私の恋文を人前で読み上げた婚約者へ。その「冗談」には、もう付き合いません
「『あなたと二人きりで話す時間が、もう少しほしいのです』」
アンセル様の声が、いつもより高くなる。
私の声を真似たつもりなのだと分かったとき、紅茶のカップを持つ指が冷たくなった。
「この前も会ったばかりなのにね。僕の婚約者は、どうやらずいぶん寂しがり屋らしい」
窓際で二人が笑った。
私も笑えば、それで済む。
いつもなら、そうした。
けれど彼の手にあるのは、昨日、何度も書き直して送った手紙だった。
書き出しの挨拶も、最後の署名も、あの紙にはある。何度も迷いながら選んだ言葉を、彼は笑いを取るための声で読んでいた。
「やめてください」
思ったより小さな声になった。
アンセル様は紙から顔を上げた。
「何を? まだ、ここしか読んでいないよ」
「その手紙を、人前で読むのをやめてください」
窓際の笑い声が途切れた。
私の隣で、母がカップを置く音がした。
「それは、あなたにだけ読んでほしくて書きました」
アンセル様は、困った子を見るように笑った。
「ここにいるのは親しい人ばかりだろう。そんなに真面目に受け取らなくても。冗談なんだから」
親しい人ばかりだった。
だから、つらかった。
これからも会う人たちの前で、私は寂しがり屋の娘になる。次に何かお願いをすれば、今日の手紙を思い出されるかもしれない。
そのことを、あなたは一度でも考えただろうか。
「アンセル様」
この家の女主人が、彼の名前を呼んだ。
「おしまいになさってください。ご本人が嫌だとおっしゃっています」
彼はようやく紙を畳んだ。
母の手が、私の手に重なる。
「帰りましょう、オリアーヌ」
立ち上がると、膝が少し震えた。
アンセル様が、慌てて椅子から腰を浮かせる。
「待って。大げさだよ、たった一度の――」
「一度ではありません」
そこだけは、はっきり言えた。
扉のところで振り返ると、彼はまだ手紙を持っていた。
返してください、とは言わなかった。
返してもらったところで、書く前の私には戻れない。
◇
二年前、初めて二人で劇場へ行った日。
私は帰りの馬車で、喜劇の話を止められなかった。
「主人は、召使いが嘘をついていると思っていましたけれど、あの場面では、召使いの言うことだけが本当だったでしょう」
途中で気づいて、口を閉じた。
隣のアンセル様は、私を見ていた。
「すみません。私ばかり話して」
「どうして謝るの? 続きを聞いていたのに」
母も同乗する馬車の中で、私はもう一度、話し始めた。
彼は舞台の順序を忘れていて、私が説明すると「ああ、そうだった」と笑った。
翌週届いた手紙には、次に上演される演目が書いてあった。
その手紙は、今も箱にしまってある。
あのとき嬉しかった気持ちまで、嘘だったことにはできなかった。
変わり始めたのは、半年ほど前だった。
私が子供の頃、家の庭で迷子になった話を、彼にした。
生け垣の間で泣いていた私を見つけたのは、私を捜していた父ではなく、庭師の飼い犬だった。
今なら笑える、小さな失敗。
次のお茶会で、アンセル様はその話をした。
「オリアーヌは、自分の家でも迷ってしまうんだ。結婚したら、部屋の扉に名札をつけてあげないと」
私は笑った。
彼が話している間、ほかにどんな顔をすればいいのか分からなかった。
そのあとも、貴婦人の名前を言い間違えたことや、初めて舞踏会へ行った日に緊張で朝食を食べられなかったことが、彼の話題になった。
私が黙っていると、「本人が話すより面白いだろう」と彼は得意そうに言った。
二人になってから、やめてほしいと伝えた。
「皆、楽しんでいたじゃないか」
「私は、楽しくありませんでした」
そこでようやく、彼は謝った。
二度目は、母にも相談した。
父がボーモン伯爵に事情を話してくださり、アンセル様は我が家へ来た。
「もうしない。君がそんなに嫌がっていたとは知らなかった」
私は、今度こそ伝わったと思った。
父には、もう少し彼と話してみたいと言った。
劇場の帰り、続きを聞いてくれた人を、まだ好きだった。
