第86話 家族(後)
高架を降りて、いろんな名前のついてる細い道を西に進んでは南にちょっと下って、また東に行って、また南にと、私達は遠回りしながら進んだ。まっすぐ進むと追っ手に見つかりやすいからだろうなとは思うけど、それにしても、いつまで経っても移動し続けなきゃいけないなんて。施設より、施設前の区画よりずっとずっと広い。幹線道路にも乗ってたし、もしかしてもう別の街にいるんじゃないかって思うほど。
コートを着込んでいるからか、人が多い区画に来ても急に襲われることは減ってきたように思う。それに今までの区画より道に落ちてるゴミは少ないし、街路樹なんかも綺麗に整備されている。それに人々も、襟付きの服を着ている「ちゃんとした大人」だ。私の成績じゃ、きっと大人になってもあんな風にはなれないけど。
きっと目立つからだと思うけど、男の人が私を肩から降ろして、腕を掴むように促してきた。特に反論もないのでそうした。男の人の身長は私よりずっと高いから、掴まるのにちょっと背伸びが必要だった。
もっとも、どこから私のことを聞きつけたかわからないけど、スリみたいにすっとすれ違うように現れて私を連れ去ろうとしてくる人はいた。でもすぐ男の人の拳で音もなく沈めてしまうので、騒ぎにすらならない。
それよりも、私は初めて来る区画の名前が気になった。
「マーケット通り……?ただの広い道じゃない」
「以前は市場だった。今は名しか残っていない」
「市場?」
「複数の露店商が各々で仕入れた食品を売る場のことだ。毎週百を超える店が並んでいたそうだ」
「そんなことできるはずないわ。屋外での飲食は厳禁のはずよ」
「以前はそうだったという話だ」
「ふうん」
変なの。そんな衛生上問題だらけの行為を集団でやっていたなんて、昔の人はどうかしている。
食べ物の話をしていると、お腹が空いていることを思い出してしまう。これ以上考えるのはよそう。
歩いていると川岸通りが見えた。ここから少し北に、私達のいるグランド・アップル市の中州部と東の島を行き来するシャトルバス乗り場がある。
中州部は市の中心ってだけじゃなくて、世界の中心。昔はただの港だったらしいけど、次第にいろんな場所からいろんな人が来るようになって、今はここから動かされる経済の波が、大昔に大陸を割った海底火山の活動みたいに世界のあり方を決めるんだそうだ。
一方東の島は、大都市群最大の居住区で、空の玄関口でもある。
つまり、近くにあるけれど役割が違う地区同士を移動するには橋を通る必要があるのだ。
ついさっきまで輸送用車両を乗っ取って道路壁を破壊して乗り捨てたとは思えないくらいごく普通に、彼は自分のパスで私の分の運賃を支払って、二人で奥の席に座った。
定刻になって動き出すバスの窓からきらきら輝く川面が見えた。橋に差し掛かった時に私は窓に貼りつくように乗り出そうとしていたらしく、窓際に座っていた男の人に制止される。
「目立つ行動をするな」
「目立つことなの?バスの窓から外を見るのって」
「狙われていることを忘れたか」
そう言われて、急に身体が固まったように重く感じられた。
「私、捕まったらやっぱり売られて死ぬの?たくさんの人みんなみんな私を狙ってるの?」
顔を覗き込むと、表情を全く変えずに一瞥されてから窓の外に視線を逸らされた。
「グランド・アップルは世界最大規模の都市だ。人口調整下にあってもそれは変わらない」
「……?」
「外を歩いているどの人間にも臓器くらいある。お前のそれだけが特別なものではない。5000ダルなんて労働者なら目を輝かせるほどの額でもない。遅くとも数時間後には、執拗に狙うほど価値のある物ではないと扇動された人間も気付く」
「じゃあ……」
「せいぜい中州部に滞在している間に苦労を強いられるだけだ。つまりただの嫌がらせだ」
さらりと言われると少し腹立たしい。自分が体躯や身体能力に優れた大人だから切り抜けられただけで、私一人なら幹線道路を見ることもなく死んでいたかもしれないのに。
嫌がらせだと冗談みたいに流さないでほしい、そう口を開こうとした瞬間、彼が私に覆い被さる。
状況を把握する前にバスの後ろの窓ガラスが割れ、私達の上を何かが飛んでいくのが見える。その何かが銃弾だということは明らかだ。
