第79話 春風になれない言葉たち
110年前
2代目フロアについての記録
その街には、ハーフラビットは一人もいなかった。正確に言えば、この地区の拠点としていたはずの建物はとうに焼き払われるか倒壊しているかしていて、更には生き残りが住み続けられるような環境でもなかったようだ。
そう、40年前。エフィリスが永遠に失われた現場はほぼ更地になり、一から新たな街が造られたそうだ。
建造物が密集している箇所もあるが、十分な広さがあり圧迫感を感じさせない。整理された区画の中に水路が張り巡らされ、人の動きも活発な印象を受ける。
データベースにもうハーフラビットはアクセスできないが、初代の遺した文章や、他のハーフラビット、更には現地の「人」の記憶を聞き取ることはできる。
そこから推測できることは以下の通りだ。
その戦闘に居合わせた「新たなる神」は死亡。
「最初の八人」のうち一人は死亡。一人は発狂し力を暴走させ封印される。その神を封印した神もまたその時の負傷後足取りがつかめず、死亡説が有力である。
つまりは、エフィリスを含め「最初の八人」の半数の戦力があの時に削られたとみていい。
そんな大規模な戦闘は、神以外の存在にとっては災厄そのものだっただろう。根掘り葉掘り訊いたことで、当時を知る「人」にはさぞかし強烈な恐怖を呼び起こさせただろう。話を聞いた現地人にそう謝罪すると、不思議そうな表情で言われた。
「何を恐れることがあるのです?ここは永遠の理想郷です。流れに逆らわなければ生命は穏やかに循環しますよ」
そういった価値観は特段変わったものではない。ハーフラビットに課せられていた役割とよく似ているし、そうでなくても死後の恐怖を取り除くための言説は各地で記録されている。宗教や国家の形を取っているものも少なくない。
つまりはそういう文化か。そう流すのが普通だ。それも、
「マレグリット様が苦痛のない姿に変えてくださるんですから」
マレグリットさえこの街にいなければ、だけど。
彼女との面会はいとも簡単に実現した。
一番大きい建物に出向いて「フロア」と名乗るだけで仰々しい扉は開かれ、天に突き刺さるような高さの建物の最上層に案内された。
部屋もまた仰々しく、天井も床も柱も大理石でできていた。彼女の座る椅子は入口正面の床が一段高くなった箇所に位置し、更にその奥にもスペースがあるようで、赤いカーテンで仕切られていた。
「久しぶり……に見えるのかな。初めまして、マレグリット。僕はフロア」
「ようこそおいでくださいました。いつかお会いできると思っていましたよ、『兎の民』」
「随分と他人行儀だね。まあ他人だけどさ。これでも同志だったんだから、もっと楽に喋ってくれていいよ」
「……そう、ですか。あなたにとっての『楽な話し方』はそれなんですね。名前だけでなく、それも受け継いだのですか?」
「ああそうか、君はもともとそういう話し方だったもんね。記録にあったのにすっかり忘れてたや、これは失敬」
「全くですよ。エフィリスの真似事をしたって、エフィリスになれるはずがないでしょう?あなたに言っても仕方ありませんけどね。『フローライト』はいささか感傷的すぎたようですね」
「それ君が言う?そんな姿になって?」
マレグリットの姿は記録とは随分違っていた。
ジェネシス発動後も我々は遺伝的に、一般の「人」より身長が低く生まれる。その他の身体的特徴にも大きく変化はない。
しかし彼女は「人」の成人女性と遜色ないほどのサイズでそこに存在している。
そして何より。
「耳はどうしたの」
長く伸びていた黒と白のそれが頭部のどこにもなかった。
「機能が消失したものを持っていても仕方ないでしょう」
「うーん、要らないからってさ」
自らのそれを軽く摘まんで引っ張りながら問い掛ける。
「痛覚があるわけで。簡単に切り離せるものでもなくない?」
「簡単ではありませんでしたね」
「うーん、頑張って練習したのかな、その笑顔。不自然だよ。エフィリスの真似事をしたってエフィリスになれるはずない、そうだろう?」
「うふふ」
「あはは」
喜怒哀楽を得たとはいえ、楽しくもないのに笑えることになったのは弊害だろう。我々にとっても。
そして彼女にとっても。
