第84話 お腹が空いていた
「人の意識は一つだけ、それが政府の見解だ。理性的な意識があれば他の要素はそれに向かって収束していく、という話らしい。であれば狂気や度を超した情動など健全な人間には起こるはずない、と。そういったものは病巣だと切り捨てられるに至った。なあ、俺は社会の方が病んでると思うよ。理性は理性、狂気は狂気で正と誤みたいに分けられるのがさ。人間なんて、考えが状況によってころころ変わるのが普通で表出しているものなんか一側面でしかないだろ。それを無理矢理引き剥がして、善と悪みたいな二元論で語ることこそ秩序から生まれた病理だと思わないか?」
知らない男の人が話している。
男の人なんか全員知らないけど。
何を言っているのかわかんないし興味もない。私はただ穿いているズボンが地面の冷たさをこれっぽっちも防いでくれないことを残念に思っていた。
もっとも、立ち上がれば足の裏だけがそれを感じる器官になることは考えなくてもわかっていた。私がそれをしなかったのは単純に、立ち上がるだけの力がなかったからだ。膝を抱えて座っているのが、一番楽だったからだ。
浮き出たあばら骨の奥を冷たい空気が巡って、体中どんどん冷えてくばかりだ。
それに太ももの辺りが痛い。脇腹も、背中も痛い。あまりにも寒いから体がそろそろ忘れてくれるかなと思ったけど、期待を裏切って、体勢を少し変えるだけでじんじん痛む。
これは罰だ。私が落ちこぼれの悪い子だったから、何度言われてもみんなと同じようになれなかったから、その罰なんだ。輪になって手を繋いで皆と同じ動きをすることも、「きょうしつ」の床を毎日拭くのも、みんなと同じように集中できない。
もっとも、外に出されても何時間か経って体が冷え切ったくらいで、入口で一生懸命謝ったら許してもらえるけど。
そしたら冷水がいっぱいに張られたバスタブに頭から沈められて、床に落とされた生ごみを舐めるっていう「反省」をする。それでやっと「良い子」に戻れるから、明日からはきちんとしますって誓えたけど。それを何回も何回もしてきたけど。
その時の私はなぜかひどく疲れていて、入口に向かおうという気持ちが、あったかい室内に戻ろうという気持ちが、許してもらおうという気持ちが、胸の奥から、ううん。
体のどこを探しても見つからなかったから、ずっとこのゴミだらけの道に座って、取り締まり対象の落書きだらけの壁にもたれてる。
「例えば俺が今ここでそこの哀れな浮浪児を手にかけたとしよう。こんな細い頸、片手でもできるさ。押し込んだ指に力を込めるだけで、いとも容易く彼女は絶命する。それを君は悪だと思うか?そんな顔をしているから答えなくても解るとも。だけど俺がこう言ったら、君は俺を間違いなく悪だと断じることができるか?一つ、『人を幸福にするための社会』はいつしか『人を管理するための社会』にすり替わっている。二つ、秩序を維持するためには早期――幼少期からの集団教育が必要とされている。三つ、個の特性により教育から零れ落ちた子供は苛烈な矯正をされる。四つ、反社会思想者との接触――それが立ち聞きであっても――が疑われる人間は誰であっても取り調べという拷問を受けた後、どうなるかは明らかになっていない」
男の人はさっきからずっと喋ってる。難しそうな言葉をよくそんなに喋れるなあと思う。私達は言われたことを言われたように喋らないと「やり直し」の箱に送られて、最初から覚え直さなきゃいけなくなる。この人も子供の頃はそうだったんだろうか。
この人も、長く難しいことを喋るのが大人だから、そういう風に喋ってるんだろうか。
私もそういう風に喋るようになるんだろうか。
でもきっとそれを確かめることはできないだろうな。
なぜなら、何メートルか離れたところで立って話をしていた男の人の顔が目の前に来たから。
「こんにちはお嬢さん」
そのまま男の人の右手が私の首を掴んで、壁にめり込むように押し付けられる。
苦しくて逃げようと手足をばたつかせるけれどもびくともしない。
「ああ、そうか。そうなんだ、君は罰を受けているんだな」
そう言われているような気がしたけど、何も頭に入ってこない。だって苦しいから。
「やめろ」
別の男の人の声が聞こえて、ふっと息ができるようになる。
冷たくて変な臭いのする空気で急に胸が満たされて、痛いほどに咳き込んでしまう。
「俺の話聞いてた?」
「……」
「そんな睨むなって。楽にさせたげようと思ったのにさ、これは優しさだよ優しさ。それでも君は俺のすることが悪だと思って邪魔して、彼女が暖房の効いた室内に『回収』されることを期待するんだな?」
「違う」
「何が違うのさ。君だって知ってるだろ、こういう子供がどういう末路を辿るのか。知らなかったとしてもさっき俺は言ったよ。もっとも知らないなんて言わせるつもりはないけどね、君にだけは。さあ君が救った/見捨てた子供がどうなるのか、せめて見届けなよ」
「……い」
「ん?」
「どちらでもない!」
咳き込んで蹲っていたのに、急にふっと身体が浮く感覚に鳥肌が立つ。
私が担ぎ上げられていることに気付いたのは、見たこともないくらいの高さからそれまで座っていた地面が見下ろせたからだった。知らない人の背中と踵と、あとは地面しか見えない。
さっき私の首を絞めた人と話していた別の男の人が私を肩に担いでいるのだ。ここで抵抗したら地面に顔から落ちる。そう思うと体が固まって、顔にかかる髪の毛を払うこともできなかった。
「……ふーん、それがどういうことかわかってるの?」
「……」
「じゃあせいぜい逃げ切ってみせなよ」
首を絞めてきた人の言葉に答えずに、私を担いでいる人は走り出した。とっても速い。こんな速さで走ったことない。
びゅうびゅう風の音がする。顔じゅうに冷たい空気が当たって目を開けていられない。
「君の選択によってどれだけの平和が失われるのか、どれだけの理想が破壊されるのか楽しみだな」
遠くからそう聞こえた気がした。
私がどこに連れて行かれるのかは知らない。
この人が何を考えているのかも知らない。
知りたいとも思わなかった。
帰りたいとも思わなかった。
目を開ける気にも、何かを尋ねる気にもならなかった。
ただ、お腹が空いていた。