だから、昨日の手紙を書いた。
『最初に一緒に劇場へ行った帰り、私の話を聞いてくださったことを、今も覚えています。
最近は、大勢でお会いすることが増えましたね。
あなたと二人きりで話す時間が、もう少しほしいのです。
私の失敗を皆様の前で話されるのは、やはりつらく思います。
また、一緒に劇場へ行きませんか』
甘い言葉を書くより、勇気が要った。
それでも書いたのは、終わらせるためではなかった。
帰宅して着替えたあと、父の書斎へ行った。
母が先に話していて、父は椅子から立ち上がった。
「オリアーヌ。今度はどうしたい」
以前も、同じことを聞かれた。
父は私が「もう少し」と答えるたび、いつでもやめてよいと念を押した。
今日、その言葉にすがってもよいのだと、ようやく思えた。
「婚約を、解消したいです」
父が頷く。
私は続けた。
「あの方がまた謝ってくださっても、もう、手紙は書けません」
父は机の上の便箋を手元へ引き寄せた。
「分かった。こちらの希望を、先方へ伝える」
数日後、ボーモン伯爵夫妻が我が家を訪れた。
アンセル様も一緒だった。
彼は初め、私の両親に謝り、それから私へ向き直った。
「本当に、傷つけるつもりはなかったんだ。届いたばかりの手紙を持っていて、皆が婚約者の話をしていたから、つい」
「やめてほしいと、前にもお願いしました」
「だから、もう気をつける」
父が口を開こうとした。
私は、その前に言った。
「今日のように謝ってくださったことも、前にありました」
彼は黙った。
「私は、嫌だと申し上げるたび、嫌がりすぎなのかと考えてしまいます。結婚してからも、同じことを考えて過ごしたくありません」
ボーモン伯爵は、しばらく息子を見ていた。
それから、私の父へ頭を下げた。
「以前のお申し入れを受け、私からも注意しました。守らせることができず、申し訳ない」
婚約は両家の合意で解消された。
贈答品の返却や、予定していた支度の清算は、両親が進めてくれた。
私はアンセル様の手紙を箱から取り出して、リボンを解いた。
読み返しはしなかった。
手紙を箱へ戻して蓋を閉め、机の引き出しから、棚の奥へ移した。
机には、まだ白い便箋が残っていた。
◇
ひと月ほど経った頃、伯母の家の読書会へ誘われた。
私がためらうと、伯母は「読むのは私たち。あなたはお菓子を食べていてもいいのよ」と言った。
親族と、その家に親しい人を合わせて八人。
客間の隅には、もう使わない古い楽譜台があり、今日はそこに戯曲が載っていた。
私は挨拶をして、窓に近い椅子へ座った。
「オリアーヌ様。隣をよろしいですか」
声をかけたのは、ロシェ男爵の息子、イヴァン様だった。
以前、伯母の家で挨拶を交わしたことがある。
そのときは、お互いに名前を言っただけだった。
「はい」
「これを読んだことは?」
彼が表紙を見せる。
私の好きな喜劇だった。
「あります。舞台でも、一度」
「僕もです。初めて見たとき、三幕の途中まで、弟のほうが本当の主人だと思っていました」
「それは……召使いと同じ間違いでは?」
「ええ。最後に騙されたと怒っていた彼に、僕だけは文句を言えませんでした」
思わず笑ってしまった。
イヴァン様も笑った。
私はとっさに、膝の上で手を握った。
彼の笑いが止まる。
「すみません。何か、嫌な話でしたか」
「いいえ」
答えてから、もう一度考えた。
「違うんです。私は……話したことを、あとで大勢の前で繰り返されるのが、少し苦手で」
誰のこととも言わなかった。
彼も、誰かと尋ねなかった。
「今、僕が召使いと同じ間違いをした話は、あなたに笑ってもらって構いません。でも、あなたの話をほかの方にしてよいかは、別ですね」
私は、彼の顔を見た。
彼は戯曲を開き直した。
「ちなみに、弟が主人に見えた理由は、服が立派だったからです」
「お兄さんは、その服を貸したために困っていたのに」
「今は分かります。どうか、一度目の僕に教えてあげてください」
また笑った。
今度は、手を握らなかった。
