#9 並ぶために
最近のかのんちゃんは、なんだかキラキラしている。あの日、自分の胸を受け入れるって決めたあたりから、表情も変わった。同期の望月さんとも仲良くなって、一緒にコスプレの話で盛り上がっている。休憩時間にスマホを見せ合って、「この衣装なら胸が映えるよね」なんて笑っている姿は、前よりずっと堂々としていて、眩しいくらいだ。
正直、嬉しい。嬉しいはず……なんだけど。
まるで私の手を離れて、遠くへ行ってしまうような、そんな寂しさが胸の奥にじんわり広がる。
私だって、コスプレのひとつくらい……と思うけれど、現実的には無理だ。
胸がないくせに、お腹や腰まわりばかり立派に育ってしまって、いわゆる「映える体型」とはほど遠い。衣装に身を包んだ自分を想像しても、どうしても冴えない。むしろ、脇からこぼれるお肉や、ウエストに乗る柔らかい段差ばかりが目についてしまう。
そんなある日、何気なくSNSを眺めていて「腹肉ブーム」なんて言葉を見つけた。ある時期から、ぽっちゃりした女性のゲームキャラクターが増えたようで、そういったキャラのコスプレをした女性たちのお腹が、可愛く、色っぽく撮られている。服の隙間からふわりと覗く柔らかな肉。そこに視線が吸い寄せられる。なるほど、こういうのもアリなのかと、一瞬思った。
けれど、スクロールを続けて気づく。ブームの中心にいるのは、やっぱり胸のある人たちだった。
谷間とお腹の柔らかさ、その組み合わせが“ごちそう”みたいに受けている。
このブームのきっかけとなったとされている立派な太ももの少女も、作中で言及されてはいないとはいえ、胸があり体型にメリハリがある。
私には、その胸がない。結局、ただのお腹の肉を晒すことになるだけ。そういう人もいなくはないけど、評価はされていない。
「鏡餅のコスプレ?」
「実家の母親思い出した。親孝行しないと」
これじゃ、コスプレはできない。コスプレどころか、かのんちゃんの隣に並ぶことすら、抵抗がある。
せめてお腹だけでも。そう思って、ダイエットを決意した。
夜、部屋の床にヨガマットを敷いて、ダイエット動画の真似をして腹筋に挑戦してみた。
手を頭の後ろで組み、息を止めて上体を起こそうとする。
「んっ……」
でも、お腹の肉がたぷんと重たく胸にのしかかり、途中で押し返されるようにして身体が上がらない。
下腹のふくらみが折り曲げた太ももに乗りあげて、肉と肉が押し合ってぷにぷにと盛り上がる。
その感触に自分で笑いそうになるけれど、同時に顔まで熱くなる。
二度、三度と挑戦するけれど、やっぱり半分ほどでつかえてしまい、背中が床に落ちるたび、柔らかいお腹が波打って揺れた。
「これじゃ……筋肉じゃなくて、贅肉のトレーニングだよ……」
情けなさにため息が漏れる。けれどその“余計なお肉”は、確かにここに存在していて、私の身体を女らしく丸くしている。
汗ばんだ肌にくっついて重たく揺れるたび、羞恥と一緒に、奇妙な熱が胸の奥に広がっていった。
それならと食事も見直した。量を減らし、野菜中心にしてみる。でも、お腹が鳴る。
柔らかいお腹の内側から「食べたい」とせがむように音が響き、空腹に耐えるたびに自分の贅肉をつまんで気を紛らわせる。
続けたいのに、続かない。
仕事で疲れて帰った夜は、動くよりもベッドに倒れ込みたくなる。
お腹が重たいせいで寝返りすらぎこちなく、布団に沈むたびに自分の肉の存在をいやでも意識させられる。
料理も面倒で、つい惣菜や揚げ物に手が伸びてしまう。
カロリーを気にしながら箸を伸ばすのに、噛むたびにじゅわっと広がる油の旨味に抗えない。
休日は「今日くらいいいよね」と言い訳して、気づけばソファに沈み込み、お腹の段をぽんぽん叩きながら眠ってしまう。
ひとりじゃ、限界がある。
鏡に映る自分を見て、ため息がこぼれた。
腹肉はむしろ柔らかさを増していて、つまめば手のひらにずっしりと重みが返ってくる。
かのんちゃんは前へ進んでいるのに、私はまだここにいる。
__
「はるなさん、ちょっと疲れてませんか?」
残業終わり、心配そうに覗き込んでくるかのんちゃんの目は、いつも通り優しい。その視線に包まれると、胸の奥の弱さが勝手にあふれてしまう。
「うん……ダイエットしようと思ったんだけど、ひとりだと続かなくて。運動も、料理も、面倒くさくなっちゃう」
「私、料理なら得意ですよ。お邪魔してもいいですか?」
その日の夜、かのんちゃんは私の家に来て、キッチンに立った。
小柄な体からは想像もできないほど、包丁を動かす手は迷いなく、リズムよく進んでいく。油の跳ねる音と一緒に、香ばしい香りが部屋を満たし、私のお腹が正直に鳴った。
「これなら低カロリーでも、しっかり食べた気になりますよ」
