だから私が必要なんだ
深い眠りから覚めた、からだは重いけれど、それなりに疲れが取れた気持ちいい朝。本牧さんは既に起床したようで、私の腰には薄手のタオルケットがかけられていた。
いつもと変わらない11時半なのに、夏の太陽は高くて日当たりは良くないのに、漂う空気はどこか神秘的できらきらしている。
好きな人といっしょにいる幸せかな?
一瞬そう思ったけれど、この感覚は知っていた。それはあの、震災の日の朝。まさか半日後には家具が倒れ家の中が滅茶苦茶になり、沿岸部が壊滅するなんて思っていなかった。本当に、爽やかで穏やかな朝だった。
まさか、きょう関東を大きな地震が襲う? この辺りだと首都直下地震、東海地震、南海トラフ地震が懸念されている。
怖いなぁ。どうか思い過ごしでありますように。
「何度も言うけど、イヤホンを装着して外を出歩いたら危険だよ」
地震を懸念して不安感に駆られていると、リビングのほうから本牧さんの声が聞こえた。
たぶんスマホの人工知能と会話してるんだ。私もするけど、彼もやっているとは意外。ふふ、可愛いところもあるんだ。
まだ彼の温もりが残る布団に頬を擦り付け、手脚を畳んでぎゅっと縮こまる。もう少し眠っていれば、きっとからだが軽くなる。でも、なんだか眠れない。
全身の力を抜いて仰向けになったら、彼との記憶が呼び起された。
本牧さんと出逢って4ヶ月半。とうとう私は彼と一夜をともにした(それだけで何もないけれど)。
駅事務室で仕事の話をしたり食事をしたり、いっしょに宮城を巡って実家に行って、即売会に行って今日がある。
本牧さんは仕事熱心で、ちょっといじわるだけど優しくて、目の前にいる人たちや社会の幸せを願って行動している。心安らげる駅をつくりたい、線路に人が落ちないようホームドアを設置したい。そんな話を常々している。
そんな志を持っているのはとても素敵だと思ったし、私みたいに人を幸せにしたくて働く人が他にもいるんだと、自分に自信が持てた。両親や友だちは前述のような人ばかりだったから。
じいちゃんばあちゃんは戦後復興のために必死で働いたというけれど、それはもう昔話。いま私たちが復興や発展のために働くとすれば、お金儲けではなく目の前にある瓦礫を片付けたり、被災地の特産品をアピールしたり、被災地でなくても困っている人に手を差し伸べるとか、そんなことだと思う。
本牧さんのアイデンティティーだけを拾い上げれば、彼は心豊かで慈愛に満ち溢れ、色んな人の優しさに触れてきたのだろうと、普通の人ならそう思う、と思う。
でも、それは何か違うと私が思ったのは、実家でじいちゃんばあちゃんとおしゃべりしているときだった。
なんというか、彼はじいちゃんばあちゃんから泉のように無尽蔵に湧き出ているものを、乾いた地に水が染み渡ってゆくように吸い取っているように見えた。
じいちゃんばあちゃんから湧き出るもの。それは私が両親と接しているときに、二人に吸い取られるのではなく、換気扇のそばに置いた熱湯のように、みるみる蒸発して冷たくなるもの。
彼の心の器は海のように広い。けれど水は、アスファルトにできた水たまりほどしかない。そんな気がした。
きっと彼は愛しかたを知っている。
けれど、愛されかたを知らない。
昨夜のお風呂でも、いっしょに寝たときに見た大きな背中も、どこか寂しさを物語っていた。
彼には未来ちゃんみたいな人が合っている。
端的に言えばそんなことを、以前小百合さんが言ってくれた。
あのときはどうしてエリートさんより私のほうが彼に適しているのかイマイチ腑に落ちなかったけれど、いま仰向けになって、その意味の片鱗を掴んだ気がした。
私は、じいちゃんばあちゃんから貰った温もりを、たくさん持っている。
でも本牧さんは、ううん、花梨ちゃんもあの人も小百合さんも、あまり人の優しさには触れてこなかったんじゃないかなって気がする。3人も、どことなくぽっかり穴が開いている感じは、本牧さんと同じ。私だって、じいちゃんばあちゃんといっしょに暮らしていなかったらそうなっていたと思う。
ぜんぶ勘だけど、4人にないものを、私は持っている。でもそれは特別じゃなくて、本来みんなが持ってなきゃいけない、自分を大切に想ってくれる人から授かる温もり。愛。
もしかしたら線路に転落した私を一瞥して去ったあの人も、成婚後すぐに離婚してしまった何組かのお客さまも、通勤電車で空いていた席に座ろうとした私を突き飛ばして座る数えきれないほどたくさんの人たちも、同じなのかもしれない。この窮屈な日本は、もう限界を迎えている。私だって日々神経を擦り減らし、寛容という体の諦めを重ね、もういくらか感覚が麻痺していると思う。
こう結論付けると、世の中を少しでも優しくしたい。だから大きな会社で多くの人が利用する駅を良くしてゆけば、その想いが連鎖的に広がってゆく。そんな本牧さんの想いに合点がゆく。多くの人が抱える痛みを自分も知っているから、自ら行動を起こしてそれを変えてゆきたい。ということだ。
でも、彼自身が温もりを得られなければ、いつか限界が来る。だから私が必要なんだ。
小百合さんのたった一言には、そういう意味が込められていたんだ。だぶん。
希望的観測をしていたらすっかり目が覚めてしまったので、そろそろ起き上がろう。




