ぼくは勇者の荷物持ち
鼻をつくのは、鉄錆と古い血の匂い。視界を塞ぐのは、世界を拒絶するかのようにそびえ立つ、黒鉄の巨大な扉。魔王の間。僕たちはついに、この長い旅の終着点へと辿り着いたのだ。
「……はぁ、……ッ、はぁ……」
静寂な回廊に、荒い呼吸音だけが響いている。僕の目の前には、三人の背中があった。どれもボロボロで、見るに堪えないほど傷ついている。
先頭に立つ勇者アレン。かつて王都を出発した日、太陽の光を浴びて輝いていた白銀の鎧は、原形を留めないほど砕け散っている。左足は不自然な方向に曲がり、剣を杖代わりにしなければ立つことさえままならない。その右隣、戦士のガイル。「鉄壁」と呼ばれた巨漢の彼は、今はもう片腕がなかった。三日前の四天王戦、僕に向かって飛んできた溶解液を、その身を盾にして受け止めた代償だ。そして左隣、聖女のマリア。慈愛に満ちていた彼女の肌は、今は土気色に変色し、血管が黒く浮き出ている。致死性の瘴気から僕を守るための結界を、自らの生命力を削って維持し続けた結果だった。
満身創痍。死の淵を歩く亡者。それが、世界最強と謳われた勇者パーティの現状だった。
――ただ一人、僕を除いて。
「……アレン、水だ。少しだけでも飲んでくれ」
僕は背負っていた巨大なリュックサックから水筒を取り出し、震えるアレンの口元へと運んだ。僕の体は軽い。服には泥汚れひとつなく、擦り傷ひとつない。まるで遠足にでも来たかのように、僕だけが不自然なほど健康で、無傷だった。
旅の間、彼らは徹底して僕を守った。僕の無力さが歯がゆかった。剣も振れず、魔法も使えない。ただ荷物を持つことしかできない「お荷物」な自分。それでも彼らは、僕を仲間として受け入れてくれた。
「おい、……相棒」
水を一口だけ飲み込むと、アレンが扉を見据えたまま掠れた声を出した。ガイルもマリアも、もう声を発する力すら残っていないようで、沈黙したまま佇んでいる。
「俺のこと、信頼してくれているか?」
唐突な問いかけだった。その弱々しい声を聞いた瞬間、僕の脳裏に、あの日の記憶が鮮烈に蘇った。
王都の大聖堂。きらびやかなステンドグラスの下、国王と高位神官たちが冷ややかな目で見下ろしていた。勇者の啓示を受けたアレンの隣で、僕はただ震えていた。
「勇者アレンよ。必ず魔王を倒すのだ。そして」
王は僕のほうを振り向いた。
「お前はアレンの親友と聞く。旅の同行者……『荷物持ち』として彼を支えよ」
国王の厳かな宣言に、アレンは僕にささやいた。
「……国の言うことなんて聞く必要はない。さっさと村へ帰れ!」
アレンは僕の胸ぐらを掴み、軽く突き飛ばす。その目は血走り、必死だった。当時の僕は、その態度にショックを受けた。邪魔者扱いされたと思ったのだ。けれど、すぐに思い直した。アレンの掴む手が小刻みに震えていたからだ。カチャカチャと、鎧がかすかな音を立てるほどの震え。当時の僕は、それを「僕を死地に巻き込みたくない葛藤」だと解釈した。
「僕は行くよ、アレン」
僕は王様の前に進み出て、跪いた。
「足手まといかもしれないけど、アレンの役に立ちたいんだ。荷物持ちでもなんでもやります!」
その時、アレンが見せた表情を、僕は一生忘れないだろう。絶望。まるで世界が終わったかのような顔で、彼は僕を見つめていた。
――信頼しているか、だって?そんなこと、聞くまでもないじゃないか。あの日、僕を戦いから遠ざけようとしてくれた。それは、誰よりも僕の命を重く考えてくれていた証拠だ。
「当たり前だろ」
僕は努めて明るい声を出した。
「お前は最高の勇者だよ、アレン。ガイルもマリアも、世界一の英雄だ。僕なんかをここまで連れてきてくれた、最高の仲間だよ」
心からの言葉だった。僕の言葉に、アレンの肩がびくりと揺れた。彼はゆっくりと振り返った。血と泥にまみれ、苦痛に歪んだ顔。けれどその瞳の奥には、あの日、僕を突き放そうとした時と同じ、悲痛な色が宿っていた。
「……そうか。なら、一つだけ約束してくれ」
