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未来がずっと、ありますように  作者: おじぃ
お盆休み・同人誌即売会
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あくまで僕は、やってない

 シャワーを浴びると、緊張が雪崩のように溶け崩れてゆくようで、体内に滞っていたものが底へ落ちてゆくように感じる。


 いつものことだが、極度の疲労で呼吸が荒い。洗髪する前にぬるめのシャワーを爪先から右肩へとゆっくりかけてゆく。


 この時間が、一日で最も落ち着く。


 きょうは色濃い日だった。


 朝、職場で香典を預かった後に人身事故。負傷者の不注意によるものだったので自殺より心は痛まなかったが、遺族、現場目撃者、初めて救出活動に当たった社員、事故によって用事や都合に間に合わなかった人を想うと不甲斐なさを感じる。


 勤務解放後は大船駅で三浦さんとばったり会い居酒屋で食事。彼女は成り行きで小さな我が家に上がっている。


 そんな状況下で、お祖父さんを亡くした衣笠さんも引き続き気がかりだ。LINEを送ったら、いまは地元の友だちが家に来ていっしょに過ごしているから、少し落ち着いたとのことだった。


 その他、ブライダルトレインの準備や駅リニューアル工事の打ち合わせ、駅の監視等の通常業務もあり、お盆時のゆったりした時間の名残は瞬く間に消え去った。


 シャンプーはあまり泡立たず、コンディショナーは栄養成分の殆どが髪に吸収されベタつかない。


 それでも上ほうじ茶を飲んで一時的に頭が冴えているからか、きょうの出来事を思い返したり、物事を考えたりはできる。飲んでいなかったらネガティブなことばかり考えてしまうから、上ほうじ茶は合法的な精神安定剤といって良いだろう。悪夢も見にくくなる。


 なお、薄めに淹れたり廉価品を飲んだ場合の効能は薄いようだ。高級品を濃いめに淹れる、ボロ家住まいでもできる贅沢が、僕の日常を辛うじて繋ぎ止めているようだ。


 ほんとうは毎日マッサージを受けてよく眠りたいところだが、典型的な日本企業の現業社員がそれを実行するのは時間的、経済的に極めて困難だ。


 洗顔、洗体、シェービングを済ませ、浴室を出て微風モードでドライヤーを使用。深夜なので騒音には気を付けたい。


 台所でコップ1杯ずつ水とスポーツドリンクを飲んだ。風呂上がりのドリンクはからだに染みる。どうやら僕は生きているようだ。


 居間に目を遣ると、三浦さんが体育座りでアニメを見ていた。作品内容はわからないが、いま流れている次回予告を見る限り日常モノだろう。


「さて、寝ましょうか。本牧さんはこの時間、テレビはご覧になられてますか?」


「いえ。だいたい消灯して寝転んでます」


「普段から眠れないのですか?」


「えぇ、なんだか疲れが抜けなくて」


「そうですか。では、少々マッサージでもいかがでしょう? 私、得意なんですよ」


「いいんですか」


「私のせいでこんな時間まで就寝できていないのですから、そのくらいはさせてください」


 ということで、ふたり同時に歯を磨いた後、寝室に入ると……。


 僕の布団が来客用布団と並べて敷かれていた。


 理性が持つだろうか。


「ふふふっ、お泊まり会って楽しい」


「それは良かった」


 無邪気に言われてしまうと、マッサージをしてもらったら僕は居間で寝ますなど言えないではないか。


「さあ、まずはうつぶせになってください」


 三浦さんの指示通り、自分の布団上でうつぶせになると、首の付け根を人差し指で強めに押された。


「あぁ、極楽だ」


「良かった。あまりやると揉み返しで翌日つらいので、控えめにしておきますね」


「はい~」


 力なく間抜けな声が出た。


 首筋、肩、肩甲骨の内側、腰と、足の先までくまなく押された後、仰向けになって頭のマッサージが始まった。


 三浦さんは僕の頭上に正座している。僕は枕の上で頭部を動かし位置を調整した。頭皮、こめかみ、顎までなめらかな指使いで、プラスアルファ彼女のやわらかな指の感触や香りが疲れきった心を癒す。


