吹雪
遠くでごうごうと風が唸っている。
夜に沈んだ冬山で、俺は手足をかき集める様に折りたたみ、ぎゅっと自分を抱きしめた。体はぐっしょりと重く、耳や鼻の頭は千切れそうな程、痛い。
自分の足跡は雪にほぼ消され、僅かに残るそれを辿っても、先は木立の奥にうずくまる白い闇に飲み込まれてしまっていた。
バサリ、塊が足先に落ちた。雪だ。
ここで、死ぬのだろうか。
手に息を吹きかけているが、一向に温まらない。小指を一本、口に含んでみた。
背筋にツルリと一筋伝う。嘘だと鼓動が叫ぶ。
さらに強く噛んでみる。やはり何も、感じない。本当に、なんにも……。
指を噛んだまま、固く目を閉じた。
母ちゃん。俺はただ、母ちゃん膝の上に、もう一度……もう一度だけ。母ちゃん……。
母を呼んだつもりが、半分も声にならず、厳然たる雪風に浚われてしまった。
やはり、死ぬのだ。諦めが絶望に沈む。
と、怪物の唸り声のような風音の隙間に、何か違う気配がした。
ドキリとして、耳をすませる。女の、か細い声だ。初め泣き声に聞こえていたそれは、やがて歌なのだとわかる。
ねんねの……よい……と……
膝の上で繰り返し聞いた、子守唄だった。
「かあ……ちゃ……」
目を開ける。もう数歩先さえ見えない。
でも、これは歌だ。確かに、母ちゃんの歌だ。
力が抜け、膝を抱え直すと小指を、今度は噛まずに赤子の時のように吸ってみた。
鋭かった風が、優しい母の手のような感触に変わった。濡れた小指にそっと絡まる。
「かあちゃん」
酷く幸せな気持ちになって、目を閉じる。
しろいやま……しろいとり……
歌は耳朶に柔らかく触れ、眠りを誘う。俺は身をゆだね、歌の合間に聞こえた声に小さく頷き小指を曲げた。
と、闇の向こうで光が灯った。それは見る間に数を増やしていく。名を呼ぶ父の声がした。俺は立ち上がった。
ここだ、ここにいると、手を振ろうとした。が、その手を止め振り返る。
ポタリ。
何かが落ちた。それは雪より軽く、赤く、赤く、赤い……。
歌はいつの間にか、止んでいた。
――
「お……さ……おおつ……大槻さん!」
体が激しく揺さぶられている。酷い二日酔いのように、頭は重く気分が悪い。
「大槻さん! しっかりしてください!」
あぁ。この声は高橋だ。自分は、一体どうしたんだ? 昨日、そんなに酒を飲んだっけか? いや、違う。そうだ。俺は――。
ざっと血の気が引いた途端、鼻をついたのは油の燃えるすえた臭いだ。体中のそこかしこから痛みが一気に噴き出る。熱い。
「大槻さん!」
再度、高橋の悲鳴が聞こえ、薄く目をあける。視界いっぱいに、高橋の髭面が飛び込んできた。右半分を赤く染めたその顔は、一瞬、このナミビア支社にやって来た時のような、手放しでこちらを頼り、無邪気に緩む顔になる。が、それもすぐに、強張った。
「もう他はダメです。火が、さっき着きました。すぐにここを離れましょう」
有無を言わさず、高橋はその分厚い体に俺の腕を巻きつかせた。
「落ちたのか? 場所は?」
「ええ。落ちました。あっという間でした。飛行時間から考えると、ちょうどウィントフックとウォルビスベイの中間でしょうね」
「たった二十五分のフライトだぞ?」
「たった十五分で砂漠に落ちました」
彼もどこかに痛みを抱えているのか、時折声に淀みを見せたが、ツアー企画のプレゼンに比べればずっと落ち着いていて、俺は少し安心させられた。
残骸と化した飛行機内は、シートも荷物も、もちろん人も散々ばらばらになっていて、乱暴に赤や茶色や橙を塗りたくった、抽象画のようになっている。瓦礫を避けながら歩く俺たちに熱で膨張した空気が、容赦なく襲いかかる。たまらず腕で顔を覆った。
乗組員二〇名の中古セスナが、一体どういう原因で、どのように墜落したのか、途中から意識を失っていた俺には、わからない。
足が何かに挟まっているのか、異様に重い。
「下は見ないでください!」
高橋の鋭い声が、俺の視線を叩いた。高橋はその体格に似あわぬつぶらな瞳を歪めた。
「すみません。でも今は、前だけを……」
頷きながら、足を動かそうと力を入れてみる。しかし……。
凄まじい轟音と衝撃を感じたのは、あの時と同じだと笑ったのと、ほぼ同時だった。
「大槻さん……何か話してくださいよ」
