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私の恋文を人前で読み上げた婚約者へ。その「冗談」には、もう付き合いません

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/12

「『あなたと二人きりで話す時間が、もう少しほしいのです』」


 アンセル様の声が、いつもより高くなる。

 私の声を真似たつもりなのだと分かったとき、紅茶のカップを持つ指が冷たくなった。


「この前も会ったばかりなのにね。僕の婚約者は、どうやらずいぶん寂しがり屋らしい」


 窓際で二人が笑った。

 私も笑えば、それで済む。

 いつもなら、そうした。


 けれど彼の手にあるのは、昨日、何度も書き直して送った手紙だった。

 書き出しの挨拶も、最後の署名も、あの紙にはある。何度も迷いながら選んだ言葉を、彼は笑いを取るための声で読んでいた。


「やめてください」


 思ったより小さな声になった。

 アンセル様は紙から顔を上げた。


「何を? まだ、ここしか読んでいないよ」

「その手紙を、人前で読むのをやめてください」


 窓際の笑い声が途切れた。

 私の隣で、母がカップを置く音がした。


「それは、あなたにだけ読んでほしくて書きました」


 アンセル様は、困った子を見るように笑った。


「ここにいるのは親しい人ばかりだろう。そんなに真面目に受け取らなくても。冗談なんだから」


 親しい人ばかりだった。

 だから、つらかった。

 これからも会う人たちの前で、私は寂しがり屋の娘になる。次に何かお願いをすれば、今日の手紙を思い出されるかもしれない。

 そのことを、あなたは一度でも考えただろうか。


「アンセル様」


 この家の女主人が、彼の名前を呼んだ。


「おしまいになさってください。ご本人が嫌だとおっしゃっています」


 彼はようやく紙を畳んだ。

 母の手が、私の手に重なる。


「帰りましょう、オリアーヌ」


 立ち上がると、膝が少し震えた。

 アンセル様が、慌てて椅子から腰を浮かせる。


「待って。大げさだよ、たった一度の――」

「一度ではありません」


 そこだけは、はっきり言えた。

 扉のところで振り返ると、彼はまだ手紙を持っていた。

 返してください、とは言わなかった。

 返してもらったところで、書く前の私には戻れない。


 ◇


 二年前、初めて二人で劇場へ行った日。

 私は帰りの馬車で、喜劇の話を止められなかった。


「主人は、召使いが嘘をついていると思っていましたけれど、あの場面では、召使いの言うことだけが本当だったでしょう」


 途中で気づいて、口を閉じた。

 隣のアンセル様は、私を見ていた。


「すみません。私ばかり話して」

「どうして謝るの? 続きを聞いていたのに」


 母も同乗する馬車の中で、私はもう一度、話し始めた。

 彼は舞台の順序を忘れていて、私が説明すると「ああ、そうだった」と笑った。

 翌週届いた手紙には、次に上演される演目が書いてあった。


 その手紙は、今も箱にしまってある。

 あのとき嬉しかった気持ちまで、嘘だったことにはできなかった。


 変わり始めたのは、半年ほど前だった。

 私が子供の頃、家の庭で迷子になった話を、彼にした。

 生け垣の間で泣いていた私を見つけたのは、私を捜していた父ではなく、庭師の飼い犬だった。

 今なら笑える、小さな失敗。


 次のお茶会で、アンセル様はその話をした。


「オリアーヌは、自分の家でも迷ってしまうんだ。結婚したら、部屋の扉に名札をつけてあげないと」


 私は笑った。

 彼が話している間、ほかにどんな顔をすればいいのか分からなかった。


 そのあとも、貴婦人の名前を言い間違えたことや、初めて舞踏会へ行った日に緊張で朝食を食べられなかったことが、彼の話題になった。

 私が黙っていると、「本人が話すより面白いだろう」と彼は得意そうに言った。


 二人になってから、やめてほしいと伝えた。


「皆、楽しんでいたじゃないか」

「私は、楽しくありませんでした」


 そこでようやく、彼は謝った。

 二度目は、母にも相談した。

 父がボーモン伯爵に事情を話してくださり、アンセル様は我が家へ来た。


