街が目を覚ます頃に
本牧さんが寝静まり、私もそろそろ眠ろうと思う。
客間の襖を顔一つ分そっと開けて彼の寝顔をちらりと覗いたけれど、寝息が深い。普段から心身に大きな負荷をかけて日々を送っているのだと、それだけで察せた。
駅の様子を花梨ちゃんから聞いた話をもとに想像してみる。
電車が来て、たくさんの人が乗降して、不道徳な人が思い込みの正義を振りかざして理不尽なクレームをぶつけてきたと思えば、会社の上役からは理に敵わないことを強要される。
自駅や自社路線でなくても近場の鉄道で事故やトラブルが発生してひとたびダイヤが乱れれば、ただでさえ混雑している電車が更に混雑。駅は入場規制で大混乱。その他色々あって、善かれと思ったことはほぼ裏目に出るし、徹夜勤務が多くてあまり眠れない。大意なき入社は絶対にやめたほうが身のため。入りたいなら強い意志を。
そんなえげつない環境で日々を送る彼に私は、灼熱蒸し風呂の即売会でトドメを刺した。
悪いことしちゃったな。
それでも少しくらいは楽しんでくれたみたいだから、ほんのちょっとだけ救われた。
テーブル上の同人誌たちを抱え、オレンジの豆電球すら点いていない自室に入った。それらを本棚の同人誌を集約した段に収め、ベッドに腰を下ろして横たわる。
同じ屋根の下に好きな人が眠っている……。
夜這いしたところで何も起きないのは承知だけど、横で眠るくらいはしてみたい。
やめようかな、どうしようかな。夜這いしようかやめようか考え中……。
なんて古いネタを脳内リフレインしていたら、空が瑠璃色になってきた。もう街が目覚めるころだ。
ディープな街のカラスが鳴き、東西の大動脈を電車が駆け巡り、空が白んで陽が昇る。
その脈動とは裏腹に、私の意識は遠退き始め、正気を失う。
特に何も思うことなく私は起き上がり、部屋を出て客間の襖をそっと開けると、彼はこちらを向いて寝息を立てていた。いびきではないけれど、相変わらず深く呼吸している。私はその背に回り込み、横たわって目を閉じた。普段の自分では考えられないほど思い切った行動と認識しつつも、自室に戻る気もなければ、起き上がる体力的余裕もない。
やっぱり大きな背中だな。
まどろみ目を閉じやがて、私の意識は途絶えた。
◇◇◇
きらきらきらと、輝くような音が頭の耳から後ろを覆うように聞こえてきた。
蒼穹の下、広い広い丘陵地の草原に、ぽつり立つ自分。少し先には小川が流れていて、その向こうの空は白んでいる。
生涯で初めて訪れた場所だと思う。けれど何度か通った場所のような気もして、川の向こうへ行けば旅は終わる。なぜかそれを知っている。
孤独の地を撫でるやさしい風は、川せせらぐ北から吹いている。方角なんてわかるような場所ではないのに、なぜ北だとわかるのだろう。
あぁ、なんて心地良い風だろう。
もうじき旅が終わる。帰れば久しく会っていない、余計な気遣いなどいらない、ありのままの自分でいられる仲間が待っている。
思えば大変な旅だった。世界には本当に色んな人がいた。想像以上に醜悪だった。
争いを好み、領土や食料を奪い合うだけじゃない、減りもしない道さえ、我先にと割り込んで行く醜い世界。終わりなき挑戦などと美辞麗句を並べて、自分もそれを美徳と信じ込んで、ある日その愚かさに気付いた。終わりなき挑戦の意味を履き違えていた自分に気付いた。
しかしそんな中にも、我が帰すべき場所ほどでないにしろ、心優しき者はいた。その者たちの幾人かは、自分とともに旅路を歩んでくれた。
ありがとう。
そう心から思えた旅は、途中に何があったとしても間違いなく良い旅だ。
また旅に出る機会があったなら、またよろしく頼みたい。
お読みいただき誠にありがとうございます!
今回より毎週日曜日の更新となりました。そしてさらっとですが、物語はまた次の段階へと進み始めました。
引き続きご愛読のほどお願い申し上げます。




