鉄道人身傷害事故
「あれは、もうじき桜が咲く今年3月下旬、衣笠さんが上京するほんの少し前の、カラッとよく晴れた日の16時ころでした」
和食チェーンを出て、久しぶりのあっさりした食事をからだは喜んでいるようでどこか重たかった腹部が軽くなった。
久里浜さんについての話をするには人気がなく落ち着いた場所が良いので、衣笠さんの提案で再び彼女の部屋におじゃましている。昨夜比3人減で、打って変わって寝息の聞こえない静かな夜だ。
男である僕を平然と招き入れて良いのかとも思ったが、僕が手出ししなければ問題ないわけで、ある部位については努めて大人しくしていることとする。
座卓に向き合い、夏だが敢えて温かいほうじ茶を出してもらった。葉を入れ過ぎたのか、先ほどの和食チェーンよりだいぶ濃いめに淹れてあるが、そのくらいのほうが今回は良い。気持ちを鎮静化させる意味で。
「当時僕は数えるほどしかお客さまのいないラッシュアワー前のホームを箒と塵取りを持ち一人で清掃しつつ、構内に危険物が仕掛けられていないかを確認していました。特に異常はなく、まだ明るい空に日照時間が長くなってきたなと上向きな気分で事務室へ戻ろうとしたとき、列車の接近を知らせる自動放送が流れたので自主的に注意喚起の放送を入れました」
「あれですね、まもなく、1番線に、各駅停車、大船行きが、まいります。っていう」
衣笠さんは駅構内で流れる自動放送の真似をした。意外と似ていて少々驚いた。
「そうです。仙台でもおなじみの途切れ途切れの合成音声です。そのとき僕は放送しながら9号車乗車口付近の階段に向かって歩いていました。まもなく電車が入って2両目が差し掛かったところで非常ブレーキをかけたと気付き、イヤな予感がした直後にドカーンって、大きな看板が落下したいな音がしました」
そのとき何が起きたのか察したであろう衣笠さんは、切なげにギュッと唇を噛み締めた。
「それが、僕が駅員になって初めての人身事故遭遇です。非常ボタンを押して事務室へ駈け込みその旨を居合わせた全員(その中に松田助役、成城さん、入社前の百合丘さんはいなかった)に向かって伝え、作業着に着替えヘルメットを被り線路に降りて現場を確認したところ、負傷者は見覚えのある中高年の男性でした。電車が来る数十秒前にはホームの壁際に座り込んでカップ酒を吞んでいたので、酔っ払てはいるけれどまさか轢かれまいと油断していました」
日常生活で鉄道人身傷害事故ほど凄惨な現場は滅多になく、具体的にどんな状況だったかは衣笠さんに配慮して控えておく。一般的にマグロのぶつ切り状態に似ていると言われるが、ワタ抜きしていないマグロのぶつ切りだ。
◇◇◇
駅構内に響き渡る女性の悲鳴、反対側のホームではスマートフォンで写真撮影をする野次馬や、ただ通過するだけの人々。
やがて駅社員からの通報により出動した救急車、消防車、パトカーのサイレンが聞こえてきて、現場の緊張感は一層高まる。
その間、僕らは負傷者のいる車両とその周辺のホームと線路上をブルーシートで覆い、駆け付けた警察官の監視のもと「せーの!」と息を合わせて、原形を留めず関節がおかしな方向に曲がった負傷者を車両の足回りから上手に引き出した。
情けないことに、その最中から救出活動が終了しても涙は止まらず、僕はホーム上で同僚はおろか、お客さまの前で醜態を晒した。
警察による現場検証と同時並行で、目撃者の僕と当事者の運転士はホーム上、先頭車両の運転台脇が止まった位置でいっしょに警察官から事情聴取をされた。その運転士こそ、久里浜さんだった。
泣き止みはしたものの、涙目で声が少々上擦っていた僕に対し、久里浜さんは淡々と、無表情で接触時の状況を説明していた。彼女いわく、当該車両は運転台の窓ガラス下に走行線区を示す太い水色の帯が引かれていて、その辺りに負傷者の頭が衝撃したという。
あぁ、鉄道員は心のない生き物だ。
これまでもそう思う場面は多々あったが、そのとき改めてそう思った。しかしこういった緊急時、冷静になれない者はこの業界に不向き。
聴取が終わると一気に全身脱力感に見舞われた僕は、視界がぼんやりしていた。
「やっちゃったの見たのは初めて?」
「はい」
それが、僕と久里浜さんの初めての会話。
「そっか。よくがんばったね」
そのときの彼女は、事情聴取を受けていたときとは別人のように慈悲にあふれたやさしい表情をしていて、僕の頭を、車両の鉄粉や泥の汚れが付着したヘルメット越しにそっと撫でてくれた。
公衆の面前で気恥ずかしさはあったものの、からだは理性を失って、僕はまた静かに涙をこぼしていた。
「すみません。でも……」
言いかけて、僕はやめた。
「でも?」
「いえ」
「そっか」
目の前で、命が散った。
かつて誰かのおなかの中で芽生え、産声を上げて、育っていって、歩んできた命が、ほんの一瞬で散った。
そう言いかけたが、電車を運転していた久里浜さんに、そんなことは言えなかった。