「もうしない。君がそんなに嫌がっていたとは知らなかった」


 私は、今度こそ伝わったと思った。

 父には、もう少し彼と話してみたいと言った。

 劇場の帰り、続きを聞いてくれた人を、まだ好きだった。


 だから、昨日の手紙を書いた。


『最初に一緒に劇場へ行った帰り、私の話を聞いてくださったことを、今も覚えています。

 最近は、大勢でお会いすることが増えましたね。

 あなたと二人きりで話す時間が、もう少しほしいのです。

 私の失敗を皆様の前で話されるのは、やはりつらく思います。

 また、一緒に劇場へ行きませんか』


 甘い言葉を書くより、勇気が要った。

 それでも書いたのは、終わらせるためではなかった。


 帰宅して着替えたあと、父の書斎へ行った。

 母が先に話していて、父は椅子から立ち上がった。


「オリアーヌ。今度はどうしたい」


 以前も、同じことを聞かれた。

 父は私が「もう少し」と答えるたび、いつでもやめてよいと念を押した。

 今日、その言葉にすがってもよいのだと、ようやく思えた。


「婚約を、解消したいです」


 父が頷く。

 私は続けた。


「あの方がまた謝ってくださっても、もう、手紙は書けません」


 父は机の上の便箋を手元へ引き寄せた。


「分かった。こちらの希望を、先方へ伝える」


 数日後、ボーモン伯爵夫妻が我が家を訪れた。

 アンセル様も一緒だった。

 彼は初め、私の両親に謝り、それから私へ向き直った。


「本当に、傷つけるつもりはなかったんだ。届いたばかりの手紙を持っていて、皆が婚約者の話をしていたから、つい」

「やめてほしいと、前にもお願いしました」

「だから、もう気をつける」


 父が口を開こうとした。

 私は、その前に言った。


「今日のように謝ってくださったことも、前にありました」


 彼は黙った。


「私は、嫌だと申し上げるたび、嫌がりすぎなのかと考えてしまいます。結婚してからも、同じことを考えて過ごしたくありません」


 ボーモン伯爵は、しばらく息子を見ていた。

 それから、私の父へ頭を下げた。


「以前のお申し入れを受け、私からも注意しました。守らせることができず、申し訳ない」


 婚約は両家の合意で解消された。

 贈答品の返却や、予定していた支度の清算は、両親が進めてくれた。

 私はアンセル様の手紙を箱から取り出して、リボンを解いた。


 読み返しはしなかった。

 手紙を箱へ戻して蓋を閉め、机の引き出しから、棚の奥へ移した。

 机には、まだ白い便箋が残っていた。


 ◇


 ひと月ほど経った頃、伯母の家の読書会へ誘われた。

 私がためらうと、伯母は「読むのは私たち。あなたはお菓子を食べていてもいいのよ」と言った。


 親族と、その家に親しい人を合わせて八人。

 客間の隅には、もう使わない古い楽譜台があり、今日はそこに戯曲が載っていた。

 私は挨拶をして、窓に近い椅子へ座った。


「オリアーヌ様。隣をよろしいですか」


 声をかけたのは、ロシェ男爵の息子、イヴァン様だった。

 以前、伯母の家で挨拶を交わしたことがある。

 そのときは、お互いに名前を言っただけだった。


「はい」

「これを読んだことは?」


 彼が表紙を見せる。

 私の好きな喜劇だった。


「あります。舞台でも、一度」

「僕もです。初めて見たとき、三幕の途中まで、弟のほうが本当の主人だと思っていました」

「それは……召使いと同じ間違いでは?」

「ええ。最後に騙されたと怒っていた彼に、僕だけは文句を言えませんでした」


 思わず笑ってしまった。

 イヴァン様も笑った。

 私はとっさに、膝の上で手を握った。


 彼の笑いが止まる。


「すみません。何か、嫌な話でしたか」

「いいえ」


 答えてから、もう一度考えた。


「違うんです。私は……話したことを、あとで大勢の前で繰り返されるのが、少し苦手で」


 誰のこととも言わなかった。

 彼も、誰かと尋ねなかった。


「今、僕が召使いと同じ間違いをした話は、あなたに笑ってもらって構いません。でも、あなたの話をほかの方にしてよいかは、別ですね」


 私は、彼の顔を見た。

 彼は戯曲を開き直した。


「ちなみに、弟が主人に見えた理由は、服が立派だったからです」

「お兄さんは、その服を貸したために困っていたのに」

