①黙示録は開かれた-8
実のところ、"悪魔"と会うのはこれが初めてではない。
先生が戦うのは何度か見たことがあったし、行商人の護衛として出てきた奴と、戦ったこともあった。その時は"上級"が使えず苦戦したものの、今戦えば余裕で勝てると思っていた。
しかし、眼前に立つこの男は、その時の悪魔と……いや、今まで俺が戦った相手とさえ、まるで違った。だらりと立つだけで溢れる膨大な魔力。ぬぐったはずの汗が頬を伝う。
「どうしてこんな所に居るんだ!?なぜ、この少女を追っていた!?」
震えを押さえた声で男へと呼び掛ける。と、同時にさりげなく左手を身体の裏へと隠して、手に風を集めていく。男はどうでもいいと言った目でこちらを見ると、頭をかいて、気だるそうに話し始めた。
「教える道理は無いな、うん。早く帰りなよ。……俺も帰りたいしさ」
「焔の狗はお前のだろう!? 帰れと言われて、引き下がれるか!!」
ナイフを構えて語気を強め問い詰める。が、男は眉一つ動かさない。
「"正義漢"気取りかい? 君だって、俺の家族を殺したってのに」
「殺し……っ!? え、い、いや、そんな筈」
“家族を殺した”という言葉に、若干たじろぎながら答えた。男はため息を吐くと、コートの内側から首輪を取り出し、指で"ちょいちょい"と指し示す。
「え、あ? まさか、狗?」
「“まさか”って、ひどいな少年。それこそ実の家族より過ごした相棒なのに」
「えっ。それは、その……。悪かった。あ、いや、ごめんなさい」
「うん、いいよ。じゃあ、その娘回収して帰るから」
「あ、はい…………お気をつけて」
ペコリとお互い会釈をして、その場から離れようと………。
「って、違う! 違う!! 大切なら、悪い事させたら駄目だろ!! いや、そもそも魔法に殺すって表現がそもそも変で……。いやでも…家族……かぞっ……ぅ゛……んん""……っ!!!」
わめき悶えるこちらに対して、男は口の端を歪めて笑った。
「ぷっ……面白っ」
「性格悪いな、お前!!! もういい! 少女は保護してお前は捕まえる!」
「あー、うん。駄目か、駄目だわな。笑っちゃったし」
男は俯きながら、意地悪く笑った。そうして、顔をゆっくりと上げ、静かに言った。
「じゃあ、殺ろうか」
冷たい声だった。直後、背後から何かが覆いかぶさってきた。唸り声に突き刺さる爪。黒く燃え盛る狗が襲い掛かってきた。
(な……っ!?)
少女以外は誰も居ないはずだった。ありえない奇襲に思わず体制を崩した。
容赦なく迫る狗をかろうじてかわし、即座に左手を上げ、溜めた風を弾丸のように打ち出す。頭を撃ち抜かれた狗は、断末魔を上げて消えてしまった。
『黒焔の獄猟狗』
何をされたのか考える間もなく、魔法を唱える男の声と。狗の咆哮が聞こえた。
男の足元には魔法陣が展開され、周りに7、8匹ほど狗が佇んで居る。気だるげな目つきは消え失せ、こちらを見ていた。男が手をかざすと狗達がこちらへと走り出した。
(来る!)
風を操ると少女を風で覆う。そのままそっと持ち上げて後方へと運んだ。
ベルトに付けた革製のケースから、ナイフを十本抜き出して、両手で構える。手から風を伝わせると、ナイフへまとわせ投げた。更には足元へ魔法陣を展開して様子を伺う。
(さっきと同じだ。まずは数を減らす!)
