第92話 お姉さんと私
「考えずに行動するんじゃない阿呆」
背中から地面に叩き付けられる。
状況を理解するより早く喉元にライフルの銃口を当てられた。
「30。2時間の間にお前は30回死んだ」
リアナとの訓練は夕食が終わってから夜の8時まで続いた。
きっかり2時間。子供の家での課題の時間よりずっと短い中で行われるこの日課は、私がおとうさんとパパと一緒に行動するための条件。子供の家でも格闘の基礎は体力作りの一環として学んでいたし、銃火器や刃物の実戦での扱い方はおとうさんとパパが教えてくれる。それでもなお、リアナは私に力が足りないと言う。
「武器を持っているからなんだ。群れに支えられているからなんだ。それくらいで敵に勝てるんなら人間なんか生物の頂点にいないよ」
実際、毎晩山の中に連れて行かれて格闘とゴム弾での銃撃戦を何夜も何十夜も繰り返して、彼女に一撃も入れられたことがない。
それどころか滝壺に落ちたり目の前に雷が落ちたりと、疲労で反応するのがやっとだったけど反応できなかったら死んでいた場面があまりにも多い。そのことを訴えかけようが奇襲を仕掛けようが、さらりとかわされては投げ飛ばされ、私の死亡カウントを口で続けながらも私がまるでそこにいないようにスクワットだの木の枝で懸垂だのをしている。
へとへとになってもリアナから優しい言葉がかけられたりはしない。帰りの車の助手席で
「あの時の判断は何だ。アタイがあの角度を警戒していないと思ったのなら普段からの観察が足りなさすぎる」
とか
「踏み込むときの目線が致命的だね。一番目線切っちゃいけない場面で無防備になれる時点で舐め腐ってる」
とか
「援護ありきの動き方をするんじゃない。味方が全員落ちても自分が敵を倒せば状況が好転する、そういう理解と覚悟のない奴なんて囮でも願い下げだね」
とか、調子に乗るなとか雰囲気で行動するなとか鍛錬をサボるなとかなんとかギチギチに詰められる。
アジトに着いたら着いたで
「ガキはとっとと風呂入って寝んだよ、9時までに寝なきゃ殺す」
って首根っこを雑に掴まれてシャワー室に押し込まれる。
今日も疲れた。
髪を乾かすと、すぐ隣のパパの部屋に入る。
半分まで溶けた蝋燭、四隅に敷かれた麻布、首から上が動物のマネキン。
パパの部屋はなんだか暗くて、何に使うのかよくわからないものが散らばっているようで、それでいて何か一つでも動かせば間違ったように見えてしまうような、不思議なルールに則って整えられていた。入って息をするだけで頭がくらくらしてくる。
だから私はいつも、パパの部屋と中扉で繋がってるおとうさんの部屋で寝る。危ない物がたくさんあると言われたけど、ちゃんと棚に入ってるものばかりだし、私のものを入れる箱もあるから危ないって思ったことはない。
何より、パパも自分じゃなくておとうさんのベッドで寝てるのだ。
私がベッドに入って目を閉じていると、両隣に人の体温を感じた。2回額にキスされて、それが合図になるように意識が落ちていく。
おとうさんとパパと一緒に仕事をした日はどこか怪我することも多くて、ずっと痛くて眠れないこともあった。私を庇って二人が怪我した時もあって、目が覚めたらいなくなってるんじゃないかって思って眠れないこともあった。
そういう時、おとうさんは私より先に寝ない。怪我してても、朝早くから起きていても眠らないで、私の目をそっと塞いで汗を拭いてくれる。
おとうさんはこれといって何も言わないけど、苦しい時に身体をくっつけているだけで和らぐ気がするのだ。
パパも苦しそうな時おとうさんにくっつくから、おとうさんはそういう人なんだろう。私は間に挟まれてるから潰れそうになることもあるけど。
一方で、どこも誰も怪我してないのに何となく不安で、未来が真っ黒なものに思えて眠れない時もあった。おとうさんの規則的な寝息を右耳で聴きながら天井をただじっと見つめていた。
そんな時には決まってパパも起きていて、手をぎゅっと握ってくれるのだ。蜂蜜入りのミルクをあっためてくれるのもパパ。
おとうさんも眠りながら手で何かを探そうとすることがある。そういう時にその手がパパの髪に触れると、より深い眠りに落ちるようにすっと力が抜けていくのだ。もちろん私は間に挟まれているので、上手いことポジションを見計らないとまた潰れそうになるけど。
だから、私だけが起きていることはほとんどない。
その日は本当に珍しく、誰も怪我してなくて、不安になることもなくて、いつも通りに疲れて普通に眠っていたのに、なんだか目が覚めてしまった。
トイレに行きたくなって、二人を起こさないようにもぞもぞベッドを抜け出す。
足元灯にうっすら照らされた時計を見ると、夜なのか朝なのか、とにかくこんな時間に起きていられるのが信じられないような時刻になっていた。怖くはないけど、何かいつもと違うことが起こりそうで少しだけ皮膚が引き締まるような気分になる。
用を済ませてさあ部屋に帰ろうとしたとき、別の部屋から明かりが漏れ出ていることに気付く。
誰か起きているのかな。この部屋は確か――
そんなことを何の気なしに思いながら部屋の前に立つと、中から微かに歌声が聞こえてきた。
決められたものじゃない音楽なんて滅多に聞かないけど、それこそミラクル・ヘヴンリー・スカイブルーの主題歌で初めてまともに聞いたくらいだけど。でも今聞こえるのが、他の部屋に聞こえないくらい小さく、それでいて聞いたことないくらい力強くて、熟れていて、豊かな声だってわかる。
