小百合のマツタケ狩り
「これは美味い。同じ材料を使っているのに自分で調理したものとは雲泥之差だ。これまでの食材に対して罪悪感を覚えます」
6時15分、全身の軽さと萎んだ陰部に疑問を抱きつつ、僕は三浦さんと茶の間でワイドショーをつけながら朝食を摂っていた。
パンのシールを集めて貰った白く平たい皿に盛られた目玉焼き、ベーコン、スクランブルエッグ、サニーレタス。主食は食パン。小ぶりなオーブンレンジで焼いてからマーガリンを塗った。柄から尖端までステンレス製の無機質なものだが、来客用のナイフとフォークもある。
サニーレタスに続いてスクランブルエッグを口にした僕は、ふわとろな食感と後引く絶妙な甘さに感激している。
なんて素敵な朝だろう。家はボロいが料理の味は王宮クラス。目を閉じて咀嚼すれば異世界へといざなわれそうだ。
「へぇ、そうなんだ。なら、その食材たちに贖罪されますか?」
「駄洒落ですか」
「えぇ、松田さん直伝です」
「すみません、うちの職場に出入りしているばかりに」
「いいえ、とんでもありません。和気藹々としていてとても楽しいですよ」
「そう言っていただけると救われます」
「たまに男性らしい会話も飛び交っていますが」
クスッ。男の単純な思考を達観した旨を彼女の失笑が語っていた。
「あぁ、なんと申しましょうか。鉄道会社の何割かはそういうのでできています」
いまでこそ女性が活躍できる会社になったものの、ほんの少し前まで鉄道会社といえば男職場だった。故に繊細さに欠け、知能の低い動物のように単純な思想や言動、行動が目立つ側面がまだまだある。
「いやぁ、しかし今朝は本当にからだが軽い。呑んだ翌朝とは思えないほどです」
萎えた陰部がどうしても気になる僕は、その答えを引き出そうと三浦さんを誘導した。
「良かった、マッサージが効いたみたい。全身が凝り固まっていたので、血流が良くなるようデトックスを促しました」
デトックス。妙に引っ掛かるワードだ。
「そうでしたか。ありがとうございます。あの、それで僕、あの後すんなり眠れたと自分では思っているのですが……」
「ですが?」
三浦さんはきょとんと言った。
「間違いは、犯しませんでしたか?」
同意なき行為は言語道断。殊更過去に男絡みで深い傷を負ったという彼女を万が一にも犯してしまっていたらと思うと、それこそ僕はどう贖罪すべきか。
「もし、犯していたら?」
気さくな笑みで、彼女は問う。視線は僕を捉えず、逃げ場を与えている。
「どうしたらいいか……」
僕も彼女を直視せず、目玉焼きに視線を落とした。
「ふふ、大丈夫です。あなたが何をしたということはありません」
「そうですか。なら良かった」
強張っていた肩が、ストンと下がった。
「私が一方的にしただけですから」
なっ……!
