第三話 くやしさ
思い通りに人生は動かないのが、当たり前。分かっているけど人はもがいて生きている。
それは茜、稜、空も同じです。
稜の自宅の最寄りのバス停にバスが着く。降車して、自宅方面とコンビニ方面は真逆。一瞬稜は考えたが、結局自宅へ戻った。失恋の後、知り合いに会うと愚痴りそうだ。グチグチするのは見っとも無い気がした。帰って早く寝よう、とにかくそう思った。
夜は少し肌寒い季節になって、急に気分は秋を痛感している。うつむき加減で自宅に辿り着いて門から玄関へ数歩向かうと一人のしゃがんだ男が戸を塞いでいる。
「え?」
よく見ると「空?」丸まった背中が寒そうだった。
「稜ちゃ~ん」
そう言って抱き着いて「鍵失くしたかも…」と泣きそうな顔をしている。
「電話すれば良かったのに」
「スマホ家に忘れて出かけてた」
更に泣きそうな顔になる空。稜は慌てて鍵を開け中に二人して入る。
「稜ちゃんごめん、寒くって、風呂入らせてと一目散に風呂場へ向かった」
幼なじみの空は、今は稜の家にほぼ入り浸って合鍵を持っていた。
「お前、鍵失くしたら鍵つけ直さなきゃじゃん」
「ん~ごめん…」
そう言いながら湯を貯めつつ脱衣場で服を脱ぎ始めて
「あ!!」と空が叫ぶ。
「何?どうした?」
慌てて稜が脱衣場の擦りガラスの戸を開けると、鍵を手にした空がハの字の眉をして笑っていた。
「ズボンのポケットに入ってた、ごめん」
「も~失くしたよりあったなら良かった」
稜は呆れながらもホッとして、ついでに空の頭をぐしゃぐしゃとし笑いながら出て行った。
小学校に入って直ぐ友達になった稜と空。学校から帰るとどちらかの家や公園で遊んだり、とにかくよく一緒に居た。稜が三年生の時、妹の萌が生まれる。九つも年が違う妹は可愛くて、稜もお兄ちゃん気取りで世話を手伝っていた。が、九歳まで一人っ子だった稜は急に家族から注目されないことに気付く。蔑ろにされている訳ではないのだが、幼心に寂しさを覚えた。そんな時、近くに住む祖父がよく家に招いて遊んでくれた。それから稜と一緒に空も祖父の家に出入りし、空にとっても祖父の家は思い出の家でもある。そこに今稜は住んでいる。
「稜はおじいちゃん子だったよなぁ。俺も随分世話になったけど」
温まって出て来た空は冷蔵庫からビールを出す。そして部屋着に替えた稜と乾杯した。
「で、今日遅かったね、デート?」
ビールをグビッと飲んでご機嫌な空が聞いた。
「ん…」歯切れの悪い稜。
「何?」空が顔を覗き込むと空は重い口を開ける。
「琴美にフラれてきた」
「は?」ビールを咽そうになりながら空は聞き返す。
「いやいや、急に?何で?」
「…俺に愛想着いたって感じ。怪我して走らなくなって抜け殻になった俺に見切り付けたんじゃない?」
「まじか~琴美ちゃん結構あっさりしてる子だったんだね…」と稜の頭をヨシヨシと優しく撫でる。
「やめろよ、慰めるな」忘れていた惨めさ、悔しさが急に湧いた。走れなくなっても何ともない顔をしていたつもりが、琴美には見透かされてたし、空には慰められ、世界一可哀そうな男に見えるのが悔しかった。
「まぁ人生思い通りにはならないもんだよ」
「何、人生何周目くらいの口調で」
「いや、あかねぇもたいがいだから」
「ん?あ、そういやコンビニで会った。どうしたの、東京で仕事してるんじゃなかった?」
「会社潰れたんだって、その数年前には彼氏に二股かけられて捨てられて」
「わ、なかなかハードな人生…」
「だろ、あかねぇ真面目にコツコツ生きてる方なんだぜ。でもなんかくじ運悪いっていうか…ま、いつか帳尻は合うから皆」
自分が不幸だと思うと他人が皆幸せに見える。だけど見えているところはほんの一部。毎日ハッピーな人なんて早々居なくて、其々何かしら思い通りに行かない日々を過ごしているものだ。空も新卒で入社した会社を一年足らずで辞めた。父親が脳梗塞で倒れて実家のコンビニを手伝うことにした。幸い後遺症が軽く歩くのに杖が必要な程度だと空は笑って、良かったって言っていた。きっと思い描いていた未来はもっと違っていたはずなのに。稜はふとそんなことを考えた。陸上を諦めてから目標が無くなって立ち止まっている自分に琴美が愛想をついたのはそう言うことか…とぼんやり思う。