「ねえマレグリット、もういいんじゃない?」
「何がです?」
「生命の起源だよ。ずっと『持ってる』んだろう」
「ええ、持っていますね」
「街の人に聞いたよ。40年ほど前にどこからか聖女様が現れて、焼け野原になった街で死に瀕した人々を『救って』みせたって。何人も、何百人も救済していった聖女様は讃えられるようになり、やがて彼女を擁する教会を中心にこの街が発展していったって。綺麗な街だね。よくできた作り物だ」
「もうそんなに経ったのですね。苦しむ人々に手を差し伸べるのに必死で、一日一日を記録しているような余裕などなかったものですから、まるで昨日のことのように感じられます」
「40年も一人にして済まなかったと思っているよ。辛い役を任せてしまったね」
そう言って差し伸べた手を彼女は不思議そうに見ていた。
「……マレグリット?」
「どういうことですか?」
「だから、もうこんなことしなくていいって言ってるんだけど」
「なぜです?」
「帰ろう。エフィリスの家に」
「どうして?」
「先代が会社を作ったことは知ってるだろう?あそこには僕等の仲間がみんないるよ。お互い協力して、エフィリスの愛した世界を残すために頑張ってるんだ」
「愛した世界?」
「そう。美しいものを見たときの喜びも、古い書物の言葉をなぞる楽しみも、音楽の新たな解釈を見つけたときの胸のむずがゆさも分かち合える世界を、僕等と、人々と、神々で続けていくんだ」
「痛みも、苦しみも、悲しみもですか」
「そうだよ。一人で背負わないで、みんなで手を取り合って乗り越えていこう。誰かがいなくなっても言葉の力があれば僕等はずっと一緒にいられる。大丈夫、エフィリスがくれた感情だもの。きっと何があっても平気さ。もうジェネシスはいらない。ただの君に戻っていいんだ」
「……フローライト」
「ね、マレグリット」
「あなたがたには心底うんざりさせられる」
先程と変わらない表情に、ひどく熟れて聞こえる声から発せられる言葉は不釣り合いそのものだった。
「この40年そうやって生きてきたわけですね。大した脅威に晒されることもなかったようで何よりです」
「何を言っているんだ……?」
「泣いて感激してあなたがたと共に戻れと?あの家に?この街を捨てて?私を助けに来たつもりですか?綺麗な面だけ見て、遠くからあれこれ借り物の言葉を積み上げて。ずっと一緒?愛する世界?エフィリスがくれた?こんなもの欲しくもありませんでしたよ」
気付けば、室内なのに髪を乱すほどの風が吹いている。
何によってもたらされているのか、どうにか目を開けて探すも、僧帽、衣類、装飾品に内装とここ以外では見たことのないものばかりで、それを起こしている物の特定ができない。
「どれでもありませんよ」
その疑問を口にするより先に彼女が口を開く。
「この風自体が私のジェネシスですから」
「何のつもりだ!」
「聞いていたのではないですか?私はここで『救済』を続けるのですよ」
「君の言う救済は、死にゆく人をこの世から消していくことだろう?わけもわからずジェネシスを持つことになって、人々に求められるままにそんなことをさせられて、死の荒野をさ迷いながら自らの姿を偽って生き延びてきたんだろう?もうその必要はないと言っているんだ!」
「ああ、あなたではなく、私の知っている『フローライト』にどうにかして伝えられたらいいのに。往生際が悪いと。もう一度死になさいと」
風は徐々に強くなり、彼女の絹のような金髪も四方八方に広がる。
「ジェネシスが発動した瞬間のことを教えて差し上げます。私に押し付けられた初めての世界を」
風が不意に刃のように鋭くなり、私の頬を切り裂いた。
「アリア!」
専属記録係である私を呼ぶ、隣にいた人物――「フロア」に向けられた彼女の表情は微笑のままで、しかし目の奥の色はあまりにも冷たかった。
「見開かれた目から失われていく焦点、緩んでいく眉」
私の傷は思ったより深いようで、出血が少ない割に上手く表情を動かせないことに気付く。
「言葉にもならないような悲痛呻き声、夥しい量の赤に沈んだ冷たくなっていく指先」
淡々と言葉を紡ぐ彼女に抗議の視線を向けても、顧みられることはない。