「えっ、すごい……」
テーブルに並んだ料理は、色も香りも鮮やかで、口に入れた瞬間、ほっと力が抜けた。
野菜たっぷりなのに物足りなさはなく、むしろ、かえって体が求めていた味だった。
「こんなに作れるなら、一人暮らしすればいいのに」
「興味はあるんですけど、なんだか不安で……つい後回しになって」
かのんちゃんがハーブティーを両手で抱えながら、少し照れたように笑う。
その表情を見た瞬間、言葉が自然にこぼれていた。
「……じゃあ、うちに来ればいいのに」
そう口にしたとたん、自分でも驚いた。
それは決して冗談じゃなくて、気を引きたかったわけでもなくて。
本当に、そう思ったから。
驚いたように目を丸くするかのんちゃんと、目が合う。
あ、しまった、って思う前に、顔が熱くなるのを感じた。
「え、あの……迷惑じゃないですか……?」
かのんちゃんがそっと聞き返す。
その声はどこか小さくて、でもちゃんと届いてくる。
テーブルの間に流れる沈黙が、急にやわらかく、あたたかく思えた。
「……ううん。むしろ、嬉しいかも。ひとりじゃ、ほんとに続かないから」
私がそう言うと、かのんちゃんは少し首をかしげて、微笑んだ。
「じゃあ、週に何日かでもいいですか? ご飯作りに来ますね。ついでに、腹筋も一緒にしましょう」
「えっ、私、腹肉がつっかえて腹筋できないよ……?」
「本当ですか? やってみましょう」
部屋の隅、ヨガマットの上で、私は仰向けになった。
かのんちゃんに見守られているだけなのに、変に緊張する。
Tシャツの裾が少しめくれ、ぽよんとしたお腹が覗いた。
「よし、じゃあ腹筋10回から。いきますよ、せーのっ」
かのんちゃんの掛け声に合わせて、上体を起こそうとするけど……。
「んっ……くっ……」
「……あれ?」
「やっぱり、つっかえる……お腹が」
でも、お腹の肉がどうにもこうにも重たくて、途中でぐらりと倒れてしまう。
顔を上げようとするたびに、下腹の贅肉が太ももに乗り上げて、ぷにっと盛り上がるのが自分でもわかる。
「……もう無理……」
私はごろんと横になって、手で自分の腹を抱えた。たぷんと揺れる感触に、恥ずかしさが込み上げてきて、思わず顔を手で覆った。
「それなら、次は腕立て伏せにチャレンジしてみましょう!」
かのんちゃんが笑顔で言うけれど、私はちょっと躊躇した。
腹筋も失敗して、今度は腕立て。正直、自信がない。
でも、やってみよう。せっかく一緒にいるんだし。
ヨガマットにうつ伏せになり、手を肩幅に開く。脚を伸ばして、膝をついて、腕立ての姿勢。
「いけそうですか?」
「……たぶん。……やってみるね」
深呼吸をして、ぐっと力を入れて体を持ち上げようとする。
「う、ううう……!」
二の腕が、ぷるぷる……ぷるぷる……震えるばかりで、肘がほんの少ししか曲がらない。
背中は持ち上がらず、むしろお腹の肉が床にぺたんとくっついてる。
「……上がらない……っ」
腕の筋肉が悲鳴を上げる。それでもあとちょっとだけ、と頑張ってみるけど――。
ぷるっ、ぷるっ、ぷるぷるっ……。
「わぁっ!」
力尽きて、ぺたんとマットに倒れ込んでしまった。
「やっぱり私なんて……」
「はるなさん!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたかのんちゃんが、私の隣に膝をつく。
その表情は真剣そのもので、だけど、やっぱりどこか優しい。
「そんな顔しないでください。私だってできないんですから」
「え? かのんちゃんが?」
「はい……見ててくださいね」
彼女はうつ伏せになって、腕立て伏せの姿勢を取ろうとした。
「んっ……!」
バランスを取ろうとした瞬間、胸が床にぐにっと押しつぶされて、上体が下がらない。
顔を真っ赤にしながら、かのんちゃんはつぶやいた。
「……大きすぎて、胸がつっかえて腕立て伏せできないんです……」
「ふふっ」
私、思わず笑ってしまった。
だって、なんだか――おかしくて、可愛くて、ちょっとだけ、ほっとした。
「じゃあ、背筋ならできる?」
「それも……仰向けになると、胸が邪魔で……」
そう言って、今度は上向きに寝転がってみせるかのんちゃん。
けれどやっぱり、潰れた胸がぐっと顔の方に乗りかかり、上体を起こすどころか、喉元までぎゅうぎゅう押されてる。
「……苦しいです……」
「ぷっ、くくくっ」
私は、ついに吹き出してしまった。
涙目になってるのは、さっきまでの悔しさじゃなくて、笑いすぎのせいだ。
「できないの、私だけじゃなかったんだ……」
かのんちゃんも、口元に手をあてて笑っていた。
そして、パチンと手を叩いて言った。
「じゃあ、ふたりでもできるメニュー、探しましょう!」