アレンは、ぐっと剣の柄を握りしめた。
「もし俺になにかあったら……お前は逃げて、逃げて、故郷に帰れ。こんな荷物なんか捨てて、畑を耕して、好きな娘と結婚して……1人の人間として、幸せに暮らすんだ」
「え……?」
「英雄なんて柄じゃないだろ、お前は。……普通に生きて、普通に年をとって、幸せに死ぬ。それがお前には一番似合ってる」
それは遺言のようにも聞こえた。国の命令で連れ出された僕を、最後は「ただの人間」として村へ帰そうとしている。勇者としての使命よりも、幼馴染としての友情を優先してくれているのだ。
「なにかあったらなんて、言うなよ!魔王を倒して、一緒に帰ろう」
「……そう、だな。うん......そうだ。」
アレンはあらぬ方を向き、微かに笑った。どこか憑き物が落ちたような、安らかな表情だった。
「行くぞ。……これで、全部終わらせる」
アレンが合図を送ると、ガイルが残った片腕で扉を押し、マリアが最後の魔力を振り絞って照明魔法を灯した。重厚な地響きと共に、扉が開かれる。溢れ出すのは、肌を刺すような濃密な殺気と、底知れぬ闇。
僕はリュックのベルトを握りしめた。この中には、予備の武器、食料、ポーションがそろっている。アレンは反対したけれど、僕はここに来てよかったと思っている。たとえ戦えなくても、最後まで彼らの背中を追い続ける。それが僕の選んだ道だ。
アレンが足を踏み出す。その背中が、どこか寂しげに見えたのは気のせいだったのだろうか。
玉座の間は、静寂よりも深い「虚無」に満たされていた。天井は見えないほど高く、足元には血のように赤い絨毯が、遥か奥の闇に沈む玉座まで伸びている。
そこに、奴はいた。魔王。人類の天敵。漆黒の衣を纏い、青白い肌をした青年のような姿で、ともすれば、人のようにも見える。だが、生物としての「格」が決定的に違った。ただそこに座り、頬杖をついているだけ。それだけで、空間が歪んで見えるほどの重圧が僕たちの肺を押し潰そうとしてくる。
「……ふむ」
魔王が、ゆっくりと瞼を開いた。その瞳は赤く、底なしの沼のように暗い。視線が、僕たちを射抜く。いや、正確には先頭のアレンを通り越し、最後尾にいる僕へと向けられた気がした。
「客か。……いや、掃除の時間か」
魔王が指先を軽く弾いた。ただそれだけの動作で、空気が圧縮され、見えない砲弾となって飛来した。狙いはアレンではない。一番後ろにいる、無防備な僕だ。
「――させねぇよ!!」
ドゴォォォォォン!!
爆音が鼓膜を揺らす。僕の目の前で、土煙が舞い上がった。
「ガ、ガイル……?」
煙が晴れると、そこには巨漢の戦士が立ちふさがっていた。残っていた右腕で巨大な斧を構え、衝撃を受け止めたのだ。だが、その代償はあまりにも大きすぎた。斧は飴細工のように捻じ曲がり、ガイルの全身からは夥しい血が噴き出している。
「ガハッ……!へ、へへ……。かすり傷、ひとつ……つけさせやしねぇ……」
ガイルが膝をつく。彼は振り返り、血まみれの顔でニカっと笑った。
「よぉ、相棒……。今日の飯、まだ作ってもらってねぇな……。お前の作るシチュー、食べてえな」
「ガイル!喋るな、今ポーションを!」
「いいんだ。……俺はここまでだ」
ドサリ。鉄の巨塔が崩れるように、ガイルが倒れた。動かない。ガイルの体が、急速に冷たくなっていくのがわかった。鉄壁の戦士は、ただの一撃を防いだだけで、その命を燃やし尽くしてしまった。
「ああ、なんてこと……。ガイル……」
マリアが悲痛な声を上げる。彼女もまた、限界を超えていた。肌の変色は首元まで達し、立っているのが不思議なほどだ。魔王は興味なさそうに、再び指を上げた。次の一撃が来る。さっきよりも巨大な魔力の波動だ。
「マリア、逃げて!結界を張るんだ!」
僕の叫びに、マリアは首を振った。彼女は僕の前に立ち、枯れ木のような両手を広げた。
「聖なる光よ、我が命を糧として……絶対の守りを!」
まばゆい光が、ドーム状になって僕だけを包み込む。直後、魔王の放った黒い雷が直撃した。
バチバチバチッ!
