私の胸のなかにあるちいさな星にどうか神さま、
*ネグレクトや毒親と取れる表現があります。苦手な方はご注意ください。
私の胸のなかにあるちいさな星にどうか神さま、
愛をお与えください。
*
「うわああぁぁ」
弟の叫び声が住宅街の道に響き渡る。
私は空を仰ぎ見た。晴天のある夏の日だった。公園で弟ユタとひとしきり遊び、なにもかもが順調だと思った途端、これだ。知らんぷりの青空が恨めしくなった。
(どうして、私だけこんな目に……)
道路に倒れこみ、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしている弟を前にして、なんで私だけこんな目にあうんだろうと思ってしまう私は、姉としては失格だ。夏休みに入ってからは、そんな風に冷ややかに思うことが確実に増えてきて、弟が私の言うことをひとつだって聞きやしないことに、常にイライラとしていた。ふとした瞬間、私は本当にこの弟の本当の姉なのだろうかと、思うことすらあった。
「痛いぃ、痛いよう」
私は道路に伏せている弟の脇腹を両手で掴み、下半身に力を入れ足を踏ん張って、ぐいっと起こした。重い。弟はまだ年中だというのに、背は高い方だという。これだけ大きいのに、まだ小学生ではないところに、私はこの世の矛盾を感じざるを得なかった。
「ユタ、大丈夫?」
ようやく体操座りになってくれたユタのひざには、傷があった。ざりっと擦った砂まみれの擦り傷に多少の出血。ユタは自分の傷を見ると、その惨状におののいたのか、また泣き出してしまった。
いい加減にして欲しい。これくらいの傷、どうってことないのだというのに。
それでもバイ菌が入ってこれ以上悪くなってもいけないから、私は傷を洗い流せるところをキョロキョロと探した。ない。公園の水道はこんな時に限って使用中止。とことんツイてない、自分の不運を呪いたくなる。
「ユタ、家に帰ろ。おねえちゃんが手当てしてあげるから、家まで我慢して」
「痛い、痛いよぉ」
泣き止まない。
今日、私は外で遊びたいと駄々をこねるユタを連れて、近所の公園にきていた。ユタはすぐ転ぶ。泣き始めると手がつけられない。だから公園の遊具で遊ぶ時、落ちないように転ばないように、私はずいぶん気をつかっていたのだというのに。まさか、帰り道のなんもない道路で、蹴つまずいて転ぶとは。
「じゃあ、おんぶしてあげるから」
いつまでも泣き止まないユタにイライラが募る。
私がその場にしゃがみこむと、ユタは少しだけ泣き止んで、のろのろと背中におぶさってきた。意外に重い。重い弟に反して私は軽い。その体重差にふらふらと身体が揺れたが、足腰に力を入れてようやく立ち上がった。首に回るユタの腕に、落とされないようにと力が入る。首をぐっと締められて苦しかった。
苦しい。苦しい。
ユタはすぐに泣く。お腹が痛いとすぐに泣き、もう疲れたようと言って泣き、おねえちゃんが遊んでくれないと怒り、オセロやトランプで私が勝つと悔しがって部屋中を暴れ回り、壊したオモチャを私のせいだとママに言いつける。
「たいしたケガじゃないよ、大丈夫」
ユタは背中でひっくひっくとしゃくりあげながら、私のTシャツをぐっとつかんでいる。
「きれいに洗って、バンドエイド貼ってあげるから」
「水やだ、痛いよう」
「消毒だともっと痛いけど、消毒の方がいい?」
「いやあだあ!」
背中でばたばたと暴れる。ユタの足を抱えた腕が肩から外れそうになって、その痛みで私は顔をしかめた。
「じゃあ水で洗お」
「うん」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、顔を背中に擦りつけている。ああ。数少ない洋服の中で、このTシャツお気に入りだったんだけどな。
さっきまで空が見えていたのに、もう今はその青さを視界に入れる余地さえない。目の前の道路のコンクリートを睨みつける。家はまだ先の先だ。私は全身に力を入れて、足を踏ん張った。
家の門の前で座り込んでいた。煙草に火をつけて口にくわえる。すうっと吸い込むと、それだけでなんだか波立っていた精神が落ち着くような気がした。
おちょぼ口で息を吸い込むたびに、煙草の先が紅く光る。一筋の煙が左右に揺れた。
(洗濯もの取り込むのが遅れたくらいで、あんな怒らんでもいいのに)
キツい。精神的にキツい。私はこれくらいの歳になれば、精神年齢も大人になっていて、気持ちなんかにも余裕が出てくるだろうと思っていたこの成人という歳になってもまだ、母親とうまくいっていなかった。いや、母の方はうまくいっていると思っているかもしれない。私をその手中に入れ、支配できていると思っているのかもしれない。
成人とは。大人とは。幾つになったら、部屋を片付けろと怒鳴られなくて済むようになるのだ? 幾つになったら、あんたはトロいだアホだと言われなくなるのだろう? だからあんたは駄目なんだと上からも横からも押さえつけられ踏みにじられる私は、どうしたらうまく呼吸をすることができるようになるのだろう?
