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第85話 家族(前)

走っていると、というか私を担いでいる人が走っていると上から何かが落ちてきた。

液体だったから最初は水かと思った。でも違うことは色と、それからツンとした臭いで気付いた。男の人が咄嗟に避けたけど、飛び散った青が私の背中を濡らした。私を一旦下ろして全身をじろじろ見ると、男の人は呟くように言葉を吐き出した。


「何のつもりだ」

「何って、あんまりにも君が衝動的に見えたから」


それに答えた声の方を男の人は見ない。でも私は気になったから、ペンキが降ってきた方――声の聞こえる方を見上げた。

二、三階建ての建物の屋上の、風が吹いたら折れそうな錆びたフェンスの上。そこに腰かけた男の人が空っぽのバケツの持ち手を手首でくるくる回してもてあそんでいた。

その人がさっき私の首を絞めてきた人だということは、雲の灰色に似ている銀髪ですぐにわかった。


「君が担いでるそれ、命なんだけど。責任持てるようにはとても思えないっていうか」

「楽しみにしている等と戯れ言を吐いた次は何だ。黙っていろ」

「冷たいなあ、俺と君の仲だぜ」



彼の笑い声に混じって、たくさんの人の足音が聞こえた。

いろんな角からこっちを見ている人達の息遣いからただならぬ雰囲気を感じる。



「……目立ちすぎたか」

「囲まれたとでも?はは、よく見てみなよ。こんなの追手でも何でもないじゃん。ただの善良な地域住民」

「何をしたんだ」

「3ヶ月食事代の支払いを待ってもらってただけ」

「……」

「たったの5000ダルくらいで何十人も連れて来なくてもいいよなー。まあ持ってないけどさ。そういえば知ってる?」



屋上の男の人が私に微笑みかける。

「支配力が弱い地域ではまだ遺伝子情報からの臓器組成ができる設備がなくて古典的な臓器移植をしてるんだって。特に健康な子供のそれはすっごく有り難がられるらしくて」

「黙れ」

「お値段なんと5000ダル!」


周りの人達がじりじり近付いてくる。


「そんなわけでお集まりの皆さん、お勘定よろしく!」


そう言うと彼は後ろ向きに傾いたかと思うとフェンスから手を離した。

あの落ち方じゃ屋上に頭をぶつけてしまう、そんなことを考える暇もなく私はもう一度抱え上げられた。


周りの人は最初、屋上の人に釘付けで、今にも走って捕まえに行きそうな雰囲気だったのに今は違う。



男の人が、女の人が、大きい人が、貧しそうな人が、色々な人が、たくさんたくさんの人が、私の方を見ている。

怒ってるような、お腹が空いたような、笑ってるような、よくわからない表情で。

じりじり、じりじり寄って来る。

縄を持って、棒を持って、それから。

――あれは、市民の所持が規制されているんじゃなかったっけ。


考え事をしていると不意に、屋上の人がさっき言っていたことが頭をよぎった。


「せいぜい逃げ切ってみせなよ」



視界が大きく傾く。

ひゅうと風を切るように目の前を何かが掠める。

それが銃弾だと気付いたのは、私を抱えたまま男の人がまた走り出したのとほぼ同時で、同じ音があちこちから何回もしたからだ。



命を狙われている。正確には私の臓器を。

そう理解するには十分で、こんなにからっぽで不愉快なだけの体が縮こまるような恐怖を覚えた。




「死にたくない」



思うより先に口に出していた。



「死にたくないよぉ......」



二度目も零れるように口をついて出てきた。

三度目のそれを口にするより先に、視界が大きく揺らいだ。



私を担いだ男の人が急に曲がって、どこかに突っ込むような音と衝撃を感じる。その場所が狭いお店の陳列棚だと気付いたのは、ごちゃごちゃ積まれたサプリの瓶と、弱い照明を反射していやにぬらぬら光る床が視界に入ったからだ。

頭を床に押し付けられた直後にすぐ上から銃弾の音がする。そのままお店の反対側の窓のところまで這って行って、男の人がガラスを椅子で割る。


いろんな高さの狭い通路が入り組んでいる。建物の裏側のごちゃごちゃした通路を脇に抱えられながら進むと、前から棒を持った人が走って来る。男の人の頭上めがけて振り下ろされたそれは、後ろから追っかけてきた別の人の頭に命中した。



足場もないのに私を抱えたまま横に跳んだ男の人が、その下に広がる通りにたくさん干された洗濯物のロープにつかまって、みしみしとゆっくり着地するとともに、体重を支え切れずに切れたロープにかかっていた服やシーツが反対側からナイフを持って走ってきた人達の上に降り注ぐ。


そのまま走ると大きい通りが見渡せる場所に出た。ナンバリングされた自動運転輸送車が東西南北に伸びる、そして地階から上に何重にも天に向かって積み重なるように展開された車線を淀みなく行き交っていた。