結界がきしむ。マリアの口から、鮮血が迸る。自分の身を守るための結界じゃない。僕一人を守るためだけに、彼女は全ての魔力を、生命力を注ぎ込んでいるのだ。
「あぁぁッ……!」
黒い雷が結界を打つたび、マリアの白い肌に亀裂が走り、ひび割れた陶器のように砕けていく。
「マリア!やめてくれ、僕なんかのために!」
「......あなただからよ……!」
マリアが叫んだ。振り返った彼女の顔は、老婆のように皺が寄り、生気が失われていた。けれど、その瞳だけは慈愛に満ちていた。
「あなたは……私たちの希望なの。あなたが無事でいてくれないと、何の意味もない」
「意味ってなんだよ!みんなで生きて帰るんだろ!?」
「ごめんなさい……その約束、守れそうにないわ」
パリン。
結界が砕け散ると同時に、マリアの体が光の粒子となって崩れ始めた。魔力枯渇による消滅。
「元気でね……どうか、幸せに……」
最期の言葉を残し、聖女の衣だけが床に落ちた。ガイルも、マリアも。あっという間にいなくなってしまった。僕を守って。僕なんかを庇って。
「う、あ……ああああああ!!」
僕の慟哭をかき消すように、凄まじい風圧が巻き起こった。
「おおおおおおおッ!!」
アレンだ。仲間たちの死を目の当たりにした勇者が、咆哮と共に地を蹴った。速い。砕けた足を引きずっていた姿が嘘のようだ。アレンは残った生命力のすべてを燃やし、白銀の流星となって魔王へと肉薄した。
キィィン!
金属音が響く。魔王は玉座に座ったままアレンの聖剣を、障壁で防ごうとした
――その瞬間だった。
「なめるなァッ!!」
アレンの手首が返り、聖剣がまばゆい光を放つ。秘剣『断空』。魔王の障壁がガラスのように砕け散った。
「ほう?」
魔王の眉が動く。驚いた時には、もう遅い。アレンの剣先は魔王の喉元を捉えていた。魔王は咄嗟に首を逸らしたが、その頬に鮮烈な一太刀が入る。紫色の血が舞った。
「チッ、浅いか!」
「……座ったまま相手ができると思ったが。......傲慢だったようだ」
魔王が玉座から立ち上がった。その全身から、どす黒いオーラが噴出する。空間そのものを圧迫するような覇気。常人なら立っているだけでショック死するレベルの威圧感だ。だが、アレンは退かない。
「聖光連斬!!」
アレンが舞う。それは、傷ついた体とは思えないほど洗練された剣舞だった。魔王が放つ漆黒の雷を紙一重でかわし、魔力弾を剣で切り払い、死角へと回り込む。一撃、二撃、三撃。アレンの剣が魔王の衣を切り裂き、その肌に傷を刻んでいく。
……強い!
僕は柱の陰で、息を呑んで見つめていた。これが勇者アレン。僕の自慢の幼馴染。魔王の猛攻を凌ぎ、逆に追い詰めている。いける、今の彼なら勝てる!
「はぁぁぁぁッ!!」
アレンの渾身の一撃が、魔王の胸板を捉えた。
ガガガガッ!