こうして煙草だって、自分が稼いだお金で買って吸えるようになったというのに。
煙草によって少し落ち着いていた精神が、イライラときた。煙草の火をこれでもかというくらい地面に擦りつけて消す。吸い殻を側溝の穴へと放り込み、家へと入ろうとした。けれど、立ち上がれない。腰が重い。気も重い。家に入るときは、そこが地獄への関所でもあるかのように、立ち止まってしまう。通行手形など、本当はこの手でへし折ってしまいたいのに。
この家にいたらいつかは病む。そう思っていても出て行く術も意気地もなかった。そのまま立てずに座り込んでいたら、自分がなんだか捨てられたゴミかなんかのように思えてきて、ポケットからライターを出し、もう一本煙草に火をつけた。
(ゴミの方がマシか。ちゃんと回収してくれるもんな)
誰か私をこの家から救ってくれないかな。王子さまはいつになったら迎えにくるんだろう。なんて妄想の中で期待する。
(もう戻らなきゃ。炊飯器のスイッチを押さないとまた……)
二本目の煙草を側溝の穴に落として、私はようやく立ち上がった。
その時、犬かなにかが吠えるような声がして、私はふと視線をあげた。門から少し道に出て、辺りを眺めてみる。すると、家の前の道の先から、よたよたと歩いてくる女の子が目に入った。なにかを背負っている。男の子だ。その男の子が泣き喚いているようだった。
「うえぇぇ、痛い、痛いよう」
泣き声が閑静な住宅街にサイレンのように響き渡る。外には誰もおらず、声をかける人もいない。
よく見ると、男の子のひざのあたりが真っ赤に染まっている。なにがあったのかは一目瞭然だった。
よたよたと女の子が目の前を横切っていく。
「大丈夫?」
思わず声をかけてしまったが、「大丈夫です!」
私が声をかけたことで女の子は立ち止まったが、背中の弟をよいしょっと抱え直しまた歩き出した。びっしょりと汗をかいていて、顔色は青い。怪我をした弟より、具合が悪そうだ。
私はあまりに気の毒になって、もう一度声をかけた。
「弟? 怪我したの?」
「はい。公園の帰り道で転んじゃって」
ハキハキとした声で返ってくる。その清々しさ正しさとは正反対の様相が異様だった。Tシャツの首もとは伸びきってよれていて、汗じみのようなものがまだらに浮かび上がっている。髪を結ってはいるけれど、背中の弟が暴れたのだろうか、ところどころが盛り上がっていて、ボサボサだ。足も腕も折れそうに細い。反面、弟はぽっちゃりしていて、金持ちのおぼっちゃまのようにふっくらとした頬だった。
「おいで。手当てしてあげるから」
あまりの悲惨さに思わずそう言ってしまった。
「ここ座ってて」
自分が煙草を吸っていた場所を指差した。その場を離れようとして気づいたニコチンの匂い。そこここに煙が漂っているような気がして、子どもの小さな肺には悪いと思い、手でパタパタと煽った。そして、階段を駆け上がり、家の玄関へと入る。リビングを抜けると、南側の大きな窓のもとで布団を敷いて昼寝をしている母親の姿があった。ほっとしながら、救急箱から消毒液とバンドエイドをひっ掴み、玄関を出た。
二人の姉弟は、そこに座っていた。なにかを話しているようだが、声が小さくて聞こえない。きっと、良い人がいてよかったね、ぐらいのことを話しているのだろう。
二人の前へと回り、「きょうだい?」と訊いた。
「はい。そうです」
やっぱり姉の方がハキハキと答える。弟はこの世の終わりみたいな顔をしながら、痛みを我慢するのに必死だ。
私は、消毒液のフタをパキッと開けた。すると、姉が慌てて、
「大丈夫、水だから」と言った。
弟が涙の染みをつけた顔を、歪ませる。口元に余計な力が入って唇は真っ白になっていた。