その日の読書会で、彼は召使いを読んだ。
大げさに怒った声を出したあと、次の台詞を見失って、本当に困った顔をした。
伯母が場所を教えると、彼は真っ赤になりながら続けた。
皆が笑い、彼も笑った。
帰り際、伯母に尋ねられた。
「どうだった?」
「次は、初めからお菓子ばかり食べずに聞きます」
伯母は嬉しそうに、残った焼き菓子を私へ包んだ。
◇
アンセル様の近況は、父から聞いた。
あのお茶会の主催者は、ボーモン伯爵へ、しばらく息子を個人的な集まりへ招かないと伝えたそうだ。
同席した二つの家も、同じ判断をした。
「一緒にいた人たちまで、手紙を読まれるのが怖くなったのですか」
「そういう話もあったようだ。ただ、いちばんは、客を守れなくなることだろう」
父は私の顔を見て、続けた。
「本人が止めてほしいと言っても、冗談だと片づけ、主催者が制するまで手紙を畳まなかった。そういう客をまた呼ぶかどうかは、家の主人が決めることだ」
父が何かを頼んだわけではなかった。
あの場にいた人たちが、それぞれ決めたことだった。
ボーモン伯爵は、息子に任せ始めていた家の会食の取りまとめも、自分のもとへ戻した。
招く人や席順を決めるためには、表に出せない事情を聞くこともある。
親しい相手のお願いさえ守れないうちは任せられないと、息子へ説明したという。
それを聞いた翌週、アンセル様から面会の申し入れがあった。
父が同席するという条件で、一度だけ会った。
彼は以前よりも、きちんと服を整えていた。
私の好きだった、襟元の青い飾りもつけていた。
「君が嫌がったことは、反省している」
私は黙って聞いた。
「でも、あのあと、ずいぶん大事になってしまって。父の知人から紹介されるはずだった縁談まで、先方から見送られたんだ」
父の知人が婚約解消の理由を尋ね、ボーモン伯爵は経緯を隠さなかった。
その話は、私の父も先方から聞いていた。
「僕は、誰の秘密でも触れ回るような人間じゃない。君と僕のことだから、つい気が緩んだだけだ」
彼は上着から、折り畳んだ紙を取り出した。
「来月の集まりの予定を尋ねたら、こう返ってきたんだ。毎年、僕も呼ばれていたのに」
彼が開いて見せた返事には、今回は招待を控えること、先日の対応については既に父親へ伝えてあることが、短く記されていた。
「自分で謝りに行こうとした。でも、当分の訪問も遠慮してほしいと。ほかの二家も、同じだ」
紙を畳む手つきが、もたついた。
「家の会食も、準備を進めていたのに、父に名簿を渡すよう言われた。客に手紙を書くのも、これからは父がするそうだ」
彼はその返事をしまった。
いつも次のお茶会の話をしていた人が、今日は、行けなくなった場所の話ばかりしている。
彼が前へ身を乗り出した。
「君から、あの家の奥様に説明してもらえないだろうか。二人の間の行き違いで、もう気にしていないと」
父の椅子が、わずかに鳴った。
私は、膝の上の手を開いた。
「嫌だとお願いしたのに、やめてくださらなかった。それを、行き違いとは言えません」
「婚約を戻してくれと言っているわけじゃない。ただ、このままだと、僕は――」
「私が気にしていないとお伝えするのは、嘘になります」
彼は唇を結んだ。
続いて、ポケットから小さな箱を取り出し、私へ差し出しかけた。
おそらく、何か贈り物だったのだろう。
以前なら、何を選んでくれたのか気になった。
「それも、いただけません」
彼は箱を戻さず、手の中で握っていた。
「前なら、君は僕の頼みを聞いてくれた」
「あなたのことが好きでしたから」
彼の顔が上がった。
私は、続けた。
「だから、あの手紙も書きました。また二人で話せるようになりたくて」
「それなら、もう一度――」
「あなたが読んでいたとき、私は、もうこの方には書けないと思いました」
彼の指が止まった。
「オリアーヌ」
「これから誰とお会いになるかも、何をお話しになるかも、ご自分でお決めください。私に、取り繕うことを頼まないでください」
彼は私を見たまま、何か言おうとした。
私は返事を待った。けれど、彼の口からは何も出てこなかった。