「今は分かります。どうか、一度目の僕に教えてあげてください」


 また笑った。

 今度は、手を握らなかった。


 その日の読書会で、彼は召使いを読んだ。

 大げさに怒った声を出したあと、次の台詞を見失って、本当に困った顔をした。

 伯母が場所を教えると、彼は真っ赤になりながら続けた。

 皆が笑い、彼も笑った。


 帰り際、伯母に尋ねられた。


「どうだった?」

「次は、初めからお菓子ばかり食べずに聞きます」


 伯母は嬉しそうに、残った焼き菓子を私へ包んだ。


 ◇


 アンセル様の近況は、父から聞いた。

 あのお茶会の主催者は、ボーモン伯爵へ、しばらく息子を個人的な集まりへ招かないと伝えたそうだ。

 同席した二つの家も、同じ判断をした。


「一緒にいた人たちまで、手紙を読まれるのが怖くなったのですか」

「そういう話もあったようだ。ただ、いちばんは、客を守れなくなることだろう」


 父は私の顔を見て、続けた。


「本人が止めてほしいと言っても、冗談だと片づけ、主催者が制するまで手紙を畳まなかった。そういう客をまた呼ぶかどうかは、家の主人が決めることだ」


 父が何かを頼んだわけではなかった。

 あの場にいた人たちが、それぞれ決めたことだった。


 ボーモン伯爵は、息子に任せ始めていた家の会食の取りまとめも、自分のもとへ戻した。

 招く人や席順を決めるためには、表に出せない事情を聞くこともある。

 親しい相手のお願いさえ守れないうちは任せられないと、息子へ説明したという。


 それを聞いた翌週、アンセル様から面会の申し入れがあった。

 父が同席するという条件で、一度だけ会った。


 彼は以前よりも、きちんと服を整えていた。

 私の好きだった、襟元の青い飾りもつけていた。


「君が嫌がったことは、反省している」


 私は黙って聞いた。


「でも、あのあと、ずいぶん大事になってしまって。父の知人から紹介されるはずだった縁談まで、先方から見送られたんだ」


 父の知人が婚約解消の理由を尋ね、ボーモン伯爵は経緯を隠さなかった。

 その話は、私の父も先方から聞いていた。


「僕は、誰の秘密でも触れ回るような人間じゃない。君と僕のことだから、つい気が緩んだだけだ」


 彼は上着から、折り畳んだ紙を取り出した。


「来月の集まりの予定を尋ねたら、こう返ってきたんだ。毎年、僕も呼ばれていたのに」


 彼が開いて見せた返事には、今回は招待を控えること、先日の対応については既に父親へ伝えてあることが、短く記されていた。


「自分で謝りに行こうとした。でも、当分の訪問も遠慮してほしいと。ほかの二家も、同じだ」


 紙を畳む手つきが、もたついた。


「家の会食も、準備を進めていたのに、父に名簿を渡すよう言われた。客に手紙を書くのも、これからは父がするそうだ」


 彼はその返事をしまった。

 いつも次のお茶会の話をしていた人が、今日は、行けなくなった場所の話ばかりしている。


 彼が前へ身を乗り出した。


「君から、あの家の奥様に説明してもらえないだろうか。二人の間の行き違いで、もう気にしていないと」


 父の椅子が、わずかに鳴った。

 私は、膝の上の手を開いた。


「嫌だとお願いしたのに、やめてくださらなかった。それを、行き違いとは言えません」

「婚約を戻してくれと言っているわけじゃない。ただ、このままだと、僕は――」

「私が気にしていないとお伝えするのは、嘘になります」


 彼は唇を結んだ。

 続いて、ポケットから小さな箱を取り出し、私へ差し出しかけた。

 おそらく、何か贈り物だったのだろう。

 以前なら、何を選んでくれたのか気になった。


「それも、いただけません」


 彼は箱を戻さず、手の中で握っていた。


「前なら、君は僕の頼みを聞いてくれた」

「あなたのことが好きでしたから」


 彼の顔が上がった。

 私は、続けた。


「だから、あの手紙も書きました。また二人で話せるようになりたくて」

「それなら、もう一度――」

「あなたが読んでいたとき、私は、もうこの方には書けないと思いました」


 彼の指が止まった。


「オリアーヌ」

「これから誰とお会いになるかも、何をお話しになるかも、ご自分でお決めください。私に、取り繕うことを頼まないでください」