男の人は、今いる場所から一番高さが近い120番線を走る大型輸送車の上に飛び乗った。

上から銃を向けてくる人が見えたけど、公的な自動運転輸送車に、しかも規制された武器で傷をつけると大人でも「指導」対象になる。そのことをわかっているのか、向こうもそれ以上何かしてくる気配はなかった。


車両の上では風が激しくて、前髪を分けても分けても視界が開けることはない。

「ねえ」

びゅうびゅううるさい風にかき消されていたのか。

「どこに行くの」

その言葉に返事はなかった。


ビー、ビー、ビー。

急に耳をつんざく音と赤いランプの光が辺り一帯に満ちる。

知ってる。幹線道路内に異物が侵入したから警備システムが作動してるんだ。

左右の車線を走る警備用車両の上部が変形して、大きい筒みたいなものが出てくる。それらが一斉に私達の方を向いたと同時に、男の人がまた走り出した。

張り巡らされた赤いレーザーの隙間をかいくぐって、掠った衣服が焼け焦げる臭いを感じながら、車両の上を飛び移っていく。それでも進むうちにじわじわレーザーに追い詰められて、もう飛び移れる車両がない。


いやだ、死にたくない。

ぎゅっと目を瞑ると同時に、身体が大きく揺れて姿勢が変わる。

目を開けると、男の人の両腕に抱きかかえられていた。

えっ、とかきゃあ、とかそういう声を出す暇もなく、彼が横に走る車両の窓ガラスに跳び蹴りを入れてそのまま内部に侵入する。


もうめちゃくちゃだ。公的車両に捕捉されたばかりか破壊するなんて、指導じゃ済まない。そんなことをぼんやり考えていると、彼が車両の前の方にある輪を握って回し始めた。

「それ何」

「旧式車の名残だ」

初めて彼が返事をしてくれたように思う。

「もしかしてハンドル?人が操縦していた頃の」

「舌を噛む」

そう言われて、横にある黒いベルトで身体を固定するように促される。

私がその指示に従ったのを確認してから、彼はハンドルを思いっきり右に回した。


道路の壁を突き破って、車両が宙に放り出される。

心臓が飛び出そうになって、口をぽっかり開けていられたのもつかの間。着地の衝撃で顎がガタガタいう。わけもわからないまま目の前で破壊されていくベンチだのサンデッキだのの有様に呆然としていたら、ベルトを外されて降りるように促される。



降りたらそこは地上ではなく、道路に隣接していた昔の高架鉄道跡の公園だった。ぼろぼろになった車両を放置して、彼が私の腕を引っ張ってその場から離れようとすると後ろから足音がした。

何の気なしに振り向くのと同時に、彼が私を突き飛ばした。

銃弾が彼の左腕を掠める。


「ひっ!」


私が声にならない悲鳴を上げている時にはもう彼は銃を撃った人の眼前まで走り抜け、見えないくらい速い手さばきで銃を奪い取り、グリップで相手の顎を強打して沈めていた。


「……」

倒れた人のポケットに入っていた紙を彼が乱暴に抜き取る。

それを後ろから覗き見る。


「青いペンキまみれの子供を捕獲してくださった方には5000ダル!」

と書いてあった。

意味がわからない。

私は悪い子だけど、賞金を懸けられて狙われるようなことをした覚えはない。だけど、その紙をびりびりに破って眉間に皺を寄せた彼を見て、彼の言葉を聞いて悟った。

「あいつはどこまでふざけているんだ」


ああ、あの首を絞めてきた男の人がふざけて私を殺そうとしているんだ。あの人の遊びのために、私はたくさんの人に命を狙われているんだ。




「……死にたく、ない」


さっきもそう言った気がする。

でもそれは、未知の恐怖に対して漠然と思ったことじゃない。


罰を与えられる部屋に戻りたいという気持ちが戻って来たわけでもない。

寒い路地に戻ってお腹を空かせたまま全部終わらせたいって気持ちでもない。


――逃げ切ってみせなよ。


逃げ切れなかったら、その時は。



「死にたくない!」


もう一度それを口に出すと、なぜだかぽろぽろ涙が出てきた。こんなこと初めてだ。誰に責められてるわけでもないのに。涙なんかもう出やしなくなったはずのに。

止まらない涙に困惑していると、頭の上にずしりと重みを感じる。

感触ですぐに分厚いコートだと気付く。ふと見上げると、そばにいる彼が寒空の下でシャツと薄いジャケットだけの姿になっていた。



「着ていろ」


雪みたいに白くて、引きずるほど長くて、苦しいほどに重いそれを着ると、確かに背中のペンキは誰からも見えなくなったと思う。



でも、どうしてあなたは。

聞きたいことを口にするより先に、どこかから人の気配がする。

彼はまた私を肩に担いで走り出した。ふと横に目線を向けると短めの茶髪が視界に入る。

車両からやっと降りられたのに、またとんでもない速さで走るこの人に連れてかれなきゃいけないのか。

混乱しながら、うんざりしながら、疑問をたくさん浮かべながら、それでも。



その金色の瞳が次の行き先をどこに定めているのか、少しだけわくわくした。

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