第十話 停滞
ゴールデンウィーク前に退院した茜は、ゆっくり稜と過ごす時間が出来ます。
取り戻した日常をご覧下さい。
朝陽が稜と茜を包み込むように差す。稜が先に重い瞼を開け、目の前の茜の寝顔を見つめる。『あぁ本当に可愛い・・・』と心の声が漏れそうになる。それに気付いたか、そっと瞼を開けた茜と目が合い「おはよう」と声をかける。ふふふふ、と茜が何故か笑い出し「何?」と稜も釣られてふふふと笑う。とにかく二人でいると目覚めから楽しくてしょうがない。
「今日休みだからどうする?どこか出かける?」
「う~ん、ロッキーとお散歩しよう」
茜はそれだけでいいと言った。以前ならどこかへ出かけて出かけた先でご馳走食べたて、美味しいねと言い合えたのが今は出来ないのでちょっと億劫だった。匂いも分からないなら風や陽の眩しさ、目に見える緑を感じたいと思った。
随分落ち着いて散歩が出来る様になったロッキーも、この日は久々の稜と茜揃っての散歩に随分ハイテンションだった。散歩の後は何も特別なことがないダラダラした二人の時間が茜はホッとして好きだった。
「明日と二日間は仕事だから会社行くね」
「うん」
ゴールデンウィークとはいえ、稜の勤務先はカレンダー通りの休みだった。
翌日、以前のように稜はロッキーの散歩をし、万佐江に弁当と茜のスムージーを頂き、
「行ってらっしゃい」と見送られ仕事へ向かった。稜は日常が戻り機嫌がいい。バスに乗ってもついニヤニヤしてしまう。
茜も病室で迎える朝とは違い、穏やかな気持ちで稜を送り出した。ただ以前と同じではない。スムージーはやはり味がしない。窓を開けて入って来る空気の匂いも何もしない。太陽を浴びた洗濯物もお日様の匂いがしない。それがやっぱり胸に引っかかる。
会社のデスクで陸上部の練習風景の動画編集をしている稜に隣のデスクの荒木が声をかける。
「そう言えば、この前商品開発部の青木ってやつから内線でお前に礼が言いたいって入ってたぞ」
「青木?知らんなぁ」
「何かしたのか?」
「え?知らん知らん」と困った顔をしていると、「お!噂をすれば」と荒木が目配せする。
「失礼します!新田さんいらっしゃいますか?」
と大きな声で二十代前半の白衣を着た若い青年がやって来た。
「あ、俺です」
手を上げて稜が立ち上がると
「あぁ!新田さん!俺商品開発部の新規飲料水チームリーダーの青木と言います。突然すみません」
礼儀正しくなんだか熱い、暑苦しい?感じの勢いで稜に迫って来た。
「あの何か?」
「あ、この度新田さんのお陰で、新商品の発売が決定しまして、そのお礼をどうしても言いたくて」
と青木は稜の手を両手で握り固い握手をしてきた。
「で、何を俺がしたんでしょうか?」
「ご存じないですか?」と言いながらスマホを取り出し、陸上部のサイトを見せる。
「これ、ここに映っているこれですよ」
青木が見せた画面には、以前荒木が出場した大分の別府マラソンのゴール後、チームで盛り上がりオレンジジュースで乾杯している動画と、その後オフショットとして荒木と稜が温泉に行った時の写真だった。
「これ何か映ってました?」
荒木も一緒に覗き込み、稜と顔を合わせ不思議そうにしていると
「ほらこれ!」
とそのオレンジジュースを指さす。それはまだ発売前の試作品のブラッドオレンジジュースのボトル。開発中の為、商品開発部が試作として陸上部に差し入れしたものだった。
「このジュースがなんだって問い合わせが多くて。ほらオフショのここにもボトルが丁度見える様に映ってて、スポーツ選手が愛飲するのって体にいいのか?って」
「お前それ狙ってアップしたのか?」
と荒木に聞かれるも、まったく無意識だった稜は首を振る。
「兎に角このお陰で本格販売しようって、ブラッドオレンジのイタリアの農家さんも乗り気になってくれて、無事夏の新商品として発売が決まりました!」
