第十三話 待ち合わせ
臭い匂いがわかる様になった茜。
これから他の匂いは分かってくるのでしょうか?
茜の味覚はまだ戻らないものの、臭い匂いには反応出来るようになった。そして稜と茜は時々コンビニの前で待ち合わせをしている。
八月の朝五時半は少し過ごしやすい気温だが、六時にもなるとすぐに暑く感じる。稜はロッキーを連れてコンビニに向かう。そこに茜がやって来る。毎朝ではないが、時々約束をして一緒に散歩をするようになった。
「おはよう」
会えるこの瞬間までがドキドキして朝から嬉しい。茜が以前言っていた待ち合わせのドキドキ感を今二人は楽しんでいた。ロッキーも同じく、茜が待っていると喜んで早歩きになる。
コンビニで出会ったあの日、ロッキーの散歩をしていた稜と失業しどん底と言われた茜。その時間からまた新たに始まったかのようだった。
一緒に散歩をし、他愛もない話をし、一時間近く歩くだけ。それがとても幸せな時間になっていた。
「じゃあまたね」
そう言っていつもコンビニで別れる。
「ねぇ茜、朝ご飯まだだったら、ウチ来る?」
この日は稜がめずらしくそう言った。
初めて稜の家に行った時も、そう、同じだったな、と茜はふと思い出しクスっと笑った。
「行こう」とちょっと強引に茜の手を握って稜が歩き出した。そうそう、行こう!とロッキーもぐんぐん歩く。仕方ないな、と茜がポツリとそう言う。本当は思っていないくせに。稜は振り返って、悪戯そうに笑った。
「ただいま!」
ロッキーを連れ隣の丘山夫妻に玄関で声をかける。
「万佐江さんびっくりするよ、茜も一緒で」
稜はクスクスと笑って言う。
「はぁ~いおかえり~ロッキー、稜君もありがとう」
と玄関を開けながら万佐江が顔を出し「あぁ~らま~」と口を開けたまま目をパチクリした。
「万佐江さん、おはようございます」
茜が挨拶すると、稜と並んでいる姿に嬉しくなった万佐江は口に両手を当てながら目を潤ませて「茜ちゃんおかえり」と言った。
「やだ、万佐江さん、私まだ帰って来たわけじゃなくて、今日はちょっと寄り道で」
「良いのよいいのよ、それでも万佐江さん二人が並んでいるのが嬉しくて・・・お父さん!十三さん!ほらほら~」
と急いで奥に呼びに行った。
何だかちょっと大騒ぎになってる様子に稜と茜は戸惑いつつ、二人を心配してくれることに感謝した。
「おう、お揃いは久しぶりだね~」
と十三も満足そうに顔を出す。
「ほら、これ万佐江さんのスムージー、茜ちゃん飲んでいきなさい」
十三はミキサーに入っていたスムージーをわざわざ持ってきてくれたようだ。
「まだ味覚は戻ってないんだけど」
と言いながらも、ありがとうとタンブラーを手に取る。ゴクゴクと茜は二口ほど飲んで
「あっ、苦っ」と顔をしかめた。
「え?」
稜が慌てて茜の顔を覗き込む。
「苦いって?苦い味がしたの?」
「あ、うん、苦い、いつも小松菜の苦さはまろやかになって分からなかったのに、苦い」
奥から万佐江が走って来た。
「十三さん、スムージーまだ蜂蜜入れてなかったんですよ」
え?と十三と稜が顔を見合わす。
「そりゃぁ苦いよ」と皆で笑って
「いやいや、それでも苦いって分かったの凄くない?」稜は冷静にでも興奮気味に言う。
「茜!味覚も戻って来たんじゃない?」
じゃぁ蜂蜜入れて見ましょうと万佐江が蜂蜜をタンブラーに追加してかき混ぜた。
ゴクン、と茜が飲んでフフッと笑った。
「苦くない、でも全部の味は分からない、ごめんなさい。前みたいな美味しい味は分からないけど、でも色んな味がするのは感じた」
ペロッと唇をなめながらニコニコして茜が言いう顔が、稜は可愛く感じ、嬉しく感じて思わず抱きしめた。
「あらあら」
万佐江と十三は微笑みながら、一歩ずつ一歩ずつで、と二人を見守った。
家に戻って稜が味噌汁を作ってくれた。茜のレシピを見ながら自炊もしているらしい。
「まだ味は分からないけど、ありがとう」
茜は稜の作った味噌汁を嬉しそうに飲む。
「俺、茜のレシピで料理の腕上がるかもよ」
「本当?」
「腕が上げるには少し時間も要るからゆっくり味覚治したらいいよ。焦らないで」
「うん、ありがとう」
久々に一緒に朝ご飯を食べて、稜は出勤の準備をして茜は一緒に玄関を出た。
バス停まで一緒に歩き、バスに乗り込む稜に「行ってらっしゃい」と久々に送り出した。バスが見えなくなるまで大きく手を振った。
それから、朝のコンビニの待ち合わせは日課のようになり、その時間が二人の楽しみになった。
「こんな朝からデートするのっておじいちゃんとおばあちゃんみたいだね」
「いいじゃん、リハーサル!」
稜は片手にロッキーのリードを持ち、もう片手は茜と手を繋ぐ。あんなに暴れていたロッキーも二人を見守るかのようにのんびりと歩き、クンクンと夏の匂いを嗅ぐ。
ある時は稜が夜のランニングをして、茜がコンビニで待っていることもあった。
「空さん、またあの二人店の前で待ち合わせですよ」
「あぁ何かまた付き合い始めたばっかり気分なんだよ、大目に見てやってくれる?」
空は男子学生アルバイトの小路にごめんと手を合わせた。