「問題は、あいつがただの嫌がらせに全力を出す奴だということだ」
上からそんな声が聞こえる。
幸い乗客に負傷者はいないようだが、あちこちで悲鳴が上がりパニック状態になっている。
不意に車体ががたりと揺れる。タイヤも後ろから撃たれているらしい。幸い走行できなくなるほど致命的な当たり方はしていないみたいだけど。
彼がさっき襲ってきた人から奪い取った銃で撃ち返したらしく、後ろからの銃撃は止んだ。でも次は横の車線を猛スピードで追い上げてきた車から銃弾が飛んで来る。
攻撃されて反撃して走行不能にして、の繰り返しで、橋の半分くらいまでは進んだような気がする。それでも次から次へと追っ手が来て、本当に逃げ切れるのか不安に思ったまま座席の下でうずくまっていた。
「……ちっ」
上から舌打ちする声が聞こえる。ガチャガチャと音がして、反撃を止めてしまう。
きっと弾切れだ。もともと私はいつも顔色が悪いと言われていたけど、それよりもっと青白い顔をしていたと思う。
もうおしまいだ。そう思いながらうっすら目を開けると、割られた窓と反対側のまっさらな窓を彼が叩き割るのが見える。
そしてふっと身体が軽くなる。ああまた抱えられるんだ、この人また走る気なのかな。
そう思いながら、飛び降りる彼の腕の中で浮遊感と共に気付く。気付いてしまう。
橋の上を走るバス。そのまっさらな窓、ということは。
道路の上に降りるんじゃなくて。
「きゃあああああああーーーー!!!!!」
川に飛び込むってことじゃない!
せっかく売られずに済みそうな内臓が飛び出てしまうほど叫んだというのに、水面に叩き付けられる感覚はない。
その代わり、固いものの上に着地して転がる衝撃を味わった。
痛みと冷たい風を感じながら目を開けると、橋が少しだけ上に、そしてなんだか遠くに見えた。
それでやっとそこが島を往復するフェリーの甲板だということに気付いた。
「もう無茶苦茶よ」
「無茶苦茶だな」
そんな風に返事されるとは思っていなかった。同じように身体を起こしながら辺りを見回していた彼と目が合う。
しばらく無言でお互い見つめ合っていたけど、彼が意を決したように話を切り出す。
「親はいるのか」
「みんなの『おかあさん』がいるわ」
「優しいのか」
「優しいっていうのがわからないわ」
「『子供の家』に帰る場所は」
「『子供の家』以外に帰る子供なんか聞いたことない」
「……私は島に家がある」
「あなたは大人だものね」
「来るか」
「え」
「施設以外に住む気はあるか」
その返事をするより前に船着場に到着した。もうここは東の島だ。
でも、橋ので同じことを訊かれたとしても私の答は変わらなかったと思う。
どうしてか、この人の前でなら何かを望んでしまう。
さっきは、死にたくないと。
そして今は、帰りたくないと。
変わった臭いのする工場のある通りを北へ。
使われてなさそうな建物が多い通りを東へ。
小さなドーナツ屋のある角を曲がって、公園の横を抜けて、狭い通りをたくさん歩いて。
やがて大きい倉庫に辿り着いた。倉庫に見えるけど倉庫じゃないのかもしれない。そう思ってドアの鍵を開ける彼について入ったけど、あちこちに古びた自転車や音のならなさそうな楽器なんかが吊るされていて、破けたソファや脚の折れた椅子なんかも雑多に置かれていて、倉庫と言う他なかった。
奥に進み、濃いブルーグレーの壁についた扉を彼が開ける。
そこにあったものは、大きくて高い窓から差し込むぼんやりとした光。
鉢から高くそびえるように伸びた、観葉……かはわからないけれど、何かの植物。
扉の外とは違って、生活に合わせて位置を整えられているように見える家具たち。
そして。
「おかえり。それなりに早かったじゃん」
私の首を絞めて屋上からペンキをぶっかけた銀髪の男の人が部屋の真ん中の椅子をくるりと回して、座ったまま私達に向かって軽く手を挙げてにっこり笑った。
想定外の再会にびくっと身体を震わせ、思わず私を連れて来た彼を盾にするように背中の裏に隠れる。
「やっぱり連れてきちゃったか~」
「白々しい。そう仕向けたのはお前だろうが」
「そう思いたいんだな、お優しいことで。俺は別にどっちでも良かったよ」
「もう一度言う。何のつもりだ」
「べっつにー。君が勝手に選んだだけだろ」