父が、今日の話はここまでだと告げた。
アンセル様は小さく頷き、ようやく箱をポケットへ戻した。
玄関まで見送ろうと腰を浮かせると、父が手で制した。
「ここでよい。挨拶は済んでいる」
私は座り直した。
アンセル様が扉のところで振り返った。以前なら私が立っていた場所には、父がいた。
彼はもう一度だけ私を見て、それから頭を下げて出ていった。
扉が閉まっても、私は彼を追わなかった。
膝の上には、贈り物も、引き受けた約束もなかった。
◇
次の読書会の帰り、伯母が新しい喜劇の話をした。
イヴァン様が、王都の劇場で上演されると教えてくれたそうだ。
「一緒に行こうと言われたの。あなたもどう?」
私は、すぐに頷いた。
頷いてから、自分で驚いた。
あのお茶会以来、劇場の予定を聞いても、先に同行者の顔を考えていたのに。
観劇の日、イヴァン様は玄関で私たちを迎えた。
伯母に挨拶をしたあと、私にも頭を下げる。
「今日は、誰が主人か分からなくなったら、お尋ねしてもいいですか」
「幕が下りてからでしたら」
「途中で答えを知ってしまうのは、もったいないですからね」
私が言おうとしたことを、彼が先に言った。
嬉しくなって、頷いた。
舞台には、嘘をつくのが下手な商人が出てきた。
自分のついた嘘を忘れ、辻褄を合わせようとして、ますます話が大きくなっていく。
私は三幕で声を出して笑った。
隣のイヴァン様は、商人が黙って帽子を揉んでいた場面のほうが面白かったそうだ。
「あの人、嘘をつく前には、あんなに時間をかけなかったでしょう」
終演後、劇場の近くの茶房で彼が言う。伯母も同じ卓につき、お茶を選んでいた。
私は思い出しながら、頷いた。
「本当のことを言うほうが、難しくなってしまったんですね」
「そうです。僕は早く言ってくれと思いながら、もう少し困っていてほしくなりました」
「私は、奥さんが扉を開けた瞬間に、話してしまうと思っていました」
「どうして?」
聞かれて、少し迷った。
その場面が好きだったのに、理由をうまく言葉にできない。
彼は、私の手元へ菓子の皿を寄せただけで、続きを待った。
「奥さんに帽子を渡してもらったでしょう。あんなに困っていても、受け取ったときだけ、普通にありがとうと言ったので」
彼が「ああ」と呟く。
「嘘をついていることまで、一瞬、忘れたみたいでしたね」
頷きながら、私は彼のほうを見た。
同じ場面を思い出しているのに、見ていたところが少し違う。
その違いを聞くのが、面白かった。
茶房を出る前、彼は伯母と馬車の時間を確かめた。
それから、私へ尋ねた。
「次に見たいものは、ありますか」
いくつも思い浮かんだ。
こんなにたくさん、残っていたのだ。
◇
夏の終わり、伯母が、秋の読書会で何を読むかと相談した。
私は短い喜劇を提案した。
主人の注文を聞きながら、肝心なところだけ勘違いする召使いの話だった。
「二人で読むのに、ちょうどよさそうですね」
イヴァン様が言った。
伯母が私を見た。
「あなた、召使いを読んでみない?」
私は、膝の上の戯曲へ目を落とした。
台詞は知っている。
声に出して読みたいと思ったことも、何度もある。
けれど、人が笑ったら、どんな顔をすればいいのだろう。
「今日、少し合わせてみましょうか」
イヴァン様が、向かいの椅子を引いた。
「それから決めても、よいのでは」
伯母が頷いた。
私は、彼と同じページを開いた。
「では――『客間へ、白い皿を六枚』」
「『はい、白い花を六本』」
「『違う、皿だ。食事に使うものだ』」
イヴァン様は、私が次を読む前に、さらに先の台詞へ進んでしまった。
私は慌てて指で行を追った。
彼が気づいて止まる。
「すみません。いつも、ここを急いでしまうんです」
「主人が怒るまでに、召使いが納得する時間があると、読みやすいかもしれません」
彼は、私を見た。
「納得する?」
「はい。この人、ふざけて間違えているわけではありませんから。花を六本持ってくるつもりで、聞いているんです」
言ってから、話しすぎたかもしれないと思った。