 彼は私を見たまま、何か言おうとした。

 私は返事を待った。けれど、彼の口からは何も出てこなかった。


 父が、今日の話はここまでだと告げた。

 アンセル様は小さく頷き、ようやく箱をポケットへ戻した。


 玄関まで見送ろうと腰を浮かせると、父が手で制した。


「ここでよい。挨拶は済んでいる」


 私は座り直した。

 アンセル様が扉のところで振り返った。以前なら私が立っていた場所には、父がいた。

 彼はもう一度だけ私を見て、それから頭を下げて出ていった。


 扉が閉まっても、私は彼を追わなかった。

 膝の上には、贈り物も、引き受けた約束もなかった。


 ◇


 次の読書会の帰り、伯母が新しい喜劇の話をした。

 イヴァン様が、王都の劇場で上演されると教えてくれたそうだ。


「一緒に行こうと言われたの。あなたもどう?」


 私は、すぐに頷いた。

 頷いてから、自分で驚いた。

 あのお茶会以来、劇場の予定を聞いても、先に同行者の顔を考えていたのに。


 観劇の日、イヴァン様は玄関で私たちを迎えた。

 伯母に挨拶をしたあと、私にも頭を下げる。


「今日は、誰が主人か分からなくなったら、お尋ねしてもいいですか」

「幕が下りてからでしたら」

「途中で答えを知ってしまうのは、もったいないですからね」


 私が言おうとしたことを、彼が先に言った。

 嬉しくなって、頷いた。


 舞台には、嘘をつくのが下手な商人が出てきた。

 自分のついた嘘を忘れ、辻褄を合わせようとして、ますます話が大きくなっていく。

 私は三幕で声を出して笑った。

 隣のイヴァン様は、商人が黙って帽子を揉んでいた場面のほうが面白かったそうだ。


「あの人、嘘をつく前には、あんなに時間をかけなかったでしょう」


 終演後、劇場の近くの茶房で彼が言う。伯母も同じ卓につき、お茶を選んでいた。

 私は思い出しながら、頷いた。


「本当のことを言うほうが、難しくなってしまったんですね」

「そうです。僕は早く言ってくれと思いながら、もう少し困っていてほしくなりました」

「私は、奥さんが扉を開けた瞬間に、話してしまうと思っていました」

「どうして?」


 聞かれて、少し迷った。

 その場面が好きだったのに、理由をうまく言葉にできない。

 彼は、私の手元へ菓子の皿を寄せただけで、続きを待った。


「奥さんに帽子を渡してもらったでしょう。あんなに困っていても、受け取ったときだけ、普通にありがとうと言ったので」


 彼が「ああ」と呟く。


「嘘をついていることまで、一瞬、忘れたみたいでしたね」


 頷きながら、私は彼のほうを見た。

 同じ場面を思い出しているのに、見ていたところが少し違う。

 その違いを聞くのが、面白かった。


 茶房を出る前、彼は伯母と馬車の時間を確かめた。

 それから、私へ尋ねた。


「次に見たいものは、ありますか」


 いくつも思い浮かんだ。

 こんなにたくさん、残っていたのだ。


 ◇


 夏の終わり、伯母が、秋の読書会で何を読むかと相談した。

 私は短い喜劇を提案した。

 主人の注文を聞きながら、肝心なところだけ勘違いする召使いの話だった。


「二人で読むのに、ちょうどよさそうですね」


 イヴァン様が言った。

 伯母が私を見た。


「あなた、召使いを読んでみない?」


 私は、膝の上の戯曲へ目を落とした。

 台詞は知っている。

 声に出して読みたいと思ったことも、何度もある。

 けれど、人が笑ったら、どんな顔をすればいいのだろう。


「今日、少し合わせてみましょうか」


 イヴァン様が、向かいの椅子を引いた。


「それから決めても、よいのでは」


 伯母が頷いた。

 私は、彼と同じページを開いた。


「では――『客間へ、白い皿を六枚』」

「『はい、白い花を六本』」

「『違う、皿だ。食事に使うものだ』」


 イヴァン様は、私が次を読む前に、さらに先の台詞へ進んでしまった。

 私は慌てて指で行を追った。

 彼が気づいて止まる。


「すみません。いつも、ここを急いでしまうんです」

「主人が怒るまでに、召使いが納得する時間があると、読みやすいかもしれません」


 彼は、私を見た。


「納得する?」

「はい。この人、ふざけて間違えているわけではありませんから。花を六本持ってくるつもりで、聞いているんです」


