浴室の甘い残り香
瞑想に耽りたいとか言って衣笠さんに先に入浴してもらったが、特に何かを考えたり知的な思想を巡らせることはなく、後ろ半身を包み込むソファーに身を委ね、ぼんやりしたりスマートフォンでニュースをチェックしていた。
その中にあった記事の一つに件の即売会の入場者数は約60万人というものがあった。いくつかの県庁所在地の人口を上回る数だ。
アニメや漫画はこれほどまでに購買力の高い者が集まるジャンルなのかと、会場の汗で汗を洗う人混みを思い出しながら僕は改めてその力を感じた。
「お待たせしましたー。ふわぁ~眠くなってきた」
かれこれ小一時間ほどかけて湯浴みを済ませた衣笠さんは緑の長ズボンジャージと黒いTシャツを纏い、風呂上がり独特の湿気を帯びた甘い香りを漂わせている。
「おやすみなさい。僕もお風呂、失礼します」
「は~い、ごゆっくりどうぞ~」
欠伸を繰り返す彼女は冷蔵庫を開けて大型ペットボトルの水とスポーツドリンクを出して、まず水をコップに注ぎ一気飲み、続いてスポーツドリンクも同じように一気飲みしていた。合計360ミリリットルくらい。
僕は借りたタオルと着替えを持って脱衣所へ向かった。
浴室に入るとまだ湿気とアロマティックな甘い残り香が充満していて、肩の力は抜けてゆくのにどこか高揚感が胸の中を駆け巡る二律背反の不思議な感覚を味わう。同じ女性用のシャンプーの香りでも母親の入った後の浴室は特に何も感じないのに、他所の女性が入った後は心が躍る。これが男の性というものだ。昨夜は僕が最初にシャワーを浴びたので、この感覚はほぼ無かった。昨夜は僕が最初にシャワーを浴びたので、この感覚はほぼ無かった。
ラックに柔軟剤でふんわりフローラルな香りのタオルを掛け、シャワーを浴びる。自宅なら次は入浴だが、ここでは全身の洗浄およびコンディショニングを先に済ませた。
これで浴室でやることの最低限は完了。シェービングは脱衣所でする。
僕の右横には保温のため3枚のプラスチックの蓋を被されたバスタブ。
足を畳まなければ入れない自宅のより1.5倍くらい長く、実に優雅なバスタイムを満喫できそうだ。
蓋を一枚取り外してみると、若干とろみのある白濁液から湯気が飛び出て僕の頭部を包み込んだ。
なんという生活格差だ。
昨夜も思ったが、入りたい、入ってしまいたい。入ったからって彼女は怒らない。ごゆっくりと言ってくれたし。
これまで女性とともに同じバスタブに入浴した経験は数えきれないほどあるが、今の僕は奥手な中学男児のように入る? 入らない? 入りたい! を繰り返している。
ここでふと、ある名言が脳裏に浮かんだ。
人生、やらずに後悔よりやって後悔。
別に犯罪ではなく、彼女も入浴を勧めてくれている(と思う)。これは単に僕の中だけ葛藤の問題だ。他者に邪魔されることはない、困難もない、極めて達成容易なミッションだ。
こんなことで躊躇っていたら、これから立ちはだかるであろう壁に敵前逃亡し、後悔の渦の中生涯を終えることになる。そんなのはイヤだ。生きる喜びを噛み締めたい。
よし、入ろう。
意を決した僕は白濁液もといミルキーバスへおもむろに爪先を差し込み、そのままズボズボと鳩尾までを沈めていった。
「うおおお……」
極楽だ。思わず感嘆してしまった。
ぐうっと脚を伸ばすと全身の強張りが一気に解れてゆき、からだの歓喜を実感する。
なんという極楽だろう。彼女はこんなにも贅沢な日々を送っているのか。追い炊きしつつ、このままここで朝まで眠ってしまいたいくらいだ。
まどろみながら、自ずと少しずつ吐出してゆく息に籠った日頃の淀み。良き環境は良き人を創り出す。からだもココロも軽くなれば、思考の巡りもクリアになる。
脳にアルファー波が駆け巡りリラックスしてきたところで、僕の心身は次なる欲求に目覚めた。
ここには湯も冷めぬほどの時間差で衣笠さんが入浴していた。
また、そんなことを考え始めた。
満たされぬ感情や欲望は挫折や達成、失恋や成就といった何らかの節目を迎えるまで堂々巡り。
しかし負の経験を知らぬものはそれをおかしい、イカレていると浅はかな思想や小さな器で嘲笑う。世の中では多種多様な問題が発生するが、心理的要因に因るものは概ねそこを掘り下げてゆけば動機を突き止められる。内容や程度により行為自体が許されるかは別だが。
まぁ、このくらいなら彼女に黙っていれば許容範囲だろう。逆に彼女が僕に好意を抱いていると仮定すれば、僕と同じ妄想をしている可能性も捨てきれない。
世界には成人になっても性欲の湧かない人間も存在するというが、それはレアケースであろう。
純愛と性欲は相反するものというが、僕は別物だと思う。S極とN極のように混在できないものではなく、共存できるものと思う。セックスレスの純愛が存在して、尚且つ少なくともカップルのどちらかには性欲がある。そんなケースだって多分にあると思う。
こんなことを考えているうちにまた脳が重たくなってきたので、改めて心を無にしてリラックスしよう。
ふぅ、ふぅとまた、滞留物が吐き出されてゆく。
あぁ、眠くなってきた。
湯の温度が下がれば自ずと目覚めるだろう。
せっかくこんな贅沢を許されているのだから、思う存分満喫するために、からだが求めるまま意識を委ねよう。
お読みいただき誠にありがとうございます&あけましておめでとうございます。
本作では2018年最初の投稿です。今回は文庫本3ページ弱分の文字数となりました。
次回は未来が自室にいながら大変なことになります。お楽しみに!