おお!と何故か男三人が抱き合いながら歓喜に沸いている。すげ~すげ~と偶然の産物に盛り上がって友情も深まっていた。
そんな会社での話を帰宅して茜にする。夕飯を一緒に食べながら楽しそうに聞いてくれる。日常が戻った感覚を稜は幸せに噛みしめていた。
翌日も「行ってらっしゃい」と茜に見送られ、会社へ向かう。やっぱりバスの中で自然とニヤニヤしてしまう。『もう結婚してるのと同じじゃないか』と内心思う稜だった。
変わりなく自分のデスクで仕事をこなしている。昼食後、同期の荒木が練習の為パソコンを片付け始める。
「おぅ!今日も練習か?」
稜が荒木に声をかける。
「あぁ、今日は筋トレ」と着替えのバッグを肩にかけて答える。そこへ「失礼します」と人事部の風間がやって来た。
「あら、新田君。今朝もご機嫌そうだったわね」
「え?」目をパチクリさせ稜が驚くと、「昨日も今日もバス一緒だったけど、何だかニヤニヤしてたわよ。彼女帰って来たのね、おめでと」と耳打ちされる。
ヤバッと思い当たる稜は少し顔を赤くする。
「どうした?」
と荒木が首を傾げていると、風間は荒木に書類を渡した。
「荒木君、この前の申し出、部長と陸上部のコーチの了解を得たので、来年はこのようになります。目を通しておいてね」
「あ、はい、お手数おかけしました」と荒木は頭をぺこりと下げた。
「なに?来年どうするって?」
稜が慌てて荒木に駆け寄る。
「うん、俺今季いっぱいで陸上引退しようと思って」
「え?マジか?」思いもかけない言葉に稜は驚いた。
「今年三十だし新人選手も頑張ってるし、良い区切りかなと思ってね」
風間は傍で二人のやり取りを見守っている。
「その後広報でじゃぁ頑張るか」
と稜は荒木の肩をポンと叩くと
「いや、俺は営業部への異動願いを出した」
「なんでまた?」またもや稜は思いもかけない言葉に驚く。
「そうなの、営業部に異動なのよ」
と二人のやり取りを聞いていた風間が割って入る。
「一から、うちの商品を学んで営業として頑張るんだって」
「そうなの?」
荒木は陸上で入社して実質会社の商品の詳しくを知らない。陸上を辞めれば自分はまた新入社員と同じだから一からやり直したいと思った。
「ちゃんと陸上で社には貢献していたのに、謙虚ね」
「いえ、でも今年はまだ陸上で精一杯力発揮しますので!」
と敬礼する真似をし「じゃ、筋トレ行ってきます!」と部署を出て行った。
「おぅ!行ってらっしゃい!」
稜は荒木の覚悟を感じて、広報部で自分の役目を果たそうと思った。
そんな一日の話をまた帰宅して茜に話す。「そうなんだ!」と茜も稜の話に一緒に驚き関心を示してくれる。『もう夫婦じゃん』などと内心浮足立っている稜は
「茜は今日何してたの?」と茜の話も聞く。
「うん、掃除したり、洗濯したり、お料理とか・・・」
「ごめん、全部して貰ってありがとう」
「ううん、時間あるし。ね、明日から連休だから映画とかショッピング行こうっか」
と、冷蔵庫からサラダのドレッシングを出しながら言った。
「うん、そうしよう」
と稜はハンバーグを旨い旨いと言いながら返事をする。ん?ふと気づく。夕飯にハンバーグを作ってくくれていたのだが、自分のハンバーグにだけソースがかかっていた。副菜のポテトサラダがのったレタスのサラダもドレッシングは稜に差し出されただけ、茜は使っていない。やはり味が分からないから使わないのか、と触れない方がいいかもしれないので特に聞かなかったが、稜にはちょっと気がかりだった。
そうしてゴールデンウィークが過ぎ、世間も日常が再始動するような週明け。日中、空が茜の元を訪ねる。
「あかねぇ、元気?」
自分の家のようにつかつか入ってきた空はリビングのソファーでゴロンとする。
「こらぁ、ひとんち上がって直ぐ寝ころぶな」