 言ってから、話しすぎたかもしれないと思った。

 けれど彼は、戯曲へ目を戻した。


「もう一度、お願いします」


 次は、私が頷くのを待って、彼が言った。


「『違う、皿だ。食事に使うものだ』」

「『まあ。今日のお客様は、花をお召し上がりで?』」


 伯母が笑った。

 彼も笑って、次の台詞が出てこなくなった。

 私は、召使いのつもりで、真面目な顔を続けた。

 それを見て、彼がさらに困った。


「今、笑わせようとしましたね」

「私は、お客様の好みを心配しただけです」


 言い終わる前に、自分でも笑ってしまった。

 伯母がお茶を淹れ直しながら、私に尋ねた。


「どうする? 秋も、二人で読んでみる?」


 私は、開いた戯曲を見た。さっきまで不安だった台詞の先を、もう少し読んでみたかった。


「はい。まだ緊張しますけれど、読んでみたいです」


 イヴァン様が嬉しそうに頷いた。

 伯母は秋の予定を手帳に書いた。


 それから何度か、伯母の家で練習した。

 私が早口になるところでは、彼が少しゆっくり読んだ。

 彼が台詞を忘れたときは、私がその前の台詞から読み直した。

 一度でうまくいく日はなかった。

 それでも、帰りの馬車では、次に読む場面を考えていた。


 ある日、彼が練習の前に遅れて来た。

 家の仕事で、書類の確認に時間がかかったそうだ。


「急いで終わらせようとして、二度確認することになりました」


 そう言って息を整えながら、彼は本を開いた。

 私は、その本をそっと閉じた。


「お茶を飲んでからにしましょう」

「でも、待っていただいたのに」

「私も、今来たばかりです」


 それは嘘だったので、すぐに言い直した。


「少し待ちました。でも、今日はまだ時間があります」


 彼が、椅子の背に体を預ける。

 伯母が手ずから渡したカップを、両手で受け取った。


「では、お茶を飲んでから。ありがとうございます」


 いつも私の言葉を待つ彼を、今日は私が待った。

 その時間も、嫌ではなかった。


 ◇


 秋の読書会は、いつもより四人多かった。

 伯母の友人が来て、客間の椅子が二列になった。

 私の母も、後ろの席にいた。


 始まる前、紙を持つ手が震えた。

 イヴァン様は、それに気づいても、勝手に手を握らなかった。


「最初の注文は、ゆっくり言います」


 私は頷いた。


「そのあと、私が聞き間違えます」

「ええ。いつものように」


 伯母が紹介を終えて、席へ戻った。

 彼の声がした。


「客間へ、白い皿を六枚」


 それは、何度も聞いた声だった。

 私は、白い花を数えるつもりで答えた。


 最初の笑いが起きたとき、一瞬、紙の文字が読めなくなった。

 彼を見た。

 イヴァン様は、召使いの返事に困り果てた主人の顔で、私を待っていた。


 次の台詞を思い出した。

 笑っているのは、この話が面白いからだ。

 私も何度も笑った、その場面なのだ。


 顔を上げて、続けた。


 終わりの礼をしたとき、母が笑顔で手を叩いていた。

 伯母は私のところへ来て、肩を軽く抱いた。


「次は、お茶にしましょう。あなたたち、ずいぶん喋ったもの」


 張りつめていた息が抜けて、笑ってしまった。

 隣で、イヴァン様が本を閉じる。


「最後まで、花を食べる方はいませんでしたね」

「せっかく六本用意しましたのに」


 また二人で笑った。


 お茶のあと、私は庭へ出た。

 母と伯母が少し先のベンチに座り、イヴァン様は私の隣を歩いた。

 夏の練習で窓から見ていた木が、黄色くなっていた。


「オリアーヌ様」


 呼ばれて、立ち止まる。

 彼は、本を小脇に抱え直した。


「今日は、あなたのおかげで最後まで読めました」

「私も、最初のところで待っていただきました」

「はい。でも、お礼を言いたかったので」


 私は頷いた。

 彼は一度、伯母たちのほうを見た。


「もうひとつ、お話ししたいことがあります。これは、台詞ではありません」


 胸が、急に速く打った。


「あなたに、求婚を前提としたお付き合いを申し込みたいのです。ご両親へ正式にお願いする前に、あなたのお気持ちを伺いたくて」


 返事をしようとして、息ばかり吸ってしまった。

 彼は急かさず、けれど自分も緊張した顔で続けた。