火花が散り、魔王が数歩、後ろへとたたらを踏む。
「……見事だ」
魔王が低く呟いた。その体には無数の切り傷があり、血が流れている。しかし、魔王の表情に焦りはなかった。あくびを噛み殺すように、彼は傷口を手で覆った。すると、見る間に傷が塞がり、煙となって消えていく。超速再生。
「貴様の剣技は素晴らしい。人間という種の限界点に達していると言ってもいいだろう」
魔王はアレンを見下ろす。そこにあるのは、強敵に対する敬意などではない。よくできた玩具を見るような、冷徹な「評価」だった。
「だが、それだけだ」
「なに……ッ!?」
「余は幾度も蘇り、貴様のような『勇者』気取りを何千と葬ってきた。貴様もまた、歴史に埋もれる無謀な『噛ませ犬』の一匹に過ぎん」
魔王の手から漆黒の魔力が溢れ出し、巨大な槍の形を成していく。その魔力密度は、先ほどまでの比ではなかった。
「勇者とは、理を超越した存在だ。誠に恐ろしい。だが貴様は、所詮は枠の中の優秀な戦士。……余興は終わりだ」
絶望的な力量差。アレンの全力の剣技も、魔王にとっては「人間にしては頑張った」程度の評価でしかなかったのだ。それでも、アレンは剣を下げなかった。
「黙れ……!俺は、俺たちは必ず勝つ!」
アレンは正面から突っ込んだ。防御を捨てた特攻。魔王の黒い槍が、無慈悲にアレンの横腹を抉る。鮮血が舞う。それでもアレンは倒れない。歯を食いしばり、口から血を吐き出しながら、魔王の体にすがりつくようにして剣を突き立てようとする。
「アレン!」
僕の目に涙があふれる。たまらず叫んで、駆け出そうとした。ポーションがある。僕のリュックには、まだ最高級の回復薬が残っている。あれを使えば――。
「来るなッ!!」
アレンが、今まで聞いたこともないような怒号を上げた。振り返った彼の顔は、苦痛に歪みながらも、必死に目で僕を制止していた。
『動くな。隠れていろ。絶対に出てくるな』
その目が語っていた。死に瀕しているというのに、彼はまだ僕の安全を案じている。自分の命が風前の灯火なのに、荷物持ちの僕を守るという「勇者の責務」を、そして「友との約束」を全うしようとしている。あれほど善戦していた彼が、防御も回避も捨てて、ただひたすらに魔王の前に立ちはだかり続けている。
「……しつこい虫だ」
魔王の瞳に、初めて微かな苛立ちが浮かんだ。黒い槍が、無数に増殖する。アレンはふらつく足で剣を構えた。勝機などどこにもない。それでも彼は笑った。血まみれの口元で、不敵に。
「言っただろ……おまえだけは俺が守る」
その瞬間は、永遠のように長く、瞬きよりも短かった。
魔王の手から放たれた無数の黒い槍が、アレンの体を貫いた。防御など意味をなさなかった。鎧ごと肉を抉り、骨を砕く鈍い音が、静まり返った広間に響き渡る。
「が、ぁ……ッ」
アレンの口から、大量の血が噴き出した。膝から崩れ落ちる。支えを失った体は、糸の切れた人形のように石畳へと倒れ込んだ。
それを見た魔王は、もう僕たちに興味を失ったかのように背を向けた。
「アレン!!」
僕は絶叫した。もう、言いつけなど守っていられなかった。僕はリュックを背負ったまま走り出し、血の海に沈む親友の元へスライディングするように滑り込んだ。
「しっかりしろ!今、回復薬を……!」
震える手でポーションの蓋を開けようとする。けれど、アレンの血に濡れた手は滑り、うまく開けられない。焦りが指先を凍らせる。そんな僕の手を、アレンの冷たい手が弱々しく覆った。
「……いい、んだ……もう。逃げろ。あいつが後ろを向いてるあいだに……」
「よくない!嫌だ、死ぬな!お前は勇者だろ!?約束したじゃないか、一緒に帰るって!」
「……はは、勇者、か……」
アレンは自嘲気味に笑い、虚ろな瞳で天井を見上げた。その目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「痛いよ……怖いんだ……」
それは、旅の間一度も見せたことのない、ただの少年の顔だった。村で膝を擦りむいて泣いていた頃と変わらない、弱々しいアレンだった。
「本当は、ずっと怖かった。任命式の夜も、旅の間も……足だって、いつだって震えてた。逃げ出したかった……」
「アレン……?」
「でも、逃げられなかった。俺が頑張らないと……お前が、壊れちまうから」
アレンの視線が、僕へと向く。その瞳には、今まで僕が見たことのない、悲痛なほどの懺悔の色が浮かんでいた。
「……ごめんな。俺たちはずっと、お前を騙してた」
「え……?」
「俺は……勇者じゃない」
僕の思考が停止した。
「お前が、勇者だ」
アレン。何を、言っているんだ?
「俺は……お前という『兵器』を、無事に魔王の元まで運ぶための……使い捨ての『鞘』だったんだ」
鞘?兵器?僕が?