「ちょっとしみるけど我慢してね」
「ううぅ」
消毒液を傷に垂らす。弟はぎゅっと目をつむって、全身に力を込めた。その様子を見て、姉が弟の肩を抱いた。
「バンドエイドしてもらえば、痛いのも飛んでっちゃうよ」
「……痛い」
「はい、これでいい。もう大丈夫」
「ありがとうございます。助かりました!」
「まだ痛いよ……」
「家は近いの?」
「はい。あそこです」
「痛いぃぃ!」
弟の雄叫びを無視し、姉の方は立ち上がって、来た道の反対側を指差す。その先にはちいさなアパート。そのアパートは八部屋あって、カーテンがかかっているのは二部屋だったと思う。そのうちの一つということなのだろう。
私はポケットからブリックのジュースを出した。弟が泣いたらこれでごまかそうと思い、冷蔵庫から取ってきたやつだ。
「これあげる。飲んでいいよ」
女の子はまた座り直し、それを素直に受け取った。
「あ、ありがとうございます」
弟は嬉しそうだ。目の前のオレンジジュースで傷の痛みをすっかり忘れてしまったようだ。けれど、姉の方は複雑な顔をしている。その顔が少し大人び過ぎているような気がして、私は思わず歳を訊いてしまった。
「幾つなの?」
「弟は年中です」
「お姉ちゃんは?」
「私? 私は四年生です」
驚いた。まだ小学生か。正直、そのハキハキとした雰囲気に、勝手にちょい童顔な中学生ぐらいに思っていた。
「公園からここまでおぶってきたの? おねえちゃん偉いね。頑張ったね」
自然と労いの言葉が出た。ブリックのオレンジジュースのストローをくわえながら彼女は、はいと小さく返事をした。
「家にお母さんいる?」
「いません」
「お父さんは?」
「二人とも仕事です」
そっか。平日だもんね。今は夏休みか。でも二人で留守番にしちゃ、ちょっと小さすぎるんじゃないかな。それに二人で外出しても良いものだろうか? そうは思ったけど、他人の家のことに口出しはできない。
(もう訊かない方がいいかな)
二人がジュースを飲み干すのを見つめていると、後ろの玄関がガチャリと開いた。びくっと身体が硬直する。
「ちょっとなにやってんの?」
母だ。昼寝から目覚めたらしい。寝起きの不機嫌な顔。後ろを振り返って見なくても声でわかる。けれど、振り返らなければ怒られる。話をするときは目を見て話せと、幼い頃から怒鳴られ続けている。
「お母さん。この子、転んで怪我しちゃってて。今、手当てしてあげてたの」
すると、母は不機嫌な顔のまま、
「ジュースなんてあげたら、また物乞いにくるわよ。寄りつかれでもしたらうちが困るんだからね!」
母はいつもこうだ。私が良いことをしたと思うことでも、それがさも悪いことだと言って、全てにケチをつけてくる。否定。とことん否定。今までに母に褒められたことなど、ひとつの記憶もない。他人の悪口ばかりを口にし、私の悪口も人前だろうがなんだろうが平気で言ってのける。
うんざりだった。母を嫌っていた。けれど反論できない自分のことも、吐き気がするほどに嫌いだった。
「大丈夫だよ。この子たち、家にジュースもお菓子もあるって言ってたし」
嘘だ。女の子が怪訝な顔で私を見る。けれどわざわざ、自分の家にはお菓子もジュースもありません、とは言わなかった。
「あっそ」
母は家の中へと戻っていき、私はほっと胸をなでおろした。
「……ごめんね」
帰り際、声をかけると、姉は「いえ」と首を振った。「弟が泣いていても、誰も助けてくれなかったから、嬉しかったです。ありがとうございました!」
弟と手を繋いで帰っていく後ろ姿。
哀れだった。誰にも助けてもらえないという、その事実がこんなにも哀れだとは。
アパートのエントランスに入り、外階段をのぼっていく二人の姿を、私はいつまでも見送っていた。
