第七話 元カレ
今の自分が居ることは過去に関わった事柄や人も大いに関係してくる。
傷つくことも、いつか無駄ではないと思いたい回です。
変わらず早朝シフトで働く茜。
バタバタと稜は隣のロッキーを迎えに行き、いつものコースを歩き出す。ちょっと久々に走った足がやや筋肉痛なのが、陸上を避けていた証だった。
「ロッキー走るって楽しいよな」
ロッキーに話しかけると、じゃぁ走る?みたいな目をギラリとさせられ一瞬稜はチガウチガウと首を振る。
もう、少し肌寒い秋の早朝。日が昇って直ぐの今日のはじまりを感じて、随分歩幅を合わせて歩けるようになったロッキーと週明けを感じていた。
四時から働いている茜はレジカウンターで欠伸を何回かした。二時間くらい経つと睡魔がやって来たのだ。
「おはようございます!」
元気のいい声でレジに来た青年が挨拶した。
「おはようございます・・・」慌てて脳みそを叩き起こした茜はカウンターに置かれたおにぎりとお茶の会計をする。
「彼女さん、昨日はありがとうございました。お疲れっぽいですね」
そう続ける青年の顔を見上げて、はっと気づく。
「森野君!」
その青年は昨日の予選会に誘ってくれた森野だった。茜は慌てて
「で、彼女さんはなに?」と聞き返す。
「いや、新田さんの彼女さんですよね」
「何でそうなるの?」と袋要ります?とレジを済ませながら会話を続けた。
「ずっと新田さん、あかねぇ~あかねぇ~って、めっちゃ甘え上手な年下彼氏だったじゃないですか」と少しニヤニヤして森野が言う。
「はぁ?それ、なに、え、あ、ん・・・」
何だか意外な森野の解釈に慌てていると、店の外で大きく手を振る稜が目に入る。と同時に外を掃いていたバイトの大学生が「あかねぇ~って呼んでますよ」と指さしながら店に入って来る。
「あ、朝から待ち合わせですか?」
森野は増々ニヤニヤして言う。
「一緒に住んでるんっすよね」
入って来たバイトの大学生が箒をレジ裏に片付けに行きがてら言う。
「ちょっと何でそれ知ってるの?」
「え?同棲してるんですか?」森野が目をいやらしく細める。
「空さんこの前言ってましたよ」
「あいつ~空、シフト入れてって言ったかと思えばバイトしながらペラペラと・・・」
「仲良かったですもんね、昨日も」森野の勘違いはどんどん深まる。
そんなやり取りをレジ前でしていると、スーツ姿の男性が森野の後方から顔を覗かせ
「あれ?茜ちゃん?」と声をかけて来た。
その顔を見て茜は固まる。もう見たくない顔だったからだ。
「あ、春彦さん・・・」
いつもしっかりはっきりしている茜には珍しい消え入るような声だった。
「やっぱり茜ちゃんで合ってるよね。びっくりした~こんな所で会うなんて思ってなかったから」
爽やかでいかにも好青年な風貌。ワイシャツにスラックスでサラリーマンだと思われる。が、ネクタイはなく少し急いでいるようではあったが、小奇麗な男性に森野にも映っている。知り合いなんだと悟り、自分のレジを終えた森野はさっとその場を離れたものの、気になって雑誌コーナーで足を止め聞き耳を立てた。
「久しぶりだよね。あ、ここもしかして実家のコンビニ?良かった~朝からやっちゃって」
と手にした絆創膏を見せる。
「今日病院の医療機器のプレゼンで朝から資料チェックしてたら指切っちゃて。最新の医療機器でいつもの担当地域外なのに神奈川まで俺呼び出されて。頼られて困っちゃうよ~。で、すぐそこのビジネスホテルに前乗りしてたんだ。ここに茜ちゃん居るなら連絡したら良かったなぁ」
「そうなんだ、仕事順調そうなんだね」
目も合わさず茜はレジを済ませる。
「茜ちゃん結婚は?」
「え?あ、まだ」
「そっか、俺子供も二人になって、ママと妻も上手くやってて、茜ちゃんありがとうね。ママの言う通りにして正解だったのかな~」
「あ、そ・・・」ありがとうと言われる筋合いはない。何も春彦の為にしていない。あなたが自分の為にしたこと。そう言う思いをグッと飲み込んで、あ、そ、というのが精いっぱいだった。
茜の様子がいつもと違うのは外でロッキーと見ていた稜にも伝わっていた。勿論盗み聞きをしている森野にも。
「茜ちゃんさっきの聞こえたんだけど、年下の彼氏いるんだね。安心したよ、あんな別れ方したから、ママも心配してたんだよ、俺だけ幸せになったみたいで、何かさ」