 その間、僕らは無言で、古い照明器具に垂れ下がったひもを引いて点灯時にピカピカっと音がする灯りに幻想的な感覚を抱いた。


「よし、これでどうかしら?」


「もう、本当にすごく気持ち良かったです。お店だったら6千円くらいかかりますよね」


「ふふふ、そうね、プロの施術せじゅつは私よりずっと上手ですもの」


「いえ、遜色ないと思います。ほんとうにとても良かった」


「えー、ほんとうに?」


 何度か見た三浦さんの無邪気な笑み。高貴な姿もこの素朴さも、どちらも彼女の素顔だと、思ったのは何度目か。


「ほんとうですよ」


「そう、良かったらまた、連休の前日にでもじっくり」


「またやってくださるなら心底ありがたい」


 思わず表情が華やぐ。施術されている間は本当に天国だった。これはクセになる。


 照明器具の紐を引き、寝室はぼんやりオレンジに包まれた。僕らは仰向けになり、布団を掛けずに天井を仰ぐ。


「朝は、何時に起床されますか?」


「6時5分前ですね」


「わかりました。お朝食の準備、させていただいてもよろしいでしょうか」


「ありがとうございます。冷蔵庫は寂しいですが、玉子とベーコンとサニーレタスなら入ってます」


「目玉焼き? それともスクランブルエッグ?」


「どっちも、ですね」


「ふふ、そう。わかりました」


 普段の朝食は出勤途中に購入するコンビニのおにぎりだが、せっかくつくってくれるのなら厚意に甘えよう。


 朝食の話で気を紛らわすも、女性経験は2桁ある僕でも女神を傍らに劣情を禁じ得ない。


 のだが、陰部は絶好調なのに、脳はこれまでにないほど麻痺していて、みるみる意識が遠退いてゆく。


 マッサージ効果だ。


 ここまで織り込み済みとは、さすが三浦さん。トッププランナーは伊達なものだ。


 そう思ったとき、衣笠さんがたまに漏らす愚痴が脳裏に浮かんだ。


 宮城の人はなんでもかんでも伊達伊達って。じいちゃんたちもあんな大酒吞みで迷惑千万なのに俺たちは伊達な男だって。これじゃ伊達の名折れですよまったく。


 そんなことをよく漏らしている。


 どうも洗練されていない人たちまで易々と伊達を名乗って仙台の穏やかで雅なイメージを失墜させたくないらしい。


 彼女のことを思い浮かべたら三浦さんに手を出したい気持ちは潮が引くように鎮まって、溶けるように夢へ堕ちた。


 目覚めたら隣に三浦さんはおらず、台所からフライパンでジュージュー調理する音が聞こえてきた。


 伊達な男になったつもりで眠った僕だが、夢の中では本能に正直なようだった。


 三浦さんに迫られ、行為に及んだ夢を見てしまったのだ。オーラルで終わったのだが、体躯のビジョンはリアルに焼き付いている。


 寝ぼけから徐々に覚醒し、上半身を起こした。


 マッサージをしてもらったおかげか、今朝は全身が驚くほどスッキリしている。鉄道会社は命を預かる仕事でありながらゾンビ化するほどの激務を強いられる。しかしきょうは就職以来最高にからだが軽く、しっかり気を引き締めて就業できそうだ。


 しかしそれに反して、陰部は腑抜け、ミイラのようにしぼんでいる。


 ま、まさか……。


 僕の推論が正解ならば、それはもう至極スッキリしているはずで……。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


 火を止めた三浦さんが僕の起床に気付き、皿に目玉焼きを載せながらこちらを見て言った。


「おはよう、ございます……」


 事実確認などする勇気はなく、僕は腑抜けた挨拶を返した。

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