「これどうしたの?」
仕事から帰ったママが、ユタのひざ小僧を見て言った。真っ赤な口紅を引いた唇がへし曲がっていて、怒っているということがひと目でわかった。
「えっと、あのね、ユタが道で転んじゃってね、」
話を続けようとしたら、ユタが大きな声で勝手に申告してしまった。
「お姉さんがバンドエイド貼ってくれたの。オレンジジュースももらったあ」
それを聞いたママはすくっと立ち上がり、キッチンへと入っていった。
一緒に帰ってきて、キッチンの換気扇の前で煙草を吸っているパパと、ボソボソとなにか話をしている。換気扇の音が大きくてあまり聞こえなかったけど、「余計なことしやがって」「めんどくさいことになった」の二つは耳に入った。
夜ご飯を食べお風呂に入ったあと、パパとママはどこかに出かけていった。そしてすぐに戻ってきたけれど、私だけがキッチンに呼ばれ、頭をはたかれる。
「転んだくらいで人に迷惑をかけるんじゃないよ。近所の目があるからお礼に行ってきたけど、あんたのせいで大事なビール無駄にしたよ」
「ご、ごめんなさい」
「もう寝ろ」
「はい。おやすみなさい」
私は奥の部屋に敷きっぱなしの布団の中に入った。ユタはもう、隣でスースーと寝息をつきながら眠っている。目をぎゅっとつむった。
ビールはいつも買ってある。けれど、ジュースやお菓子なんかは置いていない。今日、手当てをしてくれたお姉さんがどうしてあんなことを言ったのか、よく分からなかったけれど、久しぶりに飲んだジュースは喉がとろけてしまうほど、おいしかった。
「ユタが怪我してくれてラッキーだったかも」
弟を背負って帰るのが地獄だった。ママにはたかれ怒られはしたが、ジュースはしみるように美味しく、嬉しかった。夏休みに入ると学校が休みになり、給食という楽しみがなくなって絶望したが、今日は本当に良い日だった、と思った。
「あの姉弟のうちね、子どもを置いて、親はパチンコに行ってんのよ」
夜ご飯を食べていると母が、私はなんでも知ってんのよ、という雰囲気で話をし始めた。
今夜のメニューは麻婆豆腐だ。料理好きの母はレトルトを使わない。一から作った自慢の麻婆豆腐は、確かにことのほか美味しかった。唯一、料理だけは美味しいものを食べさせてくれて、そこは幸せに思うことだ。けれど、料理が美味しいのは最初だけで、あとは味も香りも段々とわからなくなっていく。それほどに母との会話はクソだった。
「……そうなんだ。なんで知ってるの?」
「だって、郵便局の前にある小さなパチンコ屋あるでしょ? その駐車場にあそこの夫婦の車がいつも停まってるもの。夫婦で仕事に行くフリして、パチンコ三昧だなんて本当に最悪だわ。可哀相に。あの家に産まれた子どもたちはみんな不幸ね」
どの口が言う。私は心だけで笑う。可哀相? だったら、ジュースひとつあげたくらいであんな言い方しなくたっていいのに。母の本音はいつも違う場所にある。
「そうだね」
「虐待ですって通報してやろうかしら」
確かにあの幼い姉弟を、家に残して出かけていくことも(それが仕事という理由があったとしても)、どうなんだと思う。私はあの時に女の子と交わした会話の続きを思い出していた。
「パパやママが一日中いないなんて、お昼ご飯はどうしてるの?」
訊かない方がいいとはわかっていたけれど、ごはんのことだけは気になった。
「菓子パンがひとつ」
思った通りの返答に、ため息が出る。
「菓子パンひとつだなんて、お腹すくでしょ」
呆れたように言うと、
「ひとつしかないから、弟にあげてます」
耳を疑った。思っていたのと違う。
「ひとりひとつじゃなくて? 二人でひとつってこと?」