「・・・あ、そうね、聞こえてたんだね」
苦笑いをしながらふと外に目線をやった。稜がいる。春彦と一緒に居たくない、稜に助けて欲しい、そんな目をして稜を見つめた。
森野が雑誌コーナーから外に出る。
「新田さん、彼女さんなんか様子が…」耳打ちをして
「森野君、ちょっとロッキー頼む」
そう言って稜は森野にリードを渡し店に入って行った。
「おはよう!あか、茜!」
手を上げながらレジ一目散に向かう。ぎこちない茜呼び。
「稜君・・・」
稜はレジに居座る春彦に目をやり
「あか、茜、帰り一緒に帰るか?」
再びぎこちない茜呼びに茜本人も眉間にしわが寄るのだが、春彦も察したのか
「彼氏?ふふっ茜ちゃんのことよろしくね」と何やら上から目線でそういうと、そのまま店を出て行った。
春彦を目で追い稜はその背中を睨みつける。
振り返り茜の顔を見ると、茜が怖い顔をしてぶつくさ独り言を言っていた。
「ママ、ママ、ママ…このマザコン野郎が…」
「あかねぇ?どうした?」
茜は少し息が荒く呼吸数が増えて行く。
「マザコン野郎が…ふぅふぅ」
ふぅふぅと更に過呼吸になりそうな勢いに稜は気付き「あかねぇ、深呼吸して!ふう~ふう~、落ち着いて」レジのカウンターに入り込んで背中を擦る。
暫くして茜が落ち着き出し、すっと茜の頭を片手で稜は自分の胸に引き寄せた。そのまま頭を撫でながら、大丈夫、大丈夫、と呟く。
大きな稜の胸、鼓動が近く、暖かい。茜は吸い寄せられるように稜の胸の中で涙を流した。
奥からバイトの学生が出て来て
「茜さん、もう上がってもいいですよ。俺今日午後だけの授業なんで変わります。パートさん来るの九時でしたっけ。それまで居ますし、お疲れっす。彼氏さん連れて帰って下さい」
そう言ってレジを変わった。なかなかのシゴデキバイト君だった。
店の前で森野に預けていたロッキーを引き取り、森野は稜と茜が付き合っているという誤解をしたまま帰って行った。ついでに言うと、シフトを変わったバイトの大学生も二人は同棲していると空の話から歪んだ解釈をしたままである。
「ごめん、稜君」
茜が店から出て来て稜とロッキーは一緒に帰った。帰り道茜はさっき会った春彦の話を始める。
「あの人、元カレなんだ、ってなんとなく分かってた?」
眉を八の字にして稜の顔を見上げる。茜は160センチくらいの身長でそう小さくもないが、185センチもある稜の顔をみるのは少し見上げてしまう。
「森野君が盗み聞きしてたってちょっと教えてくれたけど」
頭を掻きながら言いにくそうに稜は言う。
「ふふ、森野君も聞いてたんだね」クスっと笑って茜は話を続けた。
春彦は大学のふたつ先輩。学部は違ったけど友人の紹介で知り合った。何不自由なく育った一人息子と言ったところの春彦は知性、教養、礼儀、何もかも大人に見えて、自分の家族にはない魅力にひかれた。大学時代は憧れの先輩止まりだったのが、卒業後ばったり再会し、単純に運命を感じて付き合うことになった。二十七歳まで三年付き合ってアラサー女子としては結婚も期待していた。
「よくね、お母さんの話をするのあの人。一人っ子だし優しいんだなって思ってたんだ」
遠い目をしてそういう茜の目に涙が溜まって行く。
ふぅ~と大きく深呼吸して茜は話を続けた。
十二月の初め呼び出され、クリスマスの相談かと思ったら突然の別れ話をされる。
「ごめん、別れてくれないか」
「何で突然、意味が分からない」
慌てる茜に春彦が続けて告げたのは
「ごめん、子供が出来たから」だった。
茜は増々意味が分からない。
「ママがね、結婚するなら茜ちゃんじゃなくてこの人にしなさいって、ちょっと前に勧められて」
「勧められて、すぐ子供が出来たってこと?」
「いや、ちょっと前っていうか一年半くらい前から、ママがどっちがいいか二人と付き合って見なさいっていうから」
「はぁ?」怒りを込めたはぁが出た。茜は初めてキレた。
「どういうこと?二股?私この一年半二股されてたってこと?」
「まぁ端的に言えばそうだけど、ママがさ」
「ママママって自分のことでしょ?なんでママが決めるの?」
「でも、子供が出来たのはもう決めるしかないから俺が結婚しようって思って」
「あぁそう、ママも春彦さんもどっちもその女の方を選んだってことなんだよね!」
