスキップしてしまうくらい嬉しくてたまらなかったのだ。
そんな折、小百合にも青春らしい日々が始まりを告げた。同じクラスの男子生徒にアジサイの咲く放課後の校舎裏へ呼び出され、交際を申し込まれたのだ。ノートを奪われてから約1年後の、6月にしては珍しくカラッと晴れた日だった。
劣等生だが聞き上手でクラスメイトからの評判は上々だった彼は、小百合に成績不振についての話を聞いてもらっているうちに好意を抱くようになり、見事交際に漕ぎ着けた。それは彼自身が幸せを掴むと同時に、小百合にとっても自分を好いてくれる人間など誰もいないという思い込みを払拭してくれた、晴れやかな出来事でもあった。
小百合にとっては彼の悩みを聞いて、解決策を一緒に考えるのは夜も眠れぬほど大変な日々であったものの、生き甲斐を得られて充足感に満ちていたのだ。
彼との交際は互いに同じ大学へ進学してから1年半ほど続いたが、やがて破局の時が訪れる。原因は、就職活動に対する見解の差異だ。間もなく始まる就職活動に当たって、互いに就きたい業種は不鮮明であったものの、小百合は苦戦してでも自らのアイデンティティーに合致する職を、彼はどこでも構わないのでとにかく内定をもらうという目標であったが、彼の投げ槍なスタンスが、小百合にとっては到底受け入れられず、破局に至った。
まもなく破局の噂を聞き付けた男たちは容姿端麗な小百合を放っておかず、寄って集るようになる。理解者を求めていた小百合は、何人と関係を持っただろうか。相手の多くは年下で、一人ひとりの話を真摯に受け止め、しかし自らの思想や悩みを語ろうと思える相手には巡り逢えず、誰かとベッドに上がれば、腹の奥底に溜まった泥のような気を声に込めて吐き出していたのだ。
私を深く理解してくれる人は、一体どこにいるの?
そんな思いを延々と抱き続ける日々に、心は日増しに病んでゆく。
というよりは、行為を重ね、求めるうちにそれを自覚していったというほうが正しいだろう。
思えば私のなかに、健全な心などあっただろうか。最初の彼と過ごした日々さえ、現在はうろ覚え。
◇◇◇
「つまり私という人間は、愚かしいほどに未熟だったの。最初の彼と別れたのは価値観の相違だから結果として正解。その後の関係は不安定な気持ちを鎮めるための精神安定剤。けれど経験を重ねたからこそ気付いたこともある。カラダを求めるだけの関係は、賞味期限が短いってね。だから私は本当に大切なものを極めるこの仕事に就いたの」
「えとー、えーとぉ、私なんかとは全然違うんですね、色んなことが。……でも、素敵だと思います」
赤面してひたすら狼狽する。信じられないような未知に、未来はそれしかできなかった。
「ふふ、けれど、それだけではまだまだよ。でもきっと、未来ちゃんなら気付く、いえ、もう気付いているかもしれないわね。あなたは私よりずっと優秀だもの」
「そ、そんな、私はまだお客さまを担当していません」
「ふふ、けれども、ね? さ、湿ったお話はこれくらいにして、楽しい時間を過ごしましょう」
手の内を明かさずはぐらかされて腑に落ちない未来。
でもきっと、引っ掛かる部分は自分で習得しなきゃだめなんだ。
一流プランナーへの道はやっぱり遠そうだけど、がんばらなくちゃ!