「はい。でもユタは半分じゃ足りないって泣くから」
「じゃあお姉ちゃん、お昼ごはんないじゃん」
「水を飲んでます」
通報のレベルじゃないかと思った。けれど、夕飯は食べているとのこと。これ以上ないほどギリギリなグレーゾーン。姉の方は程よく痩せていて、弟は少しぽっちゃりだ。
「だけどまさか、あの夫婦がお礼にくるなんて思ってもみなかったわ」
夕方のことだった。
家のインターホンが鳴って、母と玄関へ出てみれば、見知らぬ男女が立っていた。
「息子が怪我したのを手当てしてくださったそうで、ありがとうございました」
黒髪ロングの母親と、短髪で少し不機嫌そうな父親。父親からは、私が吸っているものと同じ煙草の匂いが、母親からはメーカーは違うがれっきとした煙草の匂いが、キツい香水と混ざり合って漂ってきた。
「…………」
言葉が出なかった。あの姉弟の親に対しての反発心のようなものが、少なからずあったからだ。
すると、母親の方が小さな紙袋を掲げて、「これ、少しですけど、お世話になったお礼です」と言った。
私が受け取らずにいると、少し後ろに控えていた母が代わりにそれを受け取った。
「ご丁寧にすみません。どうしても怪我して泣いてる子を見過ごせなくてねえ。可哀想で、勝手に手当てさせていただきましたのに。返って、気を遣わせちゃってすみませんでした」
申し訳なさそうに頭を下げた。
「こちらこそジュースもいただいたみたいで。ありがとうございました」
「怪我は大丈夫ですか?」
ネグレクトな親がどんな反応を示すかと思い、私はゆっくりと訊いた。怪我の様子をちゃんと見てくれたのだろうか? という意も含めて。
「大丈夫ですよぉ、あんなの唾つけときゃ治るんで。これ以上ご迷惑になってもいけませんし、次からはほっといてくれて大丈夫ですから」
遠回しに釘をさし、そして帰っていった。
「なにあれ? こっちは助けてやったってのに、まったくいけすかない態度だよ」
キッチンに戻った母は、貰った紙袋の中身を確認する。ビールが三本。テーブルに出して「ジュースがビールになって戻ってきたわ。ラッキーラッキー」と言った。
怒りが湧いてきた。母の言葉にではない。
ビールは冷えていなかった。あの時間からわざわざ買いに行く物でもないことから、家にストックしてあったものだろうとわかる。だからだ。ビールはあるのに、子どもに食べさせるお昼ごはんやおやつがないなんて。百歩譲っておやつはいい。せめて、ごはんだけはお腹いっぱいに食べさせてあげたいと思うのに。
「大丈夫です。学校が始まれば、給食があるから」
ぽつりと言った言葉に胸が痛んだ。ジュースを飲んで落ち着いたからか、色を取り戻した顔で、にこっと笑う。その笑顔が作った笑顔だとわかった瞬間。すべての言葉を失った。私にも覚えのある、共通の笑みだったからだ。
夕食の麻婆豆腐をスプーンですくった。茶色に染まった豆腐がほろっと崩れて落ちた。
「あんなの、ろくな親じゃないよ」
「わざわざお礼に来てくれたんだから、意外とちゃんとした親かもしれないじゃない」
心にも思っていないことだけれど、これくらいの言い返ししかできない。けれど、そんなちっちゃな反抗は、この麻婆豆腐の豆腐のごとく、ぐちゃりと一瞬で握りつぶされる。
「バカねえ。あんたはほんと人を見る目がない。あんなお礼なんて形だけだって。それになに? あの捨て台詞は。あんたももう余計なことしなくていいからね! あーあなーんだ。これビールじゃない。安いヤツだわ。そうだと思ったぁ」
私はこんな母のようにはなりたくないと思い続けてきた。反面教師という言葉を呪いのように口の中に含む。けれど、いったいいつになったら、母ではない理想の自分になれるのだろう?