何時間を、こうやって過ごしただろうか。太陽に無造作にさらされた砂地の上で、高橋は横たわったまま呟いた。奴の視線の先のセスナは、ようやく鎮火し始めていて、剥き出しになった鉄骨は、太古の恐竜の化石を思わせた。俺は、先の無くなった自分の足首を強く縛りながら顔を上げる。
汗は出きってしまったのか、首筋にじんわり滲む程度だ。大丈夫かと問おうとして、唇を噛む。「助け、すぐ来ますよね?」という声が、さっきより弱くて、慌てて言葉を探す。答えではなく、この現実から逃避するための、言葉だ。
「お前、里は福岡だったな。雪は降るのか?」
「砂漠で、雪の話っすか? ははっ……あまり、降りませんよ。そういや大槻さんの小指って」
言われて自分の左手を見る。
「赤い山に持ってけば、赤い鳥がつつく」
高橋が不思議そうな目を向けた。
「ガキの頃、お袋が死んだんだ。熱を出した俺のために、医者を呼びに冬山を越えようとして、谷に落ちたんだと。だが、見つかったのは車だけで、母さんは出てこなかった。遺体は山犬に食われたんだろうと、村の人間は噂した。俺は諦められなかった……」
日が傾き、背後から夜が忍び寄って来る気配がしている。砂丘の果てにはさらに、砂丘が連なっている。所々、岩や乾いた緑が見えるが、優しさなどこれっぽちも見当たらない。
夜が来れば、今度は凍えるような寒さが訪れるはずだ。捜索隊が自分たちを見つける確率も下がるだろう。
俺たちはここで死ぬのだ。
「で、どうしたんすか?」
「あ、あぁ。それで、俺はまだ熱も下がらないうちに、独りで雪山に探しに行ったんだ。当然、迷った」
あるべき道がなくなり、来た道すらも吹雪に閉ざされた。歩けば歩くほどに、白い迷宮に迷い込み、おっかなくて、寒くて、ついには動けなくなって木の根もとに蹲ったのだ。
高橋が、遠慮がちに先の欠けた小指を見た。
「凍傷……っすか」
自分で噛み切ったと思われてる小指。
でも、そうだったか?
小指の記憶を探る。痛みではない感覚が、あるはずのない指先に今も残っている。
いや。これは……凍傷なんかじゃない。
ぼやけていた記憶が、急速に鮮明になっていく。「あ」小さく声を漏らした。
「指きりだ……そうだ、指きり。俺は、指きりしたんだ」
と、いきなり砂塵が舞い上がった。「わっ」と声を上げるすぐ傍の高橋すら見えなくするような強烈な風に、目を細める。
砂漠に降り注ぐ夕日の中、砂は世界を無尽に飛び回り、視界を完全に奪う。風音がごうごうと怪物の唸り声に変わっていく。
歌が、聴こえた。
頬を打つ風が、急に身を切りつけるものに変わった。息を飲む。己の目を、疑った。
舞っている。数多の純白の欠片が、灼熱の砂漠に舞っているのだ。
……あかいやまへもってゆけば……
歌。母ちゃんの、歌だ。
ぐっと小指のない拳を握りしめる。
そうだ、そうだった。 ごめんよ、母ちゃん。忘れてた。俺、指きりしたのにな。母ちゃんの分まで、一生懸命、生き抜くって……諦めないって。
拳に、そっと何かが重なった。
「母ちゃん?」
風が、安心したように急にたわんだ。
慌てて何かを引き留めようと腕を突き出す。が、無数の雪は指の間をすり抜けるばかり。その間にも、歌は遠ざかっていってしまう。
「母ちゃん!」
とうとう、風が止むとともに、歌声は彼方に消えてしまった。
見渡す。さっきのが嘘のように、雪など一欠片もない。広がるのは寂寞の砂の世界。死を待つだけの……。
「いや」
俺は口の中の砂を噛むと、気を失っている高橋を肩に担ぎ、力を振り絞り立ち上がった。
足は、あの日の雪のように砂に埋まってしまう。先は、全く見えない。でも……。
ぐっと小指を曲げる。
その時、地平線に何かが見えた。目を凝らす。息をのみ、次の瞬間、思わず声を上げた。
「捜索隊だ! 高橋! 捜索隊だぞ!」
砂塵を巻き上げ、数台のジープがこちらに向かって来ていた。
肩に担いだ高橋を揺さぶる。奴は朦朧とした目をあげた。高橋は「助かったんすね」と小さく笑うと、ふと目を上げた。
「先輩。さっき雪、降りませんでしたか?」
俺は瞬きし、思わず笑った。
砂漠の冷たい風が、小指の先に触れて東の一番星に吹き抜けていった。
了
パソコンを整理していて出てきた作品です。
削除の前に、投稿させていただきました。