大船駅で
21時。3時間残業をして勤務解放され、僕は過半数の座席が空いている電車で着席し、大船駅に到着した。今朝の事故などまるでなかったように、列車はダイヤ通り運行されていた。
ちなみにあの後、僕らとは無関係の路線でも人身事故があった。なんとも良くないことだ。
モヤモヤして落ち着かない僕は、ホームの端にある自販機でミルク入りの缶コーヒーを購入し、タブを起こした。
乗ってきた電車の乗務員室から何度か見かけた車掌が出てきて、約1分後に運転士が入った。そのタイミングで発車メロディーが鳴り、先に到着していた電車が折り返し発車。線路が空くと後すぐに次の電車が入線し、鴨居の赤いランプを点滅させながら客室のドアが開いた。
横須賀線や東海道線の電車の音も聞こえる。
こんなにたくさんの列車が走っているのだから、人身事故が発生する度にショックを受けていたら身が持たない。それは理解しているのだが……。
「あら、本牧さん。こんばんは、きょうは大変でしたね」
到着したばかりの電車から降りてきた華やかでどこか素朴な雰囲気を持つ不思議な女性に声をかけられた。衣笠さんが敬愛して止まない小百合さんだ。
「こんばんは。はい、大変でした。三浦さんはどうしてここに? 確か山手にお住まいでは」
山手。僕が勤務する駅と大船の間、横浜市内の山間部に位置する高級住宅街。閑静な住宅地から俯瞰する華やかなヨコハマの夜景はエキゾチックで心が躍るのに、周囲の静けさが切なさを誘う叙情的な街だ。
「はい、でも、ちょっと横浜の外に出たくて、明日がお休みの夜は電車を乗り越して、大船や茅ヶ崎みたいな個性的な街におじゃまするんです」
「大船と茅ヶ崎では方向性こそ違えど、どちらも砕けた雰囲気の街ですからね」
大船は鎌倉市内といえど、歴史情緒ある上品で落ち着いた雰囲気ではなく、どちらかというとワイワイガヤガヤしたディープな街。他者同伴ならまだしも、三浦さんが単独で通うとは意外だ。
茅ヶ崎は大船のような大衆酒場もあれば落ち着いたバーやレストランもある多彩な街。陽が落ちると同時に隠れ家的な雰囲気が醸し出される、工夫を凝らした秘密基地のようなどことも似つかない風情がある。
「えぇ、つい長居して終電を逃してしまい、ホテルに泊まったりもします」
「いいですね、そういうの。これからどちらへ?」
「それが、決めてないんです。どこでも良いのですが、選択肢が多いだけにかえって迷ってしまいます」
「うーん、何か食べたいものや呑みたいお酒などはありますか?」
「そうですねぇ、お酒は飲み放題でなくても良いので、ある程度質の良いものがあれば。候補はいくつかありまして、高級過ぎず騒がし過ぎず、チェーン店か個人店は問わず、といったところです」
そういうお店は僕が勤務する駅周辺に多いのだが、気分転換に出てきた彼女を地元へ追い返しては本末転倒。
「あの、もし宜しければ、本牧さんもごいっしょにいかがですか?」
「はい、ではぜひ。ちょっとモヤモヤしていたので、少しお酒を呑みたい気分です」
ということで迷った挙句、互いにここにしましょうと同意した僕らはとあるチェーン店に入り、個室に案内してもらった。カジュアルでありながらある程度落ち着いた雰囲気の中で時間を過ごせる店だ。飲み放題プランもあるが、好きな酒を呑みたいので敢えてそうしなかった。
刺身が売りの店だが、三浦さんは僕を気遣ってか刺身を注文する気配がなく、シーザーサラダや揚げ物がテーブルに並べられていった。