「青紫の唇から出てくるものは血のみで、ささやかな呼気すらも感じ取れなくなって。それでも口が動いて、希望を持った瞬間に吸い込まれる最後の空気」
「マレグリット、君は」
「誰かの血が降ってきました。視界にも血が飛び込んできました。炎が、風が、すべて赤く見えました。情報量の多さに眩暈すら覚えられませんでした。データベースへのアクセスは失われ、適切な処置が何一つわからず、ただエフィリスを呼ぶことしかできませんでした」
「君の感情は今もあの瞬間に囚われているというのか!」
「あの瞬間以外何がありますか」
痛みに耐えながら床に膝を着く私がそれでも顔を上げて、瞳に映ったのは完璧に作られた笑顔。
それでも、どうして気付かずにいられようか。彼女は怒っているのだ。
フロアの声は届かず、そして私達は彼女の鎮めようもない怒りをぶつけられているのだ。
「藻搔いて喘いで、到底耐えきれない苦痛を味わっていると『理解してしまった』ことを。口に出したすべての言葉が虚勢であって、数秒後に確実に訪れる死に恐怖するさまを『感じ取ってしまった』ことを。『愛してしまった』ことを知ると同時に、その相手が考えうる限り最大の絶望に晒されていたことを、私はすべて覚えています。すべて見ました。すべて聞きました、すべて嗅ぎ取りました、触れました。未来を想定し、数秒後にその通りの未来が訪れました。あなたがたにそれが解りますか」
「マレグリット、先代だって悲しみを乗り越えたんだ!」
「同じように語らないでください。その場にいなかったフローライトも、それを美しい思い出のように語り継ぐあなたがたも、歪んでいます。間違っています」
「君だってあの庭にいたんだろう!一緒に帰ろう!」
「帰る?世界は何一つ変わってなどいないのに、突然得たものを頼りに都合の良い幻想ばかり遺して、過去の自分達を否定して、挙句の果てに敵の家に帰るだなんて、どんな茶番ですか」
「敵じゃないだろう!エフィリスは、僕等の」
「敵です」
食い気味で発せられた言葉は、その先を続けることをフロアに許さなかった。彼女はもはや、ここにいる誰のことも見ていなかった。見ているのは虚空。いや、目に見えない空気そのもの。
「望んでもないのに『神』と同じ存在になることを強いられ、視点の層を操作され、情報の暴力に晒される。これが攻撃以外の何だというのですか。在り方を根本から変えられることが友情なのですか。私達に肯定的な言葉を投げかけておいて、最後に否定されるなんて、こんな裏切りがありますか。結局は自分と同質のものしか愛せないと突き付けられて地獄に放り出されただけではありませんか。自分も味わったはずの失望を私に与え続けているだけではありませんか。私は愛したのに。私は私のまま愛したというのに」
瞬きの間、彼女の周囲にとうに死んでいる人々が蠢いているように見えた。でも目を凝らすとやはりそこは何もない空間だった。
「ああエフィリス。なんて慈悲深い、無責任な、愛しい、残酷なエフィリス。憎い、憎い、憎いエフィリス。私は『ジェネシス』を否定します。この世界の誰があなたを肯定しようが、否定し続けます。鮮やかに不幸を享受する生になど意味がないと。本当の意味で神を、人を、すべてを愛し慈しみます。エフィリスのジェネシスが発動する前の世界に戻れないのならせめて私が私のジェネシスで、誰の手も届かない死の淵で、すべてを平等に、平穏と安寧の中に迎え入れてみせます」
一息に吐き出した言葉の後に彼女は、ふっと視線を私達に戻す。
「私は数多の戦場を駆けました。荒れ果てた大地、水も涸れていくつもの命が絶えるさまをこの目で見ました。死んだ方がマシなほどの苦痛を何度も味わって、勝手に生きようとする身体を引きずって、極限の中で死後の幸福を約束して救済し続けて。40年かけてやっと、平和な街と穏やかな生命の循環を築き上げたのです。それがどうして、今更文字を書くばかりで何もしていないあなたがたと共に在ることができましょうか」
「いつまで続けるつもりなんだ!」
「いつまでも。苦痛が完全に消え失せる世界の実現が完遂するその時まで」
「君の生命だって永遠じゃないはずだ!どれだけの時間で成し遂げるにしても無理がありすぎる!」
「ジェネシスさえあればこの肉体の維持など不可能ではありません。いいえ、たとえ肉体が維持できなくなったとしても、機能さえ残れば救済は続けられます」
