第87話 ホーム・スウィート・ホーム
「ミルフィアリス、食べないのか」
「おとうさん。これ駄目よ。正しい配合のミールじゃないわ」
「......子供の家ではシリアルの配合まで正解と不正解が決められているのか」
おとうさんがスプーンを置いてため息をつく。駄目だ、食事中にため息なんかついたらそれだけで減点対象だ。朝食時に減点なんかされたらその後ひとつの失敗も許されない。
思わずぎゅっと目を瞑る。
でも、減点を知らせるブザーがいつまで経っても鳴らない。
そっと目を開けると、前にいる人は反省する様子もなくコーヒーを飲んでいる。
「みーるーふぃーあーりーすー!」
おとうさんを眺めてると、おとうさんの横にいたパパがかごの中のりんごやキウイやラズベリーなんかを果物ナイフでささっと剥いて切って、私のシリアルの中にぶち込んできた。
「な……なにするのパパ!こんな行儀の悪いこと……!」
ミルクもこぼれてるし、別々に出されたものを混ぜて食べるなんてそれだけで「やり直しの箱」送りだ。
「こっちの方が可愛いし美味しいって!せっかく女の子がうちにきて初めての朝食なのに、そういうとこおとうさん無頓着なんだから」
「私に振るな」
「ちゃんとお世話できるって思ったから連れて帰って来たんだろ?そういう物言いは良くないと思いまーす」
そう言いながらパパはシロップまでかけてきた。
「駄目、シロップなんて悪い子の食べ物よ、ああヨーグルトまで混ぜるなんて!」
「いいから食え」
もうぐっちゃぐちゃになったボウルの中身をおとうさんが私のスプーンで更にぐっちゃぐちゃに混ぜて、正面から私の口に運んできた。
そんなもの食べてはだめだけど、スプーンからこぼれそうだから、落ちてしまったらもっと悪いことだから。
ええい、どうにでもなれ。
さく。
さく、さく。
おかしいな。
ミルクがたっぷり、やわらかい果物がたっぷり、どろどろのシロップとヨーグルトもたっぷり。
だから、サクサクしてる、なんて思うのはおかしいことなのかもしれない。
きいろ、みどり、あか。すくう度にいろんな色がスプーンの上に現れて、どれも甘くて酸っぱくて、甘くて甘くて、どれも違う。
「急いで食べるな」
おとうさんにそう言われて、もう半分くらい食べてしまったことに気付いた。ふとテーブルの横を見ると、壊れた自転車を改造して作られた時計の針が30°も進んでいた。まずい、とっくに食べ終わってないといけない。それなのに食べるなってどういうこと?捨てなきゃいけないの?
どうしていいのかわからなくなって身体が固まる。
「困っちゃったじゃん。おとうさん、言い方、言い方」
「どう言えば良いというのだ」
「俺じゃなくて、ちゃんと目を見てあげなよ」
おとうさんがまた私のことをじっと見てきた。
「……」
「……」
「……よく噛んで、ゆっくり、食べろ」
「……何分以内に」
「制限はない」
びっくりして思わずパパの方を見る。
「そうそう、せっかく誰にも怒られないんだからさ。ゆっくり味わって食べなきゃもったいないだろ。ナッツもはい、あーん」
パパにさっくり切り分けられたバナナの片方を口元に運ばれて、おとうさんは特に嫌がる様子もなくもぎゅもぎゅ食べてる。
誰にも、怒られない。
私もおそるおそるシリアルを再び口に入れると、染みていたミルクが口の中でじゅわっと広がった。ボウルの中の全部が混ざった味がした。
誰にも怒られない。
ゆっくり噛んで、しゃきしゃきしたりんごを、やわやわのキウイを、ぷちぷちしたラズベリーをちょっとずつ食べる。
誰にも怒られない!