ナイフを風で操り、地を這う蛇のような動きで狗へと向かわせる。しかし、狗達はその刃を事もなく、飛び跳ねてかわし、ナイフは全て地面へ刺さってしまった。
(今までの狗より早い……。ご主人様を護る精鋭ってことか)
とはいえ、避けられるのも想定済みだ。少なくとも飛んで、地面から離れたことで、"狗"達の体勢は崩れて無防備な状態となった。
間髪入れずに足元の魔法陣を起動して、集めていた風を一気に剣の形に作っていく。
『烈風の剣!!』
風の剣が8本周囲に現れる。左手を前へと突き出すと"狗"へと射出された。草原の草を刈り取りながら、一直線に進む。速度は充分、着地する前に撃ち抜ける。まず避けようが無い。
『黒焔の鎖跡』
狗の足元に魔法陣が展開された。そこから黒い焔をまとった鎖が幾つも飛び出ると、迫り来る"剣"を弾き飛ばして、砕けた。
「……!」
「忘れちゃ困るよ、少年」
狗の相手に意識を取られ過ぎていた。想定外の流れに汗が頬を伝う。が、その状況に息つく暇もない。
狗達のけたたましい咆哮が、幾つも重なって聞こえた。こちらの目と鼻の先まで迫り、取り囲むように飛びかかってきた。
身を縮めて足元から喉へと喰らいにかかる。と思えば、両側から挟み撃ちを仕掛ける。しかし、それさえ囮で背後から別の狗が牙をむいた。
絶え間ない連撃に反撃の余裕は無く、傷だけを増やしていく。
(くそっ! 悪魔に近づくどころか、一匹倒すことさえ出来ない!!)
額から汗を流す。一匹だけでも倒そうと、風の剣を大きく振ったところへ肩に喰らいつかれた。歯が食い込んで血が噴き出る。それでも足を踏み出して、そのまま強引に包囲を抜けようとする。
新たに近寄る狗達は、風とナイフで牽制し、身を縮めて一気に前へと進み出せた瞬間、足元が光った。
(……しまっ!?)
地面の魔法陣から黒い焔に覆われた鎖が飛び出て足を縛り上げる。焔が足を焼いて、熱と激痛を感じた。次の瞬間、身体が鎖に強く引かれた。
「はい、おしまい」
"狗"が"草原"が"星空"が、見える景色が目まぐるしく変えられると、嫌な浮遊感と共に一気に身体が投げ飛ばされる。
川に投げた石のように地面を何度も跳ねると、背中から木に激突した。悲鳴にならない呻き声が喉奥から漏れ、痛みに何度も咳き込む。
「これに懲りたら、悪魔と戦っちゃ駄目だよ。うん」
地面にうずくまる俺を尻目に、男は少女の方へと向かおうとする。
「……っ!」
両腕を地面について上半身を起こすと、風をまとわせたナイフを男の方へと投げる。しかし、男の足元から鎖が出てナイフを弾いた。
心底呆れたような顔をすると、男は追い払うような手の動きで、狗達をけしかける。
片手を木に当てて支えとし、足を震わせながら立ち上がった。反対の手で口元の血をぬぐうと、そのままケースからナイフを取り出した。片手に数本を構え、風を纏わせる。
(確かに素早い。互いの隙を補っているから、一匹ずつ倒すのも難しいだろう。本当に厄介だ……)
燃え盛る狗達の動きを見据えた。草ががさがさ揺れる音、それから、唸り声が近づく。
距離にして数m、唸り声が再び重なり、狗の群れが牙を剥いてこちらへと飛びかかる。
「だとしても……狙いは、一つ!俺だけだ!!」
倒れ込むように前へと進む。狗の前には俺が背にしていた木。そして、木の幹には大きな魔法陣が形成されていた。男も狙いに気づいた。が、もう遅い。
『烈風の剣ッ!!!』
