第十一話 暫く帰らせてください
時間はどんな状況でも平等に流れていきます。
稜にも、茜にも、空にも。
同じ時間の中でそれぞれが生きていきます。
茜は昼間特にすることがないので、お隣の丘山家に行き、縁側で万佐江とお喋りをしていた。いつしかロッキーがそれを楽しみに待ち、二人のお喋りを子守唄のように昼寝をした。
「茜ちゃん体調どう?」
万佐江はいつも気にかけてくれる。料理もレシピ通りに作れば味見しなくても大丈夫だからと教えてくれたのも万佐江だった。茜は嗅覚も味覚も戻らないけど生活に不自由することはない。ただ周りが色々変化していく中、自分が前進できないことをもどかしく不安でもあった。茜が足りないピースを探しているような雰囲気は万佐江も感じていた。
そんなある日、濱田工務店の社長から電話が入る。
「古川さん、どうや?元気にしてますか?」
「お陰様で」
ペラペラと軽快に関西弁で濱田は話し続ける。
「ほんでな、事務の大山田さんが、勤務日を減らさなあかんようになって、古川さん事務では手伝いに来てもらえへんやろか?」
どうやら事務の大山田の実家の母親が入院したらしく、週五日の勤務が難しくなったそうだ。デザインやプランニングで入って貰った派遣社員は契約以外の仕事は頼めず困っていると。
「あぁ事務は少し大山田さんに教えて貰ったのでなんとかできるかと」
「ほな、明日からでも来てもらえるか?」
「明日?あ、はいお願いします」
久しぶりに仕事場に顔を出し、大山田に助かるわ~と頼られ、慣れない事も一生懸命する前向きな気持ちが自分の中でまた芽生えて来たのが茜は嬉しかった。事故後、稜の元へ帰りたい一心でリハビリをして退院して二人の生活が戻ったと思っていたのに、ずっと何か足りていない気持ちが残っていた。
足りないピース、それが見つかりそうで週三日だけの仕事、数字や伝票と睨めっこの慣れない仕事、それでも楽しさを感じていた。やっぱり帳尻は合う。どこかで何か報われる。
そう茜は信じようとした。
時は誰にも平等に過ぎる。七月に入って、稜は広報部の陸上の担当以外に、選手と新商品のコラボ宣伝活動として開発部の依頼も受ける様になった。SNSで発信することで売り上げが上がることもあり、元陸上選手というよりしっかり広報部の戦力になっている。
空も夏休みになるとお客の数も増えたり学生のアルバイト希望など色々忙しくしていた。
「なぁ小路君、そういや就活どうしてる?シフト考えるけど」
古株の男子学生アルバイトの小路光は変わらず空の片腕として助けてくれていた。
「あぁ俺ずっとここのバイトでいいんですけどね」
「まぁそうはいかないだろう、希望職種とかないの?」
「強いて言えば、ここかな」
おいおい、と空は冗談を受け流し笑っていた。
「いや、マジで空さんとずっと仕事してたいっすよ」
ボソッと小路は呟き、外のゴミ箱のゴミを片付けに店を出た。
茜は退院して三か月が過ぎたので、以前の東京の病院へ精密検査に向かった。稜が付き添おうかと言ったが、一人で大丈夫だと断った。帰りに潮田祥子にも会い少し話がしたかったからだ。
精密検査も特に異常は見られず、経過観察を続けることになる。医師からも考え込まないようにと言われたのだが、味付けがなくとも分かる野菜の甘味や苦み、白米を噛めば噛むほど増す甘味、小乃葉の赤ん坊の乳臭さも茜は感じ取れないことが苦しく辛かった。日常は戻って来たのに、どうしても取り残されている感覚。
そして、病院の帰りに『Shiota』の店を訪ねた。
青山にある洒落た店。先代からの歴史と新しい趣をミックスした素敵な店だった。
「あら、古川さん、迷わなかった?」
「はい、素敵なお店ですね」
店内にカーテンや絨毯、壁紙の色見本などが並んでいた。
潮田は奥の事務所へ招き、紅茶を淹れてくれた。
「どう?体調は」
茜を気遣ってくれる。倉田と一緒の時とは違いとても落ち着いたお姉さんのように、優しい口調だった。潮田の鼻もすっかり治り美人に元通りと笑ってくれた。