けれど彼は、戯曲へ目を戻した。
「もう一度、お願いします」
次は、私が頷くのを待って、彼が言った。
「『違う、皿だ。食事に使うものだ』」
「『まあ。今日のお客様は、花をお召し上がりで?』」
伯母が笑った。
彼も笑って、次の台詞が出てこなくなった。
私は、召使いのつもりで、真面目な顔を続けた。
それを見て、彼がさらに困った。
「今、笑わせようとしましたね」
「私は、お客様の好みを心配しただけです」
言い終わる前に、自分でも笑ってしまった。
伯母がお茶を淹れ直しながら、私に尋ねた。
「どうする? 秋も、二人で読んでみる?」
私は、開いた戯曲を見た。さっきまで不安だった台詞の先を、もう少し読んでみたかった。
「はい。まだ緊張しますけれど、読んでみたいです」
イヴァン様が嬉しそうに頷いた。
伯母は秋の予定を手帳に書いた。
それから何度か、伯母の家で練習した。
私が早口になるところでは、彼が少しゆっくり読んだ。
彼が台詞を忘れたときは、私がその前の台詞から読み直した。
一度でうまくいく日はなかった。
それでも、帰りの馬車では、次に読む場面を考えていた。
ある日、彼が練習の前に遅れて来た。
家の仕事で、書類の確認に時間がかかったそうだ。
「急いで終わらせようとして、二度確認することになりました」
そう言って息を整えながら、彼は本を開いた。
私は、その本をそっと閉じた。
「お茶を飲んでからにしましょう」
「でも、待っていただいたのに」
「私も、今来たばかりです」
それは嘘だったので、すぐに言い直した。
「少し待ちました。でも、今日はまだ時間があります」
彼が、椅子の背に体を預ける。
伯母が手ずから渡したカップを、両手で受け取った。
「では、お茶を飲んでから。ありがとうございます」
いつも私の言葉を待つ彼を、今日は私が待った。
その時間も、嫌ではなかった。
◇
秋の読書会は、いつもより四人多かった。
伯母の友人が来て、客間の椅子が二列になった。
私の母も、後ろの席にいた。
始まる前、紙を持つ手が震えた。
イヴァン様は、それに気づいても、勝手に手を握らなかった。
「最初の注文は、ゆっくり言います」
私は頷いた。
「そのあと、私が聞き間違えます」
「ええ。いつものように」
伯母が紹介を終えて、席へ戻った。
彼の声がした。
「客間へ、白い皿を六枚」
それは、何度も聞いた声だった。
私は、白い花を数えるつもりで答えた。
最初の笑いが起きたとき、一瞬、紙の文字が読めなくなった。
彼を見た。
イヴァン様は、召使いの返事に困り果てた主人の顔で、私を待っていた。
次の台詞を思い出した。
笑っているのは、この話が面白いからだ。
私も何度も笑った、その場面なのだ。
顔を上げて、続けた。
終わりの礼をしたとき、母が笑顔で手を叩いていた。
伯母は私のところへ来て、肩を軽く抱いた。
「次は、お茶にしましょう。あなたたち、ずいぶん喋ったもの」
張りつめていた息が抜けて、笑ってしまった。
隣で、イヴァン様が本を閉じる。
「最後まで、花を食べる方はいませんでしたね」
「せっかく六本用意しましたのに」
また二人で笑った。
お茶のあと、私は庭へ出た。
母と伯母が少し先のベンチに座り、イヴァン様は私の隣を歩いた。
夏の練習で窓から見ていた木が、黄色くなっていた。
「オリアーヌ様」
呼ばれて、立ち止まる。
彼は、本を小脇に抱え直した。
「今日は、あなたのおかげで最後まで読めました」
「私も、最初のところで待っていただきました」
「はい。でも、お礼を言いたかったので」
私は頷いた。
彼は一度、伯母たちのほうを見た。
「もうひとつ、お話ししたいことがあります。これは、台詞ではありません」
胸が、急に速く打った。
「あなたに、求婚を前提としたお付き合いを申し込みたいのです。ご両親へ正式にお願いする前に、あなたのお気持ちを伺いたくて」
返事をしようとして、息ばかり吸ってしまった。
彼は急かさず、けれど自分も緊張した顔で続けた。