「空さん優しいですよね。友達も家族も大事にするし」
「そう、俺は皆に優しく生きてます!大空のように心広く!」と手を広げる。
小路が思わずその胸に飛び込んだ。
「え?」空は驚きそのまま固まる。
「俺もたまには懐に飛び込ませて下さい」ポツリと小路が言った。
走ってまた汗をかいている稜は「今日も臭う?」と茜に聞く。それはかなりの変態にしか見えないのだけど、稜なりに自分を認識してくれるのが嬉しかったのだ。
「もう!汗臭いで喜ばないで」ケラケラ笑って茜が稜の両頬を両手で挟む。
「ね、汗臭いのは早くお風呂入りなさいね」
「ふふふ、うん」
「子供か」
と店の中にいる空と小路は会話は聞こえずとも、出入り口付近でイチャつくカップルは営業妨害と言っても間違いないだろう。
「あ、そうだ、茜ちょっと家来ない?新商品、ほら荒木とコラボのあれ家に置いてるから持って帰って」
「あ、うん、ブラッドオレンジジュースの?」
「そう!行こう」
稜は茜の手を引き走り出す。
「え?走らなくっても!ねぇ稜くん!」
茜は引きずられないよう一生懸命走ってついて行った。夜十時半を回っていて気温は真夏にしては少し落ち着き、風を感じる。
家に着いて、そのまま玄関を上がると冷蔵庫から稜はブラッドオレンジジュースをグラスに開け茜に渡す。
「走った後に飲むといいんだ。抗酸化作用が・・・ま、それはいいとして、ほら」
「ありがとう」
走ったおかげか喉が渇き茜はゴクっと飲む。
「あれ?甘酸っぱい、美味しい」
「だろ?・・・って美味しい?」
「うん、オレンジの味がする」
「本当?」
続けてゴクゴクと茜がグラスのジュースを飲む様子を横目にしながら稜も一緒に飲み干した。
『うっま!』
二人は声を揃えてそう言いハイタッチをする。
「戻って来たんだよ、味覚も」
「うん、そうかも」
やった~と茜を抱き寄せ稜は力強く抱きしめた。苦しいよ、苦しいよと言う茜を離さず「暫くこのままでいい?」と聞き顔を茜の首元にうずくまる。その首には事故の傷が以前より少し薄くなりながらも残っていた。
「俺だけが知っている茜の印」
そう呟いてその印にキスをした。
笑いながら茜が「だから汗臭いって、お風呂入ってきなさい」と照れながらちょっとお姉さん口調で促す。
茜は稜が風呂に入っている間にそうっと帰ろうとしたが、ふとカレンダーに目がいった。
「あ、明日って・・・」
そして時計に目をやる。あと一時間で日付が変わる。少し迷ったけど、茜はソファーに座り直した。
風呂から出て来て稜は茜がまだいることに喜んだ。
「ねぇ映画でも見る?」
茜のすぐ傍に髪をタオルで乾かしながら腰かける。
「あ、シャンプーいつもと一緒」
茜は稜のシャンプーの香りが鼻をすうっと通って抜けたのが分かった。
「汗臭さだけじゃなくて、この香りもわかったの?」
稜は目を輝かせて余計にタオルで髪をバサバサさせる。
「もう!子供じゃん」そう笑って茜は稜のタオルを取り上げ頭を拭いてあげる。ドライヤーで乾かせてあげるよ、とそのまま稜の髪を乾かし始めた。シャンプーの柔らかい香りがする。ずっと前に嗅いでいた風呂上がりの稜の匂い。一気に日常の記憶が蘇る。人の記憶は見たものだけでなく、その時の香り、その時に食べた味、そういうものでふとその時の記憶のシーンへ導かれる。乾かしながら茜は涙が溢れるのを止められなかった。嗅覚も味覚も全くなかった時苦しくて辛かった。漸く少しずつ足りなかったピースが埋められていく。ずっと靄のかかっていた景色が、少しずつ見えて行く。大好きな稜の匂いがする。
ドライヤーの音で気付かなかった茜の鼻をすする音に稜が漸く気付いたのは、殆ど髪が乾いて「ありがとう」と振り向いた時だった。
「どうした?」
「ううん、稜君のシャンプーの匂いが好きだなって思って」
稜は茜を抱き寄せて「辛かったよね」と一緒に泣いた。
ふと時計を見ると十二時を過ぎている。
「あ、ごめん茜こんな遅くまで、送るよ」
「ううん、大丈夫」
「でも」
「稜くん、誕生日おめでとう」
「え?」
「一番最初におめでとうが言いたかったから今まで居たの」
稜の誕生日八月十三日に日付が変わったのだ。
「あ、忘れてた」アハハハと笑う稜。
「そうだよ、俺明日、あ、もう今日か、今日から三十歳でお盆休みだったわ」と照れ隠ししながら頭を掻く。
「あれ?私も今日からお盆休み、一緒だね」ふふふと茜も笑う。
「じゃぁゆっくり出来るね」
「そうだね」
「・・・朝まで映画一緒に見る?」
稜の問いに茜はコクリと頷いた。
お読みいただきありがとうございました。
この回は、香りに導かれる記憶を描いた好きな回です。
個人的にも海外旅行に行ったりすると、空港の匂いやホテルの匂いって海外を感じたりします。単に香水の匂いなんだろうとは思うけど、その香りと旅行の記憶がリンクしているんでしょう。
そうやって香りも記憶の一つとしてシーンまで思い出せる。そんな大切な嗅覚が戻らなかった茜は辛かったと思います。戻ってきて良かった。
早くスムージーの味も味わえる様になると良いですよね。万佐江さんに喜んでもらいたい。
是非この先もお付き合いよろしくお願いします。