「ここへ来る前に、何を話そうか考えるんです。舞台のことでも、練習で失敗したことでも。でも、あなたと話すと、考えていたのとは違う話になります」


 彼の指が、本の角をなぞった。


「帰りには、まだ話したかったと思う。その続きのために、また会いたくなります」


 私にも、あった。

 舞台の広告を見て、彼ならどこで笑うだろうと考えること。

 家で本を読んで、面白い台詞を見つけると、次に会うまで忘れないよう印を挟むこと。


「私も……新しいお芝居の話を聞くと、先にあなたへ話したくなります」


 彼が、じっと私を見た。


「一人で読むのも好きです。でも、あなたがどう思ったかも、知りたいので」


 言葉を選んでいる間、彼の表情が少しずつ変わった。

 私の返事を待つその顔を、もっと近くで見たくなった。


「お受けしたいです。私からも、父にお話しします」


 彼は、大きく息を吐いた。


「ありがとうございます」


 それから、まだ信じきれないように笑った。

 私は、その笑顔を見たまま、もうひとつお願いした。


「次の観劇は、私からお誘いしてもよろしいですか」

「もちろんです。何を見ましょう」

「これから決めます。今日は、その……別の話をしていたいので」


 彼の耳が赤くなった。

 私も、きっと同じだった。


 ◇


 イヴァン様は、約束した日に父を訪ねてきた。

 私との交際を申し込み、その後はロシェ男爵夫妻とも会った。

 これからどこで暮らすか、家の仕事をどう学んでいくか。

 舞台の話だけでは決められないことを、両家で少しずつ話した。

 ロシェ家とは伯母を通じて以前から付き合いがあり、父も家の暮らしや領地の状況を確かめた。


「家同士で無理なく支度ができる。お前たちも、これからの暮らしを話している。私は、この縁を喜んでいるよ」


 父はそう言って、私たちの婚約を認めてくれた。


 男爵家の領地では、王都ほど頻繁に劇場へ行けない。

 彼はそれを心配したけれど、私は領地の暮らしについても聞きたかった。

 彼からは近くの町のことを、男爵夫人からは家で開く音楽の夕べの話を聞いた。

 知らないことは、まだたくさんあった。

 そのたびに尋ねてよい相手が、目の前にいた。


 冬の初め、私たちは正式に婚約した。


 机に白い便箋を置いたのは、その翌日だった。

 ペンを持つと、指が少し止まった。

 封をしたあと、この紙は彼の手元へ行く。

 私の目の届かないところへ。


 これまで、彼は私が話したことを、勝手に誰かへ披露したことがなかった。

 朗読会で私の感想を紹介するときも、先に尋ねてくれた。

 思い出せることをひとつずつ思い出して、私は書き始めた。


『昨日は、ゆっくりお話しできなくて残念でした。

 次の観劇で何を見るか、まだ決めていません。

 あなたと相談したいです。

 また会いたいです』


 最後の一行は、消さなかった。

 封を閉じ、使いの者へ渡した。


 二日後、返事が届いた。

 私は自分の部屋で封を切った。


『僕も、会いたいです。

 見たい芝居は二つありますが、あなたと話してから決めたいと思っています。

 先に相談の時間をいただけませんか。

 今度は、僕も少し寂しがっています』


 頬が熱くなった。

 その手紙を、私は自分の引き出しへしまった。


 次の観劇には、母も一緒に行った。

 幕が上がる前、イヴァン様が私へ少し身を寄せる。


「相談に時間をかけた甲斐があるといいですね」

「まだ始まっていませんよ」

「ええ。でも、相談も楽しかったので、もう半分は満足しています」


 私は笑って、舞台へ顔を向けた。


 喜劇の主人公は、隠したはずの箱を、自分で客の前へ運んでしまった。

 箱を開けるなと言いながら、鍵まで渡そうとする。

 客席に笑いが広がった。


 私も、声を出して笑った。

 隣で、イヴァン様が笑っている。

 舞台の上では、箱の持ち主が、必死に鍵を取り返そうとしていた。


 次の台詞を聞き逃したくなくて、私はそのまま、舞台を見ていた。


~完~

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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