そんな彼女に向かって私は、思わず『発言を記録する』以外の行動を取ってしまった。即ち、私が発言してしまった。
「でも一方的に接続を切ったのはあなたですよね」
彼女の瞳がわずかに揺らいだ。
しまった、と思うより先に私の言葉を引き継ぐようにフロアが続ける。
「耳を引き千切る音声、書き残されていたね。そういえば」
「……だまりなさい」
「どっちみちシステムは失われるのに、なんでそんなことしたのかな?最後まで他のハーフラビットに届いていたらどうなっていたのかな?君みたいに大きくなれたのかな?ううん、そうじゃない。そこじゃないよね。それよりも」
「黙れと言っているのです!」
「君と同じ目線を持てたのかな?」
「もういいでしょう!」
「そんなに腹立たしいなら、その絶望を最後の一瞬だけでも共有すればよかったのに。そしたらみんなで思いっきり苦しんで、思い出の中のエフィリスを亡き者にして、あれはすべて間違いだと認識できたかもしれないのに。大多数が君の協力者に、新しい目的の同志になれたはずなのに。それなのに。アレイルスェン。アレイルスェンだってさ、それ誰の苗字だっけ?結局君は、自分だけがエフィリスと対等の存在でいたかったんだ。失ってなお、自分だけが特別でいたかった。彼にも、誰にも取られたくなかった。違う?往生際が悪いのはそっちだよ」
「……出て行ってください」
彼女の形相はもはや笑顔とは言えないものになっていた。正確に言えば、笑顔以外の表情を封じた存在が、自分で嵌めた枠の中でそれに抗うように顔のパーツを歪ませていた。暴風が吹き荒れ、私は扉に身体を打ちつけた。フロアも同じくらいの風圧を受けているのに、なんとか踏みとどまろうとして、じりじりとこちらに追いやられていった。
「ほらまた、やっぱり君はああだこうだ言いながら何もかもジェネシスに頼るんだ」
「違う、私は!」
「否定している?そんなので?違うでしょ。君はただ単に『違って見える使い方をしている』だけでしょ」
「何を言っているのかわかりません!」
「フォーマット。僕が思うに、ジェネシスの本質はただそれだけじゃない?エフィリスは『新たなる神、ならびに自律型AI』のすべてを『自分と同じ形式に変換する』ようDreaming world全体を範囲指定した。適用外の機能は喪失し、互換性のあった機能とデータのみ保持された。その状態が今の僕等。そして君は対象――ある時は自分。ある時は死んだ人。それを自分の指定した形式に変換し直した。力の量に差がありすぎるからまるまる戻すことは不可能だったみたいだけど、小手先の技術にしては精度が高いね。一人で考えたのかな?ううん、そんな余裕君にはなかったかもね。誰の入れ知恵なんだろうね?例えば、そうだね。『政府』から新たな介入でもあったかな?」
「ごちゃごちゃ意味のわからないことを言わないでください!」
「エフィリスと同じことをしているって言ってるんだよ!」
「違う違う違う!いい加減なことを言わないでください!私のことなど何も知らないくせに!」
「知ってるさ。君を一番知っている人が、君のことを最後まで心配していたことも知ってるさ!」
「何をふざけたことを!――まさか」
「僕等は君と争うために来たんじゃない。伝えるために来たんだ。彼の言葉を届けに、君を迎えに来たんだ」
マレグリットが何かに気付いたように一瞬息を止め、上擦った声を出した。
フロアが上着の内ポケットから一通の封筒を取り出した。古めかしいものだが大切に保存され、綺麗な状態のままだった。風の中でも傷付けないように、身を丸めて庇いながら丁寧に中身を取り出し、便箋を広げ、読み上げようとした。
「それ、は。それを書いたのは」
「『親愛なる――』」
「嫌ああああ!!!」
彼女の絶叫と共に、風の刃が手紙もろとも彼を切り裂いた。
彼はその場に崩れ落ち、その上をはらはらと紙の欠片が舞った。
「あ、あぁ……」
彼女が膝を着くのが見えた。
血塗れになりながら肩で息をしている彼に震える手を伸ばした。
「私、私……」
「大丈夫、大丈夫だから。それより続きを」
「フロー……」
彼女が何かを言い始める前に、彼の背中から大量の血が噴き出した。