歌には言葉が乗るはずだ。何が歌われているのか知りたくて耳をそばだてる。
でも、歌詞は聞き取れるのに何のことかわからない。何かを讃えているわけでも紹介しているわけでもない。すごく抽象的だし、受けた傷のことをひたすら並べているようで、重くて暗い。
それなのに、急にふっと走り出すように声から熱が放たれて、風の中で浮かび上がるように声が目の前まで届いてきて、込められた力がそのまま私にぶつかって弾き飛ばされそうになる。
何を歌っているんだろう、この歌は。ううん、歌詞の意味がわからなくてもわかる。
美しいけど、魅力的だけど、聴き入ってしまうけど、そうじゃない。これは歌ってる人が自分を奮い立たせるための歌。決意を自分の外に出して、自分に聞かせるための歌。
だからこれは誰かが聞いていちゃいけない。こんな時間にわざわざ歌うくらいだもの。
そう思って踵を返そうとするけど、突然歌が止んでドアが開く。
「夜更かしですね、ミウ」
「セルス……」
気配を消しきれなかったんだろうか。結構な長さで歌を盗み聞きしてしまったことに気まずくなって目を逸らす。
ごめんなさい、と言葉に出す前に背を向けられる。セルスが部屋の窓際にある椅子を引いてこっちを見る。
促されてるって理解して、おそるおそる足を踏み入れる。
他の人の部屋も見たことはあるけど、セルスの部屋は初めてだ。
パパみたいな変わったものがある部屋ではないし、おとうさんの部屋みたいに物をきっちり収納しているわけでもない。ハルカの部屋みたいに一見片付いてるようで端の方に物が山積みにもなってないし、エフィリスの部屋ほどテイストが隅々まで統一されているわけでもない。
鞄がきっちり整って見えるように仕舞われてたり太さがばらばらのペンが手の届くところに置いてあったり、綺麗な写真つきのカレンダーが飾ってあるかと思えばゴミ箱の中身が丸見えだったり。この部屋での生活の様子がありありと浮かぶようだ。
部屋の奥にはカーテンつきのベッドが置かれていて、誰かが規則正しく寝息を立てているのがわかり、静かにしなくちゃと気を付けていた足音によりいっそう慎重になる。
「気にしなくても起きないと思いますよ」
毛糸で編まれたクッションが敷いてある椅子が二つあって、私とセルスでその一つずつに座る。
「今日はかなり無理させましたから。明日の昼前に『どうして起こしてくれなかったんですか!』って慌てて下りてくると思います」
「……」
その言葉で誰が寝ているのかわかった。
もっとも、そうじゃなくてもセルスの部屋にいそうな人なんか一人しかいない。
私とおとうさんとパパは家族。だってそうパパが言ったから。
だからこの家にいるみんなも家族なのかなと最初は思ったけど、そうじゃないらしい。
セルスとセルシオルは家族。
エフィリスはみんなの「友達」でおとうさんの「先生」。
リアナはセルスの「仲間」でパパの「師匠」らしい。
違いはちょっとよくわからない。
ハルカとアンソニーはみんなの「仲間」で、この二人は家族じゃなくて「親友」。友達とどう違うのかわからないけど、とにかく一緒にいることが多い。
なんにせよ、いろんな顔のいろんな人達がいて、よくわからない関係性がそれぞれにあることがわかった。
それが私にとってはとても不思議で、どういう理屈でそうなっているのか逆立ちしてもわからないけれど、セルスが彼のことを話す時、他のどの話題よりも柔らかい声になっていることだけは確かに感じ取れた。だからたぶん、おとうさんとパパと同じなんだと思う。一緒にいて当たり前で、誰からもそれをおかしいと言われなくて、誰も入り込まない関係。
……じゃあ、なんで私は「おとうさんとパパ」の家族なんだろう。
「ふふ、セルシオルだって寝るときは寝るんですよ」
セルスに言われて初めて自分がベッドの方をまじまじと見つめていることに気付いた。
「ごめんなさい」
「でも珍しいのはわかりますよ。あの子、いつも動きまわっているもの」
そう言いながらセルスが机の上に散らばった紙をかき集めてクリップで纏める。
「帝都に住む種族と区域」
そこに書いてあった言葉がたまたま目に入って、何の気なしに読み上げるとセルスは一瞬動きを止め、そしてまた手を動かす。
「わたし達の大切なものです」
「帝都ってどこ?種族って、動物のこと?」
メガリカ以外に人が住める場所なんかないけど、メガリカにそんな場所があるなんて聞いたことない。動物だって人が住んでる場所ではあまり見ない。
疑問をそのまま口に出すと、セルスは困ったように微笑む。
「うーん、言葉で説明するよりも見てもらった方が……いえ。『やってみて』もらった方が良いかもしれませんね」
セルスがパソコンの電源を入れ、いくつかのフォルダの中の中のそのまた奥の、下の方のフォルダを開く。
「これがわたしがあの子から離れられない、あの子がわたしから逃がしてもらえない理由ですよ」
四角いウィンドウが浮かび上がり、データのロードが始まる。
それと同時に音楽が流れ始める。それはさっきまで聴いていたメロディ、そして歌声。牧歌的でどこか切ない雰囲気がさっきの歌い方と少し違って聞こえるけど、それでも同じ歌なのは間違いない。
ロードが終わると、タイトルロゴが画面いっぱいに現れる。
「Dreaming World」
歌と同じ声が囁きかける。
さあ、ニューゲームを。
手渡されたコントローラーが短く震えて8万色に光り出した。