「お前の中には、世界を滅ぼしかねない力が埋め込まれてる。それが勇者の力。……愛する者の死が、そのスイッチになるってさ」
アレンは血を吐きながら、必死に言葉を紡ぐ。命を削りながら、最期の真実を伝えようとしていた。
「俺が……魔王に勝てば……お前は覚醒しなくて済んだ。ただの荷物持ちのまま、俺の親友のままで……故郷に帰れたのに」
アレンの手が、僕の頬に触れた。指先は氷のように冷たかった。
「優しいお前に、戦いなんてさせたくなかった。……守りたかった、お前だけは」
「アレン、待って!やめてよ」
「……ごめんな。弱くて、ごめん……」
ふっ、と頬に触れていた手の力が抜けた。ドサリと、アレンの手が床に落ちる。見開かれた碧色の瞳は、もうどこも映していなかった。
「……あ、……あぁ……」
喉の奥から、言葉にならない音が漏れた。アレンが死んだ。僕を「守る」ために?恐怖に震えながら、それでも勇者の仮面を被り続けて。
――プツン。
僕の中で、何かが切れた音がした。悲しみでも、怒りでもない。もっと根源的な、僕という存在を縛り付けていた鎖が千切れる音。
直後。僕の背中で、リュックサックが、背中から弾け飛んだ。
バヂィン!!
それは純粋な光となって噴出した。黄金のオーラが僕の背中から、僕という器から溢れ出した奔流だった。
「……な、に?」
玉座へ戻ろうとしていた魔王が、足を止めて振り返る。余裕に満ちていたその表情が、初めて凍りついた。そこにあるのは、理解不能な事象への困惑と、生物としての本能的な恐怖。
「なんだお前は!?貴様……!?」
アレンの死体越しに、僕はゆっくりと立ち上がる。体中を駆け巡る万能感。涙はもう出なかった。感情という機能が、システムによって最適化されていくのを感じる。ああ、そうか。僕は荷物持ちじゃなかった。僕こそが、魔王を殺すためだけに作られた「勇者」そのものだと、確信した。
黄金の奔流が、玉座の間を白く染め上げた。その光を浴びた瞬間、魔王の顔から余裕が剥がれ落ちた。さっきまでの傲慢な王の姿はどこにもない。まるで、天敵でも見るような、底知れぬ恐怖に顔を歪めている。
「もう来たのか、そんな!」
魔王の顔は驚愕に強張り、玉座を蹴り倒し、無様に後ずさった。その目は、僕という存在の奥にある「何か」を見て怯えていた。アレンに向けていた値踏みするような視線とは違う。生物としての本能が、僕を捕食者だと認識している目だ。
僕は魔王に歩み寄る。
「なぜ今なのだ!来るな、来るなァッ!!」
魔王は金切り声を上げ、影から現れた最精鋭の魔族たちを僕へとけしかけた。部下たちが武器を構えて殺到するその隙に、魔王は背を向け、広間の奥にある隠し通路へと走り出した。世界の半分を統べる王が、今はただの死に怯える小動物のように逃げ惑っている。
「盾になれ!時間稼ぎをしろ!」
僕は、見苦しく叫ぶ魔王と、迫りくる魔族の群れを冷めた目で見つめた。
……遅い。
魔族たちが武器を振り上げる動作が、まるで水中にいるかのように緩慢に見える。悲しみも怒りも、遠い。脳内のノイズが消え、世界が静寂に包まれている。
これが……勇者?
僕にはただ、アレンを殺した害虫を駆除しなければならないという、事務的な思考だけがあった。僕は自分の手のひらを見つめる。指先一つ動かすだけで、空間そのものが僕の意思に従う感覚。
「つぶれろ!」
僕は親衛隊の群れに、軽く視線を向けた。ただ「邪魔だ」と念じただけ。
ドォンッ!!