迫る狗に対して、魔法陣から飛び出た"剣"が次々と突き刺さる。ひるむ狗へと突っ込み、首輪を魔法陣ごとナイフで切り裂いた。狗は煙となって消え、首輪も地面へと落ちた。
『疾風の蹄』
風を足にまとわせ男へ駆けていく。地面から飛び出る鎖をかわして距離を一気に縮める。
狗が全て消え、首輪の魔法陣も壊した。そして、男と一対一の状況。新たに狗を展開される前に勝負を決めようとする。
「へぇ……。あの状況から、返してくるか」
男がわずかに笑いながら、コートの内側へ手を伸ばし、新しい首輪を取り出した。
「させるかッ!!」
左手をかざすと、男の周囲に刺さっていたナイフが風で操られ地面から抜かれた。そのまま、男の周囲を飛び交うと、ナイフの後ろに結んだワイヤーが男を簀巻き上に縛り上げた。
(最初に投げたヤツ……。少年め、狙ってたな)
次の手とばかりに、男が足元に魔法陣を展開する。が、こちらが左手を握りしめると、ナイフに残った風が小さく集まり爆発した。かすり傷さえ付けられないような威力。音と爆風で一瞬気を引くだけのもの。
しかし、それで時間は稼げた。
それで男へ届いた。
一閃、即座に形成した"剣"で大きく切り払う。大きく響く金属音と共に、男の胸から鮮血が吹き出た。
浅い。
直感的に、そう感じた。切り裂かれたコートの合間から黒く燃える鎖が飛び散って、地面に落ちたかと思えば、煙と共に消えてしまった。予め魔法を仕込んでいたのか、抜け目ない。
「"人間"だと舐めてたけど、存外に喰らいついてくるね。魔法の練度も悪くない」
鎖で"剣"をいなしつつ、男は言った。それなりに血も出ているだろうに、気にする素振りは無かった。
攻め続けてはいて、男の傷も増えてはいる。でも、攻めきれていない。致命傷は止めるか、かわされていた。
「ねぇ少年。無駄だと思うけど、やっぱり退く気は無いかい?」
風の剣を鎖で弾くと男が目を細めて聞いた。いきなりの質問に眉をひそめる。
「何を今更!?」
「ここで死んだら、勿体無いだろ?」
「勿体……? 何を言って……!?」
「大変さ……! ここまで強くなるのは。何か目的がなきゃ出来ない」
「だったらどうした!?」
「その目的のためだけに、戦うべきだと言ってるのさ。見ず知らずの子供のために死んでしまったら、馬鹿じゃないか!」
「……っ!」
その言葉に奥歯を噛みしめ、額から汗が流れ落ちた。
男はこちらの様子を見ると、口の端を曲げて笑い、地面をつま先で踏みつけた。足元に小さな魔法陣がいくつも浮かび上がり、飛び出た鎖がこちらへと向かった。
『疾風の槌!』
俺の周囲に風が集まり、小さな球が幾つも形成され、爆ぜた。鎖が粉々に砕けて地面へと落ちる。粉塵に身を隠しながら、男へ一気に詰め寄る。
「馬鹿で結構。こうするための、努力だよ!!」
低い姿勢から男の太腿に風の剣を突き上げた。鮮血が勢いよく吹き出て、足元の草花を染めた。しかし、男は表情を変えない。
「……仕方ないね、うん」
そう、つぶやいた瞬間、腕へと激痛が走った。
「ッ!?」
自分の肩から狗が飛び出て腕へと食らいついていた。食いちぎらんばかりの勢いに、思わずナイフを落としてしまった。
(な…っ……!?)
今度は魔法陣も壊したはず―――。
そう考えた矢先、首元で赤く光る魔法陣が目に入る。さっき狗に噛まれた場所。あのとき仕込まれたのは明白だった。
("魔法陣"を仕込む"魔法"……こんなものがあるとは思わなかった。そうか、最初に背後から来たのも、少女に仕込んで………っ!!)