「……」
言葉は出ないが、想定内の返答だ。僕から迫ったという事実はどうしても避けたったが、その他の可能性は敢えて訊かなかった。
「病気にはかかっていないけれど、いやだったかしら」
人指し指の関節を下唇に当てる彼女は、憂いを帯びていた。傷付けられたときに帯びたのであろう、黒い線香の煙に似たオーラが取り巻いている。たまに見る黒い霊と同じ浮遊体。
「いえ、想い人がいなければ、むしろ僕から迫っていましたよ。でも、どうして」
素直な気持ちと疑問を伝えた。暴漢に襲われた彼女が、今度は逆に僕を襲った。
病気持ちでなく、パートナーはいない、清潔で容姿端麗な彼女ならば襲われたからといって不快ではない。
部下を好いている男に手を出したという点ではなんとも言い難い感情が渦巻くが、女はある種のパラレルワールドを行き来する生きものだから深く考えないでおく。無論パラレルワールドを行き来しているからといっても善悪はある。そこは各々が倫理に基づき判断するもの。
「マッサージの後、本牧さんは数分で寝息を立てて、私もそれから程なく眠りに堕ちました。しかし私は寝相が悪く、朝方目覚めたら本牧さんを抱き枕のように強く抱き締めていまして。私、自宅のベッドには抱き枕があるんです」
恥じらいもじもじ、彼女は言った。僕は微笑んで頷き、今朝見た夢と彼女の話を整合、納得した。
「それで、本牧さんは嫌がって突き放すかと思ったのですが、脚をもぞもぞと動かしただけで……。そのときに、マツタケさんが私の太腿に押し当てられて」
「マツタケさん、ですか」
「はい、マツタケさんです。過去に私が見てきた中で最大のマツタケさんで、それはもうご立派な」
なんというセクハラ発言だ。女性に裸を見られるくらいなんともないと思っていたが、こう言われてしまうと少々恥ずかしい。
「そ、それは良かった……」
「あ、でも、安心してください? 最後まではしておりませんので」
「衣類を履いたままの僕を触ったと」
「ごめんなさいっ、脱がしました!」
イタズラを薄情して叱られ待ちの子どものように僕に向かって合掌する彼女。トッププランナーの姿とは掛け離れていて、憎めない。
「脱がしたんですか!」
「はい、とても苦しそうだったので吸引させていただきました! 本当に申し訳ないですごめんなさい!」
正に夢の通りだ。現実だったのならば起きて身ぐるみを剥がしてやれば良かったと、若干後悔し始めた。
三浦さんは真っ赤にした顔を両手で覆い隠している。失礼だが、この上司あってあの部下ありだと思った。
「ぶふふふふふふ」
僕は失笑し、腹を抱えて蹲った。落ち着いたところで言葉を紡ぐ。
「お互い大人ですから、こういうこともあるでしょう。いいじゃないですか、現状お互い交際相手はいないのだから、浮気でも不倫でもない。僕に至ってはおかげでからだがスッキリしている。何も問題ありません」
何も問題ありませんは嘘だが、方便だ。
「本当ですか?」
覆っていた手を解き、赦しを請う子どものような上目遣いで言った。不正乗車がバレて捕まった子どもそっくりだ。
「本当です」
仕方ない人だと、僕は微笑の表情で語った。
すると三浦さんはどうしてか、涙をぽろぽろと膝に落とし始めた。
「私、過去に自分がされたことを、本牧さんにしてしまいました」
「まぁ、僕は嫌がらないタイプですから。本当に嫌悪感は微塵もありませんよ」
彼女は何も言わずしばらく涙をこぼし、やがて落ち着いた。
「どうしてでしょうか。からだを繫げるのは簡単なのに、心を繋げるのは本当に難しい」
「うん」
「私より若いお客さまが何組もいらっしゃるのに、友人だって自分から積極的に探せば相手は見つかるっていうのに言う通りにしても見つからない。パートナー持ちの人たちから無責任な言葉の矢羽が降り注いで、嵐のように感情を搔き乱すんです。どうして、どうして私だけ酷い目に遭って、その後に幸福は訪れないの? 大した知性もなければ善行にも及んでいない、ろくに働いたこともないような人たちが、どうして私より幸せそうにしているの? どうして私だけ、ずっと孤独なままなの?」
それは貴女が優れている人間だから。見合う人はそう滅多にいないが、時期が来れば現れる。そんな理屈を説いても釈迦に説法。いまの彼女は、単純に感情のやり場が欲しいだけだ。冷静な思考に反して昂る感情が大粒の涙となって溢れている。無理解な人間が降らせた冷たい矢羽は彼女に染み込み、温かく丸みを帯びた雫となった。
僕は彼女の傍らに寄って、華奢な背をそっと抱き、胸板をじわり当てた。
「つらかったですね。本当に、頑張りましたね」
「ううん、いま一番つらいのは、お祖父さまを亡くした未来ちゃん。なのに私、こんなこと」
「うん、こんなときでも、他の人の苦を考えてる」
「だって、亡くなられたのよ? もう会えないのよ? それがどんなにつらいことか」
「そうですね、でも、貴女もつらい。だからいまこのときは、何も考えないでください」
彼女は言葉こそ発しなかったが、ゆっくり鼻で息を逃がし、それから口で聞こえる程度の呼吸を繰り返した。




