1話 過度な平和を
この国は、安全だ。
この都市は、平和だ。
それは誰もが疑わない事実であり、疑う理由もなかった。
雪は一年のほとんどを空から降らせ、
大地は白く凍りつき、風は骨の髄まで冷たく突き刺さる。
極寒地帯――人が棲むには、あまりにも過酷な土地。
それでも人々はここで生きていた。
戦争はない。
犯罪も、ほとんど起きない。
幼い頃から、人々は教えられる。
互いに助け合うこと。
争わず、分け合い、耐えること。
厳しい自然の前では、ひとりで生きることなどできないからだ。
だが――
この国が本当に平和である理由は、それだけではない。
誰も口にしない。
だが、誰もがどこかで感じている。
「何か」が、この国を守っている、と。
それは法律でも、軍でも、王の威光でもない。
ある一人の男。
ただそれだけ。
名は、知られていない。
人々も、王ですら、その正体を知らない。
伝説として語られることもない。
英雄譚として残ることもない。
ただ、結果だけが残った。
国境を越えようとした侵略者が、
翌朝には誰一人いなくなっていたこと。
都市の闇で芽吹こうとした悪意が、
形になる前に消えていたこと。
大規模な戦争の兆しが、
なぜか必ず「起こる前に」消えていったこと。
誰もその理由を説明できない。
説明しようとも、しない。
なぜなら――
説明できてしまえば、恐れてしまうからだ。
その男は、あまりにも強すぎた。
剣も、魔法も、軍勢も、意味をなさないほどに。
そして、あまりにも平和を守りすぎた。
争いが起こる前に終わらせ、
憎しみが芽吹く前に刈り取り、
戦火が上がる前に沈めてしまった。
だからこの国には、
戦争を語る言葉が育たなかった。
だからこの都市には、
犯罪を正当化する理由が生まれなかった。
人々は平和に慣れ、
平和を当然のものとして受け入れた。
そして――
その平和の代償を、誰も知らない。
最強の男は、今日も名を持たない。
感謝も、称賛も、恐怖も向けられない。
ただ、凍てつく夜のどこかで、
静かに立ち続けている。
この国が、
この都市が、
「平和であり続ける」ためだけに。
――これは、
誰にも知られず、
誰にも語られず、
それでも確かに存在する、
あまりにも強すぎた男が守り続けた、
平和すぎる国の物語。