「ここへ来る前に、何を話そうか考えるんです。舞台のことでも、練習で失敗したことでも。でも、あなたと話すと、考えていたのとは違う話になります」
彼の指が、本の角をなぞった。
「帰りには、まだ話したかったと思う。その続きのために、また会いたくなります」
私にも、あった。
舞台の広告を見て、彼ならどこで笑うだろうと考えること。
家で本を読んで、面白い台詞を見つけると、次に会うまで忘れないよう印を挟むこと。
「私も……新しいお芝居の話を聞くと、先にあなたへ話したくなります」
彼が、じっと私を見た。
「一人で読むのも好きです。でも、あなたがどう思ったかも、知りたいので」
言葉を選んでいる間、彼の表情が少しずつ変わった。
私の返事を待つその顔を、もっと近くで見たくなった。
「お受けしたいです。私からも、父にお話しします」
彼は、大きく息を吐いた。
「ありがとうございます」
それから、まだ信じきれないように笑った。
私は、その笑顔を見たまま、もうひとつお願いした。
「次の観劇は、私からお誘いしてもよろしいですか」
「もちろんです。何を見ましょう」
「これから決めます。今日は、その……別の話をしていたいので」
彼の耳が赤くなった。
私も、きっと同じだった。
◇
イヴァン様は、約束した日に父を訪ねてきた。
私との交際を申し込み、その後はロシェ男爵夫妻とも会った。
これからどこで暮らすか、家の仕事をどう学んでいくか。
舞台の話だけでは決められないことを、両家で少しずつ話した。
ロシェ家とは伯母を通じて以前から付き合いがあり、父も家の暮らしや領地の状況を確かめた。
「家同士で無理なく支度ができる。お前たちも、これからの暮らしを話している。私は、この縁を喜んでいるよ」
父はそう言って、私たちの婚約を認めてくれた。
男爵家の領地では、王都ほど頻繁に劇場へ行けない。
彼はそれを心配したけれど、私は領地の暮らしについても聞きたかった。
彼からは近くの町のことを、男爵夫人からは家で開く音楽の夕べの話を聞いた。
知らないことは、まだたくさんあった。
そのたびに尋ねてよい相手が、目の前にいた。
冬の初め、私たちは正式に婚約した。
机に白い便箋を置いたのは、その翌日だった。
ペンを持つと、指が少し止まった。
封をしたあと、この紙は彼の手元へ行く。
私の目の届かないところへ。
これまで、彼は私が話したことを、勝手に誰かへ披露したことがなかった。
朗読会で私の感想を紹介するときも、先に尋ねてくれた。
思い出せることをひとつずつ思い出して、私は書き始めた。
『昨日は、ゆっくりお話しできなくて残念でした。
次の観劇で何を見るか、まだ決めていません。
あなたと相談したいです。
また会いたいです』
最後の一行は、消さなかった。
封を閉じ、使いの者へ渡した。
二日後、返事が届いた。
私は自分の部屋で封を切った。
『僕も、会いたいです。
見たい芝居は二つありますが、あなたと話してから決めたいと思っています。
先に相談の時間をいただけませんか。
今度は、僕も少し寂しがっています』
頬が熱くなった。
その手紙を、私は自分の引き出しへしまった。
次の観劇には、母も一緒に行った。
幕が上がる前、イヴァン様が私へ少し身を寄せる。
「相談に時間をかけた甲斐があるといいですね」
「まだ始まっていませんよ」
「ええ。でも、相談も楽しかったので、もう半分は満足しています」
私は笑って、舞台へ顔を向けた。
喜劇の主人公は、隠したはずの箱を、自分で客の前へ運んでしまった。
箱を開けるなと言いながら、鍵まで渡そうとする。
客席に笑いが広がった。
私も、声を出して笑った。
隣で、イヴァン様が笑っている。
舞台の上では、箱の持ち主が、必死に鍵を取り返そうとしていた。
次の台詞を聞き逃したくなくて、私はそのまま、舞台を見ていた。
~完~
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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