一瞬にして音が戻る。それだけで、屈強な魔族たちが、まるで濡れた紙屑のようにグシャリと潰れ、存在ごと空間から拭い去られた。悲鳴を上げる暇すらなかった。
「な……ッ!?」
逃げようとしていた魔王が、足を止めて振り返る。そこにあるのは、絶望。
僕はゆっくりと歩を進めた。一歩踏み出すたびに、城全体が恐怖に震えるようにきしむ。魔王はへたり込み、床を這って後ずさる。
「ま、待て!待ってくれ!!」
魔王が両手を突き出して懇願する。
「は、話を聞け!まだ早い!余を殺すな!今ここで肉体を失えば、次の復活まで千年はかかるのだ!千年の虚無など、余はもう耐えられん!頼む!」
「千年?」
僕は首を傾げ、足元に転がっていたアレンの剣――折れた聖剣の柄を拾い上げた。湧き上がる怒り、いや、冷たい笑いが口元に浮かぶ。
「悪いようにはせん!余と手を組め!世界のすべてを貴様にやってもいい!貴様は自分の力を理解していない!余は知っている!神にだってなれる!だから余を――」
「交渉決裂だ」
僕はアレンの亡骸へと視線を流した。あんなに生きたがっていた彼に、もう明日は来ない。
「アレンには、明日さえ来ないんだよ」
右手に力を込める。黄金のオーラが折れた剣を覆い、巨大な光の刃を形成した。アレンが必死に振るっていた力とは桁が違う。あまりに強大すぎて、制御しなければ城ごと消し飛ばしてしまいそうだ。僕は力を確かめるように、ゆっくりと剣を振り上げた。
「……ああ、アレン。君は正しかった。僕は『化け物』だ。君は最後まで、それを蓋で隠そうとした」
「ひ、ヒィッ――やめろ、やめろおおおお!!」
「消えろ」
一閃。剣を振るった感覚すらなかった。光が通り過ぎた後、魔王の身体は声も出せずに両断され――次の瞬間、その存在証明ごと分子レベルで分解され、塵となって霧散した。後に残ったのは、ただの広い空間。僕は光を消し、再び「荷物持ち」の顔に戻って、静かに息を吐いた。
王都への凱旋。紙吹雪が舞う大通りを、僕はアレンの遺骨と共に進んだ。歓声が耳に痛い。彼らは「魔王が消えたこと」を祝っているだけで、誰が犠牲になったかなど気にも留めていない。
王城、謁見の間。国王と神官長たちは、僕の姿を見るなり、隠しきれない安堵と狂喜の笑みを浮かべた。
「よくぞやった!勇者よ!魔王討伐、誠に見事である!」
同時に、側近たちがひそひそと囁き合う声が、強化された僕の聴覚には鮮明に届く。
「計画通りですな……」
「ああ、あの『勇者アレン』は実に、いい仕事をしてくれた。予定通り砕け散って、啓示通り、真の「勇者」を完全に目覚めさせたわけだ!」
「戦後処理も楽で済みましたな。戻ってこられたら、報酬の支払いやら領地の割譲やらで面倒が起きるところでした」
「ククク、違いない」
「聖女マリア、剣士ガイルも、時間稼ぎとしては優秀でしたな」
彼らは、アレンたちの死を悼むどころか、「正常に作動した消耗品」としか評価していなかった。この国は、最初からすべて知っていたのだ。アレンの献身も、マリアの祈りも、ガイルの犠牲も。すべては、この国の上層部が描いた醜悪なシナリオ通りだった。
(……ああ、そうか)
僕の中で、何かが完全に冷え切った。激情はない。ただ、絶対的な殺意だけが、氷河のように静かに広がっていく。
「褒美として、其の方に『救国の英雄』の称号と、公爵の地位を与える!これからは我が国の守護者として、その力を振るうがよい!」
国王が高らかに宣言する。僕はアレンの遺骨をそっと床に置き、深く、深く跪いた。顔を上げ、まるで聖人のような、一点の曇りもない微笑みを浮かべる。
「……身に余る光栄です。陛下」
僕は恭順の意を示し、頭を垂れる。その背中にはもう、かつての仲間たちの温かい視線はない。あるのは、誰にも見えない、どす黒く重たい『復讐』という名の荷物だけ。
(ありがたくもらうよ。この地位も、権力も、信頼も)
僕は心の内で、死んだ親友に語りかける。
アレン、お前は僕に「幸せになってくれ」と言ったね。ごめん。その約束は守れそうにない。僕はもう、ただ守られるだけの荷物持ちじゃないんだ。
(この国を、内側から地獄に変えてやる。僕を英雄と崇め、すり寄ってくるこいつらを、絶頂から絶望へ叩き落としてやる。お前たちがアレンにしたことの全てを、骨の髄まで後悔させてやる)
拍手喝采の中、新たな英雄は静かに笑った。その瞳の奥で、魔王すら葬った黄金の光が、今度はこの国を食らい尽くすための暗い炎となって揺らめいていた。
物語は終わらない。「荷物持ち」から「勇者」になった男による、腐敗した国への葬送が、今ここから始まるのだ。
(了)




