第二話 エスプレッソの味
今回は稜の日常を描きます。
茜に手を振りながらふと腕時計を見る稜。
「ヤバッ」
8時前、出勤まで時間がないことに気付く。
「ロッキー急げ!」
そう言ってリードを握り直したと同時に、ロッキーは走り出し、またしても稜が引っ張られる有様だ。
走って5分程で、隣の飼い主宅へ戻った。
「ただいま帰りました~」
「お帰りなさい、今日もありがとう」
そう言って玄関で出迎えてくれたのは隣の七十代の丘山夫婦の奥さん、万佐江だ。ロッキーはじゃれる様に万佐江の足元にすり寄る。ヨシヨシと頭を撫でながら
「稜くん、お弁当持って行って」
そう言い、主人の十三にロッキー帰ってきましたよ~と室内に愛犬と共に入って行った。そして急いで水色の包を手に稜の元に戻って
「はい、お散歩のお礼ね」
とそれを渡す。
「いつもすみません」
稜は嬉しそうに手に受け取る。高齢夫婦にしてはドーベルマンという大型犬の散歩は難しく隣に住む稜が行くようになった。子犬の頃はまだ夫婦で散歩にも行けたのだが、一年であっという間に大型犬サイズになり、高齢者には力で敵うわけがない。無理な買い物だとか散々娘さんに言われ落ち込んでいた様子を知った稜が散歩係を買って出た。お弁当はそのお礼に戴いている。
「会社遅れるぞ」そう言いながら奥から主人の十三がニコッと顔を出す。
「ヤベ、そうだった!」
慌てて「行ってきます!」と稜はお弁当を大事に抱えて自宅に戻った。空はまだ人の家のリビングで寝ている。
急いでジャージを脱ぎ、身支度をしネクタイを絞めながらふと思い出す。
「あれ?何であかねぇコンビニに居たんだ?確か東京で働いてるって空が言ってたよなぁ」
♪ピロリロリン
稜のスマホにLINEの受信音がした。
稜の恋人、森坂琴美からだった。
『今日仕事何時に終わる?』
デートの誘いだと稜は少しニヤケながら急いで返信をする。
『六時には終われる。ご飯行く?』
返信しながら玄関に鍵をすると『うん、仕事後に』と琴美からすぐ返信が来た。
『OK』と打って、慌ててバス停に向かう。
稜は中学から大学まで陸上をしていて、駅伝の選手だった。箱根駅伝でも結構いい成績を収め、食品メーカーの社会人チームで一昨年まで活躍していた。その年の春、アキレス腱断絶の怪我をするまでは。
選手の時は、広報部に所属し午前中事務所内で仕事をし、午後は練習に当てられるという勤務内容だったが、今は一日広報の仕事をしている。とは言え、選手という枠で入社しているので、実際のところ戦力外社員だ。
「おはようございます」
広報部の稜の席は入り口直ぐのデスクの並びでいうと端っこ。奥が部長、その次が課長、と奥から上司が座っているので、稜は部署のそういう扱いである。もう二十九歳なので後輩も多いのだが、陸上に明け暮れていた間に、業務の方では一番下っ端なのだ。
稜は挨拶しながら席に着いて、デスクのパソコンに電源を入れる。
「おはよう」と同期の荒木翔が声をかけた。おう、と反応するや否や、荒木は部長に「秋の大会の日程教えてくれよ」と呼ばれいそいそと行ってしまった。荒木も陸上の社会人チームで共に注目を浴びていたのだが、今は社の全注目を独りで浴びている。今の稜は遠い離れ島にいる気分に時折なる。今日も一日、その離れ島で社内報の編集をひたすらやって時間を潰すようなものだ。
夕方六時、パソコンの電源を落として「お先に失礼します」と仕事を終えた。