からっぽになったボウルを眺めてると、パパが
「おかわりほしい?」
って聞いてくる。
だめ、だめ。与えられる以上を欲しがっちゃいけない。
だめなのに。
「……ちょっとだけ」
そう、ちょっとだけ。ちょっとだけなら、望んでもいいのかもしれない。そうだ、昨日から私は何かを望んできた。だから大丈夫かもしれない。
もしかしたら子供の家にいた時より、昨日より私は体が大きくなっているかもしれない。背がちょっとだけ伸びたのかもしれない。
もうちょっとだけ食べてもいいのかもしれない。
だめじゃないかもしれない。
――結局。
「止めてほしかったらストップって言いなね」
ってボウルにシリアルをざかざか入れられて。
「おいミナギ加減しろ」
とかおとうさんが言ってたけど、もうちょっと、もうちょっとと思っているうちにまたボウルはいっぱいになって。
途中でお腹いっぱいになってきて、おとうさんに
「もうやめろ顔色が悪い」
って言われたけど頑張って食べて、お腹を壊した。
そんなわけで私は今ソファに寝転んで、おとうさんが奥から持ってきた毛布にくるまってる。
「子供にあんな量を食べさせるなんて正気か」
「ほんとごめんミルフィアリス」
「ごめんなさい……」
パパがおとうさんに怒られてる。
それなのに。
「ミルフィアリスがなんで謝るんだよ」
「だって……食べちゃいけないもの食べて、動けなくなったから、私は悪い子なんだ」
「違う違う」
パパがしゃがんで私のお腹を撫でる。
「あんなに美味しそうな顔して食べてたから、欲しいって言ってくれたから、嬉しくなって。体のこと考えずにあげちゃった俺が悪いの」
「……」
美味しそうに、食べてた。私が。
初めて食べる味だった。子供の家で出てくる、毎日量の決まったミール。均等に盛り付けられた、正しく味付けられたぬるい食べ物が並ぶプレート。それと全然違う。全然違ったんだ。
美味しいって、ああいう味なんだ。
どうしよう。私もう、美味しいものしか食べられない。食べたいって思わない。本当の本当に悪い子だ。
「そうだ、今度ミルフィアリス用の食器用意したげる。山盛り食べてもお腹痛くならない大きさのやつ。好きな色選んでいいよ」
一言も返事できなかった。
戻りたくないはずなのに、戻らないことを選んだはずなのに。もう戻れないんだと思うと、自分の身体の下に真っ暗な深い穴がぽっかり空いて私を待っているような気がしてくる。それを想像するだけで足の先が冷たくなったように感じる。
それなのにぽんぽんと一定のリズムで撫でられていると、なんだか暖かい気がして、涙がにじんでくる。泣くなんて、自分が思ってるより痛いのかもしれない。
首の下からかけられていた毛布をぎゅっと握り締めて額の上まで引き上げる。なぜだか、涙をパパに見られちゃいけない気がしたから。
いつの間にか眠ってしまったようで、天井近くからの窓から差し込む光の角度は大きく変わっていた。
目の前にパパはいない。辺りを見回すと、入口のブルーグレーの扉の反対側で、パソコンの前で例の回る椅子に座ってた。
その後ろからおとうさんがデスクに手をついてモニターを覗き込んでいた。
なんとなしに歩み寄ると、おとうさんがちらりと振り返る。
「体は」
「痛くない」
「そうか」
それだけ言ってモニターに視線を戻す。
「おとうさんずっと1分おきに君の顔覗き込んでたんだぜ」
囁くような声でパパが声をかけてきて、おとうさんに頭をはたかれていた。
「仕事には行かないの?」
そう言うと、おとうさんが再び振り返った。
「『労働者』じゃないの?でも『資本家』や『政治家』なら普通は中州に住んでるわよね?東の島は工場が多いけど、ここは工場じゃないみたいだし」
「……」
「おとうさん、どの『ランク』なの?」
「どれでもない」
「ランクがない人なんかメガリカにはいないわ」
資産、成績、人間関係。そういったものすべてが評価されてランク付けされ、それによって得られるものの量や種類、住める場所が変動する。だから子供は良い子でいなきゃいけないし、大人は勤労、あるいは適切な資産配分をしなければいけないのだ。努力は何よりも貴く、努力しない人間に価値などない。ランクは社会秩序の維持に必要なものなのだ。
人だけじゃない。物も、国もランク付けされる。メガリカは一番努力したから一位なのだ。そうやって世界の調和は保たれている。
なのに、どれでもないってどういうことだろう。
モニターを私も、おとうさんの腕の下の隙間から覗き込む。
「えっ、これ」
出した声は、たぶん二人には聞こえていない。なぜなら。
バキィ!!!
そういう音が倉庫……いや、『家』じゅうに響き渡ったからだ。
状況を掴めないでいると、急におとうさんが私を抱き寄せてそのまま床に倒れた。目を瞑っているうちに、パリーンとかドゴーンとかそういう感じの音も聞こえた気がする。
「……ミナギ」
「あーあ、ここも見つかっちゃったな、イグナーツ」
おとうさんとパパの声が、今までのどれとも違う。刃物みたいに鋭くて外の空気より冷たいものに聞こえた。
「こっちにはお嬢さんいるわけで。降伏する?」
「……」
「言ってみただけだよ。そんな怒んなよ」
抱かれたまま仰向けになっていて、ふと目を開けると、壊れた天井から空が見えた。ああ雲が流れているなと、ただならぬ雰囲気の中でなぜかそう思った。
「伏せていろ」
おとうさんにそう言われて頭を押さえつけられ、再びうつ伏せになったけど、少しだけ見えた。おとうさんが伏せたまま、昨日襲ってきた人から奪い取ってたものより少しだけ大きくて長い銃を倒れた椅子の反対側に向けている。その先を目で追っても瓦礫しかなくて、しかも一瞬だけだったからよくわからない。
でも、銃口の先にいるのが誰かは、知らないけどわかる気がした。
さっきモニターに映っていたものは、政府施設の間取りと警備員の交代時間。
ああ、なんてこと。悪い子なんてレベルじゃない。
ランクがないってどういうことだろう?
その答えが、きっとこれだ。
「ミルフィアリス」
さっきよりずっと明確に、迷いなく、おとうさんが告げる。
「私達は犯罪者だ」