と、空が愛嬌たっぷりの笑顔で稜に抱き着く。
「もう俺完全に引っ越してこようかな」
えぇ~と言いながら、稜も嬉しそうだ。
本来、空は実家で家族と住んでいる。何かにつけてはこの家に寝泊まりして、カップルなら半同棲というのが妥当だ。
「だってさ、今あかねぇ居るし、母さんとあかねぇと気まずい空気で酸欠になるんだよ」
「何それ」
茜が実家に戻ってきて、母親は直ぐに見合いでもして嫁に行けと迫った。三十歳を超えた女が今貰い手を探さないと行き遅れると連日茜に圧を加えていた。茜は茜で今の時代は、とか反論しては二人の喧嘩が始まるのだ。顔を合わせればそんな話ばかりで、茜はコンビニの人手が足りないとなるとシフトを入れ母親と顔を会わさないようにしている。
「あとさ、あおねぇが直ぐ離婚する~って来るわけよ。さっきあかねぇにLINEしたら案の定また来てるって。空気薄いぜ、今の古川家、ガハハハハ」
と空は実家の話を稜にした。
空には一番上の既婚者の姉、碧海がいて五歳の息子がいる。一週間に一回はもう離婚だと実家に駆け込んでくるらしい。
「普通にイベントだから、ガハハハハ」
酔いが回ってきたのかリビングのソファに項垂れながら上機嫌に話している。
「お前相変わらず酒弱いな~ビール一缶まだ空いてないのに顔真っ赤じゃん、ククク」
仕方ないなと稜は薄手の布団を持ってきて、半分寝ている空にかけてやる。
そんな時、古川家では空の言う通り、長女の碧海が早口言葉で優勝するくらいまくし立てている。
「ほんと腹立つ!元太と夢の国行くって約束したのに、仕事だって!」
「お姉ちゃんそんなことで離婚するの?馬鹿じゃない」呆れて茜が口を突っ込む。
「独身のあんたに分かるわけ無いでしょ!」
「はぁ~?」
またそういう言い方をされると茜はうんざりした顔をする。独身より既婚の方が偉いのかよって心の中で吐き捨てる。何かにつけ、独身だと足りてない、世の中分かってないみたいに言われるのが茜は嫌で仕方なかった。結婚の機会を逃したけど、仕事は楽しくて充実していた。それで自分の居場所があると思っていたのに、全部失くした茜にとって些細なことで離婚だ、旦那の愚痴だ、わぁわぁ騒ぐ姉が見っとも無く羨ましくもあった。
『酸欠、早く帰って来い!空、空気清浄に帰って来い‼』と茜はこそっとLINEを送った。
♪ピロリロリン
空のスマホが鳴っているが、当の空はソファですっかり夢の中だ。
「既読にならないじゃん、もう」
茜はスマホの画面を見て目を細める。
「茜、今日はこの部屋使うから」
「え~ちょっと今私がこの部屋使ってるのよ~お姉ちゃんもうこの家出てったじゃん」
「何言ってるのあんたも出て行った身でしょ、お互い様」
私だって居たくてここに居るんじゃない、思い描いていた未来が尽く消えていった茜は悔しくて仕方なかった。
稜は風呂から上がって、ソファーで熟睡中の空の顔を覗く。気持ち良さそうな寝息。マイペースで羨ましく思った。突然フラれた夜に、幼馴染の寝顔を見てる俺って、幸せなのかな。一人の夜よりマシか…。いや、俺の話も聞いてくれよ…眉毛を下げ「ふぅ」と溜息をつく。ここにも自分の現状に悶々とした気持ちでいる男が居た。稜も悔しさをほんのり抱えていた。
アキレス腱断裂は陸上選手にとって致命傷というほどではなかった。リハビリで回復すればまた走れる。はずだった。でもアキレス腱の前に既に稜の膝が傷んでいた。それを庇った結果、無理な体制での着地でアキレス腱断裂となったのだ。しかし選手としての回復は膝が原因で無理だと医師に言われていた。アキレス腱如きでと思っている社員もいるはず。琴美も真相は知らない。稜は無理だと諦めて誰にも話していない。復帰できない現実に理由や言い訳は必要ないと決めていた。
「髪でも切ろうっかな、失恋記念に」とぼさっとした髪をタオルでバサバサとして、ふっと稜は笑った。
お読みいただきありがとうございました。
能天気のような空ですが、空の存在は稜にとっても今後茜にとっても大きく大切です。
三人の関係はどう絡んでいくか、今後も見守っていただけると嬉しいです。