毎日が長い。が、今日は琴美との食事の約束があり気分は良好だった。琴美は同じ会社の二年後輩で、経理部に居る。琴美が入社してすぐ、駅伝の試合に応援に来て知り合い、付き合ってから三年になる。いつも事務棟の一階ロビーで待ち合わせをしていた。ただこの夏は一か月に一回食事に出かけただけだ。稜はロビーで待ちながら「ヤバッ会わな過ぎじゃん」と先月会ってから指を折り数えてみる。
「稜くん」
パンツスタイルの琴美がエレベーターから降りてこちらにやって来た。
「おぅ」手を上げて合図する稜の視界には琴美と荒木が並んでいる。
「じゃぁね、バイバイ」と琴美が荒木に手を振って「ご飯行こうっか」と小さなバッグを腕にかけて琴美がこっちに歩み寄る。
「あ、荒木は・・・」
「さっきエレベーターで一緒になって」
「へぇ」
今まで感じたことがないような二人の空気を察して次の言葉が出なかった。当たりたくない予感というものは当たるもの。何ともない引っかかりを感じながら二人で食事に向かった。
が、やはり稜は冴えていた。嫌な予感は的中だった。
ちょっとお洒落なイタリア料理店で、パスタを食した後、デザートのプチケーキの盛り合わせと濃いエスプレッソがテーブルに並んだ時、琴美が言った。
「あのね…ごめん、好きな人出来た」
唐突過ぎて濃いエスプレッソの味が一瞬分からなかった。
「え?何で?」
「…陸上辞めた稜くんと一緒にいて…無理かなって、抜け殻になってる稜くん見てたら…」
「俺抜け殻に見えてた?」
「うん、会社に来る目的失くなってるよね、頑張ってるの分かるけど、見てると辛い」
「そういう風に見えてたんだ」とぼさっとした頭を掻く。
「どうやったら力になれるかなって、荒木さんに相談もしたんだけど」
「え?まさか好きな人って荒木?」
「そんな訳ないよ、稜くんの友達だし、流石にそれは」
「そっか」少しほっとしてエスプレッソに口を付ける。今度はかなり苦みを感じた。あれ?嫌な予感は当たってないじゃん、とフッと気が緩んだ。
「荒木さんの弟さん、好きな人」
「え?おとうと?」
「一回一緒に三人で飲んで、なんか気が合って、ふふ」
ふふって、え?荒木じゃなくても弟ってほぼ荒木じゃん!稜の頭の中は色々混乱していた。
「あぁなんかちゃんと言えてホッとした」
そう言って琴美はプチケーキを頬張った。
「おいし~」
フラれたのだけど稜は琴美のホッとした笑みを見て怒る気も、落ち込む気にもなれなかった。実際陸上を辞めて何をしに会社に行ってるか分からなくなっていたし、抜け殻と言われればそうだったなと納得した。自分の満たされない思いでいっぱいで、琴美が何を考えていたのかも気付いてなかった。俺が遠のけてたんだ。とは言え、フッといてホッとするなよ、一方的に何かいきなり言われて納得していいのか?俺これで合ってる?いいの?という気もする。
「じゃぁね」
互いに手を振ってレストランを後にし、二人は別々の方向へ歩いて行く。今日はじゃあねの後に、また、は無く、振り返りもせず、やたら苦かったエスプレッソを思い出す。
歩きながら稜は茜の居るコンビニをふと思い浮かべた。
「あかねぇ、今居るかな」
何だか一方的にフラれて納得させられて、自分自身はモヤモヤなのか諦めなのか、よく分からない。ん~誰かに聞いて欲しい、俺悪いことした?フラれて当たり前?どういうこと?からの茜を思い浮かべた自分に「何で?」と問う。
「違うよな、やめとこ」
トボトボと帰りのバスに向かった。
お読みいただきありがとうございました。
稜は案外自分のことが分かっていなかったのかもしれません。
大好きな陸上から離れて、ただ日々が過ぎていくのをこなしていたことを琴美は気付いていたのでしょう。
稜はこれからどうしていくか、もう少しお付き合いください。