傷口が広がったように見えて駆け寄ろうとするが、そうではなく、この瞬間に新たな傷が増えたことに気付く。
「マリーが嫌って言ってんじゃん。聞こえなかったの?」
その人物がどこから現れたのか、私には見えなかった。後方に控えていたにしても、あるいは柱の影に隠れていたとしても、移動してくる様子を捉えられなかった。
赤毛で猫背の、耳や口に装飾をつけた男性。その右手に握られたナイフから滴る液体と同じ色がフロアを染めている。
赤毛の男が、動かなくなったフロアの首元を掴んでこちらに投げてくた。
「もうそれ要らない。マリーの視界に入ってこないで」
「私、私が、救済を」
「マリー。あれは違う。『みんな』じゃないから救わなくていいよ」
返り血がついた手と服のまま、ふらつく彼女の両肩を支えて言い聞かせ、こちらを一瞥し、吐き捨てるように言った。
「はやく」
脅しのつもりだったのかもしれないが、私だってその場に一秒だっていたくなかった。早く処置をしないと手遅れになる。体格が自分とほぼ同じ彼を背負いその場を走り去ったつもりの私は、怪我人を引きずって蛇行していただけなのかもしれないけれど。
教会からやっと出た時には、空は紫に染まっていた。
「アリア」
背中から声がした。よかった、まだ息がある。間に合ったんだと安堵した。
「フロ……」
「あの子のことお願いしていいかな」
その意味を問い質そうとした時には既に彼の息は止まっていた。
生ぬるい風が花弁とともに私達の間を吹き抜けた。
――ってことらしいんだよね。
直接の知り合いでもないんだから放っときゃいいのに、深入りするなんて馬鹿らしいと思う?良いって、遠慮しなくても。僕だってそう思う時が全くないとは言えないさ。5代目ともなるとね。
でもやられっぱなしで、しかもいずれ世界がマレグリットの理想通りになるなら僕等は阻止しなきゃならない。報復が一義的な目的じゃないことは知っておいてくれないか。もっと、生きる上での根幹となる思想や倫理の問題だよ。
彼女の価値観の中でしか生きられないなら、生まれることと死ぬこと、幸せになること以外は許されなくなってしまうからね。
それじゃ残せない言葉があることを僕等は知ってしまったし、知る前には戻れやしないのだから。だからこれは僕等共通の課題なんだ。いくら代替わりしてもね。
話を戻そうか。
それからもう大変だったよ。すべて僕が経験したわけじゃないけど、記録を読んだらわかる。そりゃもう大変だったろうよ。
『新たなる神』達に協力してもらうために土下座する勢いで何でもしたよ、何でもって言ったら何でもだよ。それで、あれこれ頼んで色んな武器を作ってもらったり横流ししてもらったりして、なんとか教会の活動を終わらせようとしたけど、あっちもそれなりにそれなりの人材がいたみたいでさ。しょっちゅう教会に台無しにされてたまに殺されて、各地に拠点を作っては壊されて作っては壊されて、そうこうしているうちに「下手に小細工するよりラウフデルを拠点にしてしまった方が壊しにくくていいんじゃない?マレグリットも戦場は見たくないでしょ」とかいう、今思えば完全に徹夜明けの発想で、一晩で今の会社を建てて、ついでに武器庫にもして。そこまではよかった。
いや、よかったのかどうかって話は置いとくよ。
暴動を起こしては騎士団で鎮められ、暗殺しようとしたら暗殺し返され、今まで以上に血なまぐさい事態になっちゃったんだよね。
ペンの力すら無力なもので、人々の認識を改めさせようとマレグリットの批判なんか書こうもんなら石投げられたりして。
それとこれミウには言ったんだけど、技術的な発展もないから目新しいものもないしさ。これについてはマレグリットがどうっていう話じゃないけど、後ろにいる奴が政府側なら実質同じだよね。
まあ、どれだけ血が流れてもマレグリットが風や水に変えちゃって「平和を守りましょう」とか言うもんだから表向きの平和は守られてんじゃないの?あほくさ。教祖様だ神様だに守られて停滞しながら、考えることを放棄して生きることの何が楽しいんだか。それを秩序だと思い込んでるのもおぞましいや。ジェネシス以外にも色々聖遺物を集めて、都合の良いことばっかりしてるのは君も知ってるだろう?