と空の顔にクッションを落とす。
んも~と起き上がり「どう?仲良くやってる?あかねぇ無理してない?」と声をかける。
「大丈夫よ~」
と冷蔵庫から麦茶のペットボトルを開けグラスに注いだ。
♪ルルルルルル
茜のスマホがなり急いで出ると産休の小乃葉からだ。
「久しぶり!」互いに声が弾む。
「お見舞いに行けなくてごめんね、元気?」
「うん、無事退院しました。ご心配おかけしました」と話しながら頭を下げる茜。
「こちらこそ出産祝いまだ出来てなくてごめんなさい」
「そんなのいいのよ~。それよりもし時間あったらうち来ない?チビがいるから出かけられないし、ね」
そう言われ茜は喜んで小乃葉の家を訪ねることにした。産休の小乃葉の引継ぎをしていた茜だったが事故で入院し、結局今は派遣社員が引き継いだ。そして入院中に小乃葉は出産していた。
「あかねぇ、帰って来るまでここで寝てるわ、行ってらっしゃぁ~い」とソファーに寝ころんだ空は見送る。
定時で帰って来た稜は、茜が出迎えてくれると思い急いで玄関を開ける。
「ただいま!」
リビングに向かうと電気は点いていなく、なにやら鼾が聞こえる。ん?茜、寝てるのか?と電気を点けて見ると「うわ!」ソファーに空がグースカ寝ている。
「おい、空どうした?」
揺り動かし空が、むぅ~んと伸びをしながら起きて「おはよう、稜ちゃん」と微笑む。
「おい、茜は?茜どうした?」
茜の姿が見えないので少し慌てて聞くも、空は「は?」という反応で寝ぼけている。
すると、ガラガラと玄関が開く音がして、茜がリビングに入って来た。
「あれ?お揃いで」
ときょとんとして空と稜を見つめた。
「茜、おかえり、どっか行ってた?」
「うん、小乃葉さんの出産祝いに」
「あ、そう」とホッとした表情の稜に、「そうだ!そう言ってたわ、出かけ際に。寝て忘れてた」と空が舌を出す。
もう!と言いながら買ってきたお惣菜だけどと、稜と空の夕飯を用意する。
「俺手伝う」と稜がキッチンに一緒に立つ。
久しぶりの三人の夕飯だ。稜がまた会社での話をする。そうなんだぁ~と茜と空が聞き入り、空もコンビニの変な客が来たとか面白おかしく話す。アルバイトの小路君がいつも助けてくれるので本当に助かるとべた褒めで、今日も安心してここへ来たらしい。
「空、中休みの割に長居してない?大丈夫なの?」
「おっ、これ食ったら行くわ」
とちょっと慌てる。茜はしっかり者のお姉さんで空は空気を和ましてくれる空気清浄機、懐かしい感覚が稜にも蘇る。
空が帰ってからも、二人で他愛もない話をしてバラエティー番組を見て笑ったり、稜の少し気がかりもすっかり忘れていた。
「明日転院の紹介状もって病院行ってくるね」
「一人で大丈夫?」
茜の顔を心配そうに覗き込む稜。
「大丈夫よ!」と笑って稜の鼻を摘まんで笑った。
その夜も茜は自分の部屋で寝る。そう言えば退院した日に一緒に眠った切り。茜は毎夜『お休み』と二階の自分の部屋へ上がる。これって同棲なのか?元の共同生活に戻ったんじゃ?と稜は少々もどかしかった。
茜は毎月一度、近くの総合病院で経過観察の受診をする。味覚と嗅覚の改善がなければ三か月後東京の病院で精密検査をすることになっている。何もかも元に戻った気でいた稜とは違い、現実的に茜はまだはっきりしない靄の中にいるようだった。
そしてその後も茜に改善は見られず、五月が終わり、六月に入った。
むむ?なんか雲行きが怪しいような。
日常が取り戻されたのは、稜だけなのか?
ほんの些細な違和感は、二人にとって同じように感じているのか。共感というのはとても難しいことだと思います。二人は本当に日常が取り戻されたか、もう少し見守っていきたいと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。
是非この先も。