彼が険しい口調で詰問しているにもかかわらず銀髪の人は表情を崩さない。回る椅子を左右にふらふら動かしている。
「手放したって俺は何も文句なかったよ。ていうかそのための試練だったわけだし、脱落したらしたで健闘を称えるだけだったよ」
「それはできない」
「命を救ったくらいで良い気にならないでくれる?命なんだよ」
「先程から何を言っている」
「救っちゃって、しかも連れて来ちゃったんだ。責任を取らなきゃいけない。この子はもう育った場所には帰れない。これからずっとだよ」
椅子から下りた銀髪の人が近付いてきて、彼の目をまっすぐ見ている。
「君はこの子にとって何者でもなかった。けどもう、役目を果たさなければいけない。わかるだろ?」
「……」
「君が誰で、この子に何を与えるつもりか、自分の口で本人に言えよ」
そう言われた彼が私の方を振り向く。
「……」
「……」
再び沈黙が訪れる。数十秒だったけど、1時間くらいに感じられた。
そしてまた彼の方から沈黙が破られる。
「子供の家から出たからと言って、お前が大人になるということではない」
「それはおかしいわ。子供の家に住んでいるのが子供で、それ以外が大人でしょう。私は大人になるの」
「違う。どこに住んでいようとお前は子供だ」
「家を出たら大人だから人間のはずよ」
「……クソガキ」
「なんですって」
「みんなに狙われるだの、家を出たら大人だの、自分をどれだけ大きく見積もっているんだ」
「だってそういうものでしょう?滅茶苦茶なこと言わないで」
「お前は子供だ。子供で、人間だ」
「……そんな人間、いるわけない。子供はちゃんとしてないから人間として生きられるわけない」
「私がいる」
「どういうことよ」
彼がふうっと大きく息を吐いてから屈んで、私と同じ顔の高さになって言葉を続ける。
「私がお前の保護者になると言っている」
「ほごしゃ?」
「大人になるまで、子供を……子供が、生きられるようにする人間……のこと、だ……」
「意味がわからないわ」
「親になるということだ」
「あなたは『おかあさん』じゃないわよ」
「……ならば父と呼べ」
「ちち」
「『おとうさん』と呼べと言っている」
「初めて聞いたわよそんな言葉。でもそう呼べばいいのね?」
「はーい、話まとまったね!完!」
銀髪の人がぱんっと手を叩く。
呆れたように笑いながらおとうさんのお腹を軽く小突いている。
「もー、おとーさんって呼んでもらうのにどれだけ時間かけてんだよ。照れちゃって、プロポーズかっての」
「黙れ」
「おとうさん、おとうさん……」
「ほら早速呼んでくれてるじゃん」
「覚えようとしているようにしか思えないが」
「まあまあ。おとうさんらしく名前呼んであげなよ」
「……名前」
その言葉を聞いて、私もおとうさんも固まった。
「え?嘘!知らないの!?知らずに今までやってきたの!?」
「そうだが」
「そうだがじゃねーよ!めちゃくちゃ他人の距離感じゃん!ほらとっとと名乗る!おにーさんお名前は!お嬢ちゃんも!」
「……」
「……」
「ことあるごとに黙らないでくれる?こらこら睨み合わないの!」
「イグナーツだ」
「ミルフィアリスよ」
「はい完!感動秘話、親子誕生、完!」
「うるさい」
おとうさんはともかく、彼のことは正直わからない。私の命を危険に晒しておとうさんと言い合っていた人間だけど、敵意を感じない。それどころか、おとうさんも警戒していない。横から肩に回された腕を振り払おうともしない。
この人は一体何なんだろう。思ったよりもまじまじと見つめてしまったらしく、ばっちりと目が合う。
「俺のこと気になる?」
微笑みかけられて、躊躇いながらも頷く。
「俺はね、君のお父さんにとっての、こういう人」
そう言っておとうさんの顎を指でつまんで、唇を合わせる。
長い。
顎に添えた指を離して、頬を撫でながら角度を変えている。
すごく長かったけど終わった。
「わかった?」
「よくわからないわ」
「貴様覚えてろ」
おとうさんが片手で顔を覆う。
「つまり、ナッツが君のお父さんってことは」
「ってことは?」
「俺のことはパパって呼んで、ミルフィアリス」
銀髪の男の人がおとうさんから腕を離して、私の頬の横で音を鳴らすだけのキスをする。
「俺はミナギ。よろしく」