カフェでクリスマスの予定を楽しく話すと思っていたのに、今までの人生で初めてというくらい人前も気にせず
「分かった!さようなら!」と怒鳴りつけて席を立った。
明るくていつも冷静でしっかりしている茜が家族以外に怒りをぶつけたことは初めてだった。
「あかねぇ別れて正解だよ。ずっと遠慮してたんでしょ、きっと。お坊ちゃんのあいつに合わせるっていうか。二股もマザコンも最悪だけど、最初からあかねぇらしくなかったんじゃ、良くないよ」
稜は茜の話を聞き終えてそう言った。
「でも再会とかびっくりするよね、会いたくないよね、そんなクソ野郎に!」そう付け加えて笑った。
「ほんと、クソ野郎!」
茜も続けて笑った。
「クソ野郎~!!マザコン野郎!!」稜が大きく叫ぶ。
「やだちょっとちょっと・・・」と稜の口を押えて恥ずかしそうにしながら涙が残った瞳もちょっと嬉しそうで、稜は茜を不意に可愛いと思った。ん?何、この感覚?いつもと違う茜に見える。
「ん?どうした?」
一瞬ぼんやりした稜を覗き込む茜に
「あ!空、熱海で何するんだろね」
と、稜は慌てて話を変え
「ほら」と茜の手を取り走り出す。ちょっと~と茜は稜の手を握り返して一緒に走り出す。一緒に居るロッキーもテンションが上がって先頭に走り出て、二人と一頭が金木犀の香りと一緒に秋風に運ばれて行った。
「うわぁ!」
玄関から出て来た空が、ロッキーが先頭に走り込んだ稜と茜に出くわす。
「間に合った・・・」かなり息を切らしている茜が声を絞り出して言った。
「一緒だったの?っていうかどうした?手なんか繋いで」
ぽかんとした顔で空が稜と茜の繋がった手を見つめる。あぁ!と二人が慌てて手を解いて
「空が家を出る前に、間に合うように、あの、その、スピードについてこれるように、その…」
「そ、そう、命綱みたいな、ね、」
「そう、コケないように、安全ベルト的な」アハハハ、と二人が慌てていると
「意味わからないけど、ありがとう見送る為に走ってくれたってことだよね、うん」
と空はニコニコして二人を見て答えた。
「じゃ、バスの時間ないから出るわ」と二人に片手でハイタッチして大きなリュックを背負って玄関を出て行った。
「行っといで」
茜が手を振って言う。空は振り返って「行ってくる!」と大きく手を振った。
「ねぇあかねぇって“いっといで”て言うよね、“行ってらっしゃい”じゃなくて」
稜が不思議そうに聞く。
「古川家がそうだから普通だと思ってたけど、そうだね、ふふ」
茜の家は母親が子供たちを「行っといで」と送り出すのでそれが普通だと思っていた茜だった。
「でもね、お母さん、お父さんには“行ってらっしゃい”なの。だから夫婦とか恋人とかの関係は“行ってらっしゃい”なのかなって、私が勝手に思っちゃってて」
「へぇ」
「だから姉弟とか友達には、昔から“行っといで”て言ってるかも、ふふふ」
「仲いいんだ、あかねぇの両親」
「う~ん、そうかなぁ~なんかいつもガヤガヤしてる家族だけどね。言いたい事言って喧嘩もしてるし、笑う時は馬鹿みたいに笑うし」
「いい家族だね」
く~んと鼻を鳴らすロッキーが稜をお座りしながら見上げる。
「ごめんロッキー、家連れてく」
「行っといで!」茜は稜とロッキーに手を振って、ホッとしたのか大きな欠伸をして自分の部屋へ戻って行った。
稜は少し自分の家族のことを考えていた。
自分は祖父と同居していたし実家にはあまり近寄っていない。かといって仲が悪いわけでもない。妹の萌もたまに顔を出すけど、
「お兄ちゃん今度これ買って~」
と何かをねだられることの方が多い。両親も祖父にまかせっきりだったわけでもなく、成人式も就職も箱根駅伝もいつも応援してくれてた。家族の形なんか家族の数だけ違うんだろう。そう言えば、怪我をして走れなくなっても、両親は何も言わなかったな、と稜は少しありがたく思った。残念そうにされても胸が痛い。励まされても逆に傷つく。
「結構いい距離感じゃん、新田家、ふふ」
ちょっと顔がにやけた稜だった。
お読みいただきありがとうございました。
稜と茜の距離が少し変わって来たかなと伝われれば嬉しいです。どうでしょう?
ロッキーの歩幅が稜と合うように、茜の歩幅も変わって来たのかも?
とこの先もお付き合い頂ければと思います。