「検査の結果も異常はないんですけど、味覚嗅覚はまだ」
苦笑いしながら紅茶を一口くちにする。
「これもいい香りなんでしょう?分からなくて残念」
少し寂しい顔を茜はした。
「結婚の話は進んでいるの?」
「あぁ・・・」
茜の言葉に少し首を傾げ、茜が話し出すまで潮田は待った。ふぅ~と少し息を吐いて、茜は続きを話し出す。
「稜くん優しいんです。味が分からないからいつも食レポしながら一緒に食事をするんです。それで私は味を想像して最初は楽しかったんだけど、結局だからって味は共感できないんです。前は一緒に美味しいね、て共感したり、共有してたのに、私は出来てない。一緒に暮らして元のように生活したいって思っていたから、今本当に感謝しなきゃいけないけど、元の生活にはやっぱり戻れてない、私だけ・・・」
うんうんと潮田は茜の背中を擦りながら話をじっと聞いた。
「一緒に居ると、戻れない時間が辛くて。ううん、私はまだあの日から止まっている、皆生活は変化して進むのに、私はまだやっぱり止まっている、それが埋まらない」
俯きながら茜はそんな言葉と涙をぽろっと落とした。
「うん、うん、ごめんね、ごめん」
潮田は背中を擦りながら謝る。
「いえ、事故を責めている訳じゃなくて、ごめんなさい」
茜は涙を拭いて潮田を見つめた。
「勧める訳じゃないけど、私が倉田くんと別れたのは、お互いに埋められないもの、跡継ぎとかそういう無理なものは仕方ないからそれでも友達として失いたくないって思ったからなんだよね。別れろって言ってるわけじゃないよ。一旦距離置いて、元の生活を取り戻すことを手放したらどうかな?彼との元の生活に拘ってるのが辛いなら」
うん、と茜は首を落とした。手を離しちゃだめだって言ってた潮田祥子がそんなことを言ってしまった。恐らく茜はもう自分でその選択肢を見つけていると潮田は気付いていたから。
東京から夕方帰宅した茜。レシピをまとめていたノートをペラペラめくり考えていた。稜の為に稜の為に、稜との元の生活の為に。
その夜、稜が部屋でスマホを弄っていると茜がやって来た。
「ねえ、少しいい?」
ベッドに二人腰かけ茜は稜の手を握った。
「どうした?」稜が顔を覗き込む。
何か言いたそうで言えない雰囲気を感じた稜は茜が話し始めるのを待つ。
「あのね、一回リセットして良い?」
「ん?リセット?」
「分からなくなっちゃった。匂いも味も分からないまま、ここに居て楽しいのか」
「え?毎日楽しく笑って過ごしてたじゃん」
「うん、それは楽しい。でも何かピースが足りなくて、辛い。ずっと稜くんと一緒に居られるだけで良いって思ってたのに、味覚も嗅覚も戻らなっくて一緒に美味しいって共感できないし、一緒に楽しさを分け合えない、稜くんと、稜くんだから…。それが辛くて」
「茜・・・」
「一回リセットしていい?この家に住む前の私に戻りたい。仕事もなくして不貞腐れてたあの頃の私に戻りたい。どん底だった私が稜くんと出会って幸せだって感じられたから、そのどん底に戻りたい。だから、しばらく帰らせてください、実家に」
頑張って三日月の目で微笑んで言った。茜が強く決意したことは稜にも伝わった。
翌日、茜は二人の家を出て行った。
お読みいただきありがとうございました。
自分には当たり前のことを、その人には当たり前ではない、そんなことは普通にあります。
互いに思いやりながら過ごしていたはずなのに、稜と茜にほんの少しすれ違いが起こってしまった。
この二人はお互いを思いやり過ぎ、歩み寄り過ぎ、自分を正直に出来なかったのだと思っています。なので、少し茜に時間をあげたくなりました。
さて、どうなるのか続きも是非お付き合い下さい。
そして、空の男子学生アルバイトがなんか気になりませんか?
【往路】からずっと登場している名も無いアルバイトが徐々に名前が明らかになり、この先は?