「わかった」
出かかった言葉を喉の奥へと押しやり、そう呟いた。
「美味しいね、ユタ」
「うん。お姉ちゃんこれ美味しいね」
私は微笑みながら、もっと食べなよと言ってポッキーを袋ごと差し出した。
夏休みはいつまでだろうか。そんなある平日の午後、私は近くの公園で、二人の姉弟とベンチに座っていた。
「この前はありがとうございました」
頭を下げるのはいつも姉の方だ。
「怪我はもう治った?」
弟が早いもん勝ちとでも言いたげに「治った!」と声をあげた。そして、「ねえ、今日もジュース持ってる?」と訊いてくる。
母が言っていたのはコレかと苦く思いつつ、私はポケットに入れていたチョコレート菓子を取り出した。
「今日はこれ持ってきた。ピクニックしよう。一緒に食べようか」
弟の顔がぱあっと明るくなる。やったあと笑いながら、ベンチから垂らしていた足をブラブラと振った。対照的に姉の方は一瞬で暗い表情になった。表情から察するに、きっとあのジュースも怒られたに違いない。
私は静かに悟った。
「大丈夫。私もお母さんに怒られたくないから、お互いにこのお菓子を食べたこと、内緒にしよう」
共犯だ。
女の子はうんと頷くと、ようやく笑みを見せてくれた。ポッキーをつまんで、ぽりぽりとリスのように食べる。その様子を見て、私も食べ始めた。
「ピクニックのことは秘密ね」
特に弟の方へと言い聞かせる。弟は袋ごとお菓子を掴んで、口の中をいっぱいにしながら頬張っている。弟が惰性でうんうん頷くのを見て、姉がダメ押しで言った。
「ユタ。お姉さんにお菓子もらったこと、パパとママには内緒だよ」
「うん。わかった」
私は二人よりは大人の知恵がある。
「内緒にしていたら、次に遊ぶときはゼリーを持ってきてあげるからね」
姉の方を見た。
目が合う。お互いに良しとあごを打って、意思疎通をし確認する。
秘密の共有はどこかくすぐったい。相手にとって自分が特別な存在になったような気がして、相手は子どもだけれど、私は少しだけ心が高揚するのを感じていた。あの家では弱くて情けない私が、幼い二人を守っている。そんな気にもなっていた。
平日だけだと思っていた幼児二人っきりの生活は、どうやら土日もそうであって、結局は仕事と偽ってパチンコに通っているのだという母の言葉を信じることとなる。
私が勤めている介護施設は年間を通して休みはなく、勤務もシフトで入るから、平日と土日、どちらにも休みがある。最近の休みの日はコンビニへ煙草を買いにいくか、お菓子を持って公園にいくかの二択となりつつあった。公園は禁煙で、煙草を吸うことができない。家の前で思う存分吸ってから公園に向かおうと思い、玄関先に座り込む。と、そこへ二人が通りかかるという感じに、遭遇する率が高くなった。
「公園?」
「うん、お姉ちゃんもいく?」
お菓子で味をしめた弟が、誘うような笑顔を寄越してくる。姉の方を見ると、はにかみながら、やはり作り笑顔をさらしている。
「いくー」
私も作り笑顔と軽い返事でその場を繕った。側溝に煙草を落とす。この展開は予想していたもので、上着のポケットには、コンビニで煙草と一緒に買った、チョコボールが入っている。
「行こう」
手を繋いで歩く二人の後ろ姿。姉の方はまだ十歳だというのに、怪獣期やらイヤイヤ期などと呼ばれる年中さんの弟のお世話をし、面倒を見、遊びに付き合って、自分を犠牲にしてまでも弟に食べさせなくてはいけなくて。
二人の後をついていく。真夏だというのに、冷たい風に吹かれでもしたかのように、心が寒くなった。
「もう宿題は終わったの?」
「あと、朝顔の観察日記だけです」
三人で話しながら公園に向かう。大丈夫、不審者とは思われない。通報なんてさらさらない。なぜならこの住宅街はみな、他人に無関心だ。子どもが盛大に転んでギャン泣きしていても、見て見ぬ振りだったことがいい例だ。私だってその中のひとり。通報なんてできやしない。
母がなぜこの住宅街を好んで家を建てたのか、理解できた気がした。父と母はいつのまにか離婚し、気がついたら父は消えていた。そんな父を羨望する。お金が貯まったら、私も父と同じようにあの家を出ていくのだろう。なるべく穏便に。なにかしらの理由をつけて。
「お姉さんはどうしていつもお菓子をくれるの?」
ある日、姉弟の姉の方に訊かれて、どう答えたらいいか返答に困ったことがあった。少し考えてから、こう答えた。