そこまで考えた瞬間、地面から鎖が飛び出て身体に巻き付くと、再び放り投げられてしまった。
今度はそこまでは飛ばされなかった。しかし狗はなおも食らいついて離れない。腕が黒い焔にジリジリと焼かれていく。
「いい加減、離れろっ!!」
非常時に備え、コートに刻み込んでおいた魔法陣を起動させた。周囲に強い突風が放たれると、身体にまとわり着いていた犬を弾き飛ばす。飛ばされた犬はそのまま消えた。直ぐに立ち上がり、悪魔の男の方を向く。男の方を向いて、言葉を失った
男が手を掲げる先に、巨大な魔法陣が空中に展開されていく。通常の魔法陣とは異なり、何重にも鎖付きの錠がされ、まるで何かを閉じ込める門のようであった。
『業は灰へ 咎は塵へ 黒き焔狗は灰塵を喰らう 罪人よ其の前に一切の希望を棄てよ』
焔が、黒い焔が、渦巻いた。
魔法陣から、這い出るようにしてそれは出てきた。鋭い牙を幾重にも持ち、人間の十倍はあろうかという体躯は、黒く轟々と燃え盛っている。三つの頭を持つ魔狗。本で読んだことしかない存在が目の前に居た。
『煉獄門の三頭狗!!』
霹靂が落とされたような、魔犬の咆哮。体が奥底まで揺れているのを感じる。男が手を振り下ろすと、魔犬はシロへと向かい、突進していった。
あまりの光景に呆然としていた、が、しかし、何かに弾かれるように我に返ると、すぐさま構えて、魔法陣を展開始めた。
("烈剣"じゃ足りない!! 一番だ!! 今出せる俺の一番を‼‼)
迫り来る狗に気圧され、額から汗が流れ落ちた。全力で魔力を注ぎ、詠唱を行う。
『気高き疾風よ 螺旋を翳し 巖を穿つ 槌とならん!!』
周囲から、風が渦を巻くように圧縮されて、構えた拳へと集まる。大きな空気の流れが、草原の草花や森の木々を揺らしていた。風が一箇所に集中し、嵐を思わせるような大きな音を発した。
(後少し、間に合わあせろ!!早く!早くするんだ……!)
祈りが通じたのか、あるいは火事場の馬鹿力とでもいうべきか、いつもより数秒早く魔力を注ぐことが出来た。目の前に迫る黒焔の魔狗を、鋭く見据えると、左足を一歩踏み出し、風を纏った左拳を突き出した。
「砕けッ!!!『孤高なる疾槌』!!!」
強く圧縮された風が解放され、巨大な突風となって、魔狗へと放たれた。
巨大な魔法同士がぶつかり合う。
猛る魔狗が吠え、風音が絶え間無く続いていく。草花は炎に炙られて灰となり、風で吹き飛ばされた。突き出した拳は大きく震え、炎の熱気で全身が炙られる。腕や額から大粒の汗がこぼれ落ちた。
(クソっ……このままじゃ……っ!)
辛うじて上級魔法を発動できた。とはいえ、劣勢であることには変わりなかった。
そもそも相手の攻撃が当たる直前に、最低限の魔力で出した魔法だ。追加で精一杯魔力を流し込んでも、魔狗を消し飛ばすことは無かった。それどころか魔狗はじりじりと突風を押し込み、こちらへと迫っていた。
額から再び汗が流れ落ちたのは、熱さだけが理由じゃなかった。
(このまま魔法を出し続けてもその内押しつぶされる。……だったら、魔法を一瞬解いて、この場から一旦離れ……。いや、このサイズは逃げ切れない。……何かで気を引いて……駄目だ、一瞬たりとも、魔狗から目を離せるもんか……。どうする……!? 一体どうすれば……!?)
考えようとしたことが、焦りや動揺に掻き乱されて、頭の中をぐるぐると巡る。どこかでずっと感じていた、恐怖が大きくなっていく。
(どうしようもない……! このままじゃ……)
そして、最悪の"答え"が頭をよぎる。
(このままじゃ………死ぬ!)
—――人は死の直前、走馬灯を見るという。
一瞬にして、様々な記憶が、駆け巡った。
『随分と小汚い子供が居たもんだな……約束が無けりゃ、放っておいたのに』
『"英雄"とやらの真似事をやっているだけさ』
『悪くない街だ。しばらくはここに居てもいいな』
先生に拾われた日のこと、
先生と旅をした日々、
先生と今の街で、暮らし始めたこと。
そして――
『……死ぬなよ……シロ』
あの時の、あの光景が、あの言葉が、脳裏をよぎる。
血まみれで俺を抱きしめて、最期に言った、あの言葉。
嗚呼、畜生……!!畜生ッ!!!
思い出してしまった!!!!
どうしてだ……!
どうして先生は……!
俺に"死ぬな"だなんて言ったんだ!
街を無茶苦茶に!
皆を皆殺しに!
先生を……!!
先生を殺した………"獣"は……!!!
俺だっていうのに!!!!