「私ね、友達が煙草なの」
彼女は顔を横に傾けて、ハテナの顔を浮かべた。
「煙草が心のよりどころでね、煙草に助けてもらってんの」
「そうなの?」
「で、お菓子はきっと、あんたたちの心の拠りどころなのかなあと思っちゃってるってわけ。違う?」
違う。ただ、小さなおなかをいっぱいにしてあげたいだけ。弟くんに菓子パンを食べさせてしまうお姉ちゃんのおなかを。
彼女は少しうろたえたような表情を見せたけれど、すぐに「よくわかんない」と言って、視線を下げた。その視線の先には、黒々とした蟻が行列を作っている。その行列を見つめていた女の子は、「私も早く働きたい」と呟いた。
「うん、わかる」
「へへ」
私は問うた。
「将来なんになりたいの?」
「給食を作る人」
「そうなんだ、いいね」
「給食好きだから。ニンジンを切ったり、玉子焼きを作ったり。美味しいものを作って、みんなを幸せにしたい」
「そう」
「ママもね。お料理上手なの」
意外な言葉だった。けれど私の母だって、料理だけは上手い。
「料理が美味しくできるってのは良いことだね。それを食べる家族が幸せになるから」
ならないよ。反比例する心。隠してしまう本音。
それを察したのかどうか、女の子の表情が曇る。
「私は……幸せにできないかも」
「どうして?」
「だって……」
少し間があってから。
「……ユタや、……ママやパパのこと、あんまり好きじゃないから」
隠してきた本音。
優しくあろうとし、強くあろうとし、そして正しくあろうとして、ずばんと頭を叩かれる。きっとこの子もそう。弟のお世話に一生懸命だとしても、その理不尽さにきっと何度も何度も泣いているんじゃないだろうか。
「……お姉さん?」
いつのまにか涙が出ていた。泣いていた。公園のベンチはひやりとして、尻だけが冷たい。
涙が止まらなかった。
夏休みが終わり学校が始まった。給食を前にして嬉しそうにしている、女の子の顔を思い浮かべてみる。平日に彼ら姉弟に出会うこともなくなり、土日に時々見かけるだけで、お菓子を一緒に食べることもなくなっていった。そうなるともう、給食だけが頼みの綱だ。
お腹をすかせていませんようにと願っているうちに、彼女たち家族はいつのまにか、どこかへと引っ越していってしまった。
別れは突然やってきて、私は打ちのめされた。アパートのカーテンが片付けられていて、窓には『空き部屋』の文字。
胸がざわざわとした。いったいなにがあったのだろうかと。
母がなにか知ってはいないか? 例の家族が引っ越したみたいだけどと尋ねてみる。
「どうせ夜逃げに決まってるわ。パチンコで破産したのよ、絶対」
当たっていた。
親の散財で自己破産し、母方の実家に身を寄せることになったと教えてくれたのは、アパートの前で掃き掃除をしていたアパートの管理人らしき人だった。
ただ。
私の願いはひとつだ。
彼女の祖父や祖母が、常識人の善良な人であって欲しい。おなかいっぱいに食べることができ、ワンチャンおやつにもありつけますように。期待はあまりできないが、姉弟の親が改心し、あの哀れな子どもたちに優しく接してくれますように。
この不公平で不条理な世界で、たくさん言いたいことはあったが、願うことはひとつだけ。
神さま、
私の胸のなかにあるちいさな星に、
どうか愛をお与えください、と。
私はアパートの管理人が去っていくのを確認し、のろのろとカーテンが取られたアパートの前に立った。女の子が必死になって空腹に耐えた、がらんどうな部屋を前にする。込み上げてくるものがあったが、私はもう泣かないし、煙草も吸わない。
私はポケットから煙草の箱を出して、その場でぐちゃっと握り潰した。
before dawn
箸を持った。
すると五目スープの香りが鼻の奥の奥へと入ってくる。
私は食器に口をつけ、ひとくち、ふたくちと、スープを飲んだ。
美味しい。すごく。
久しぶりのちゃんとしたごはんを前にして、嬉しさに箸を持つ手がふるっと震えた。
身体中に染み渡っていくみたい。
あのお姉さんに貰ったオレンジジュースのように。
家族で引っ越しし、新しい学校に入った。けれど、やっぱり給食ってものは、どの学校でも美味しいんだな。
もう一度、五目スープをすする。
給食は幸せだ。
将来、私はみんなを幸せにすることができる給食センターのおばさんになりたいな。
給食が上手に作れるようになったなら、
お姉さんにも食べさせてあげたいな。