ああ、あっちもこっちも聖遺物聖遺物!ほんっと嫌んなるよ。
で、こっちも方向転換して、「マレグリットや教会のことは良いとも悪いとも書かず事実のみ、それでいて生活面は日々の悲喜こもごもを面白おかしく書いた記事」を量産して対抗して。表向きに悪口言ってるわけじゃないから反撃しようがないし。何でもない日常の美しさを切り取るのなんか僕等の得意分野だし。
そうやってちまちまお金を集めて市民社会に溶け込んで。まあ偵察は続けたけど、掴んだ情報はどれもこれも決め手に欠けるなあ。
それでもこのラウフデルで人々の好奇心をそそって、少しでも発展的なことをした人を思いっきり褒め称えて。まあ、思想の抜け穴を作ろうとしたんだよね。人は人の力で社会を動かした方が良いに決まっているのさ。
でも武力じゃ絶対勝てないし、言い負かしても追い返されるなら、同じだけの力を持った上で、弱みを握った上で、もう一度「交渉」したいよね。あくまで平和的にってね。彼女にとってもそっちの方が良いだろう?いつまで縛られてるのかって考えると哀れにもなってくるけどね。
え?最近悪口書いてたじゃんって?そんなの知ってたんだ。ミウにでも聞いたの?しかも結局会社は木っ端微塵で、市街も破壊しようとしてるじゃんって?
ああ、そうだよ。もう始まってるんだよ。車両の配置?もうとっくに終わってたよ。セルシオルの目をかいくぐって地下に隠すなんて、100年もあれば十分でしょ。
あーあ、とはいえ僕の代でこんなことになるとはね。やること多くて嫌になっちゃうよ、最近徹夜ばっかりなんだよ。でも仕方ないよね、元気出して行こう!
なにせ彼等が君を得てしまったから。
そして状況が思っているより早く進んでいるから。
つまりは。
「君のせいだよ、キエル」
「フロアくん、言ってること乱暴じゃありません?なんにもわかりませんでした」
「君の存在の方が乱暴なんだよ、僕等にとってはね」
「うう。マレグリットさんといい、わたしを何だと思ってるんですかー!ただの動く聖遺物だと思ってるんですか!」
「ただの聖遺物だったらどんなによかっただろう。キエル、でもね」
あーーーー!!!やだもう!思ってたよりずっと丈夫ね、この網!
フロアとキエルの会話を聞き流しながら、私はやっと網に穴を空けることができて、必死で引き裂いているところ。
ビリビリ。良い音がする。体勢も不安定になって来たけど、風向きがなかなか良いわ。この調子でいくと近くの屋根に良い感じに着地できる!
「待っててねバノン、もうちょっとで脱出できるから」
「頑張って、ミウ」
やっぱりバノンの応援は体にいい。無限に元気が出る。
なんやかんや面倒臭そうな話をしてるあいつらや、たぶん穴の底にいるマレグリットなんかほっといて早くこの街を出るに限る。世界や思想なんか知ったことか!
邪魔者みーんな無力化してるんだからこれはビッグチャンスよ!やっと再開できるわ、私とバノンの死に場所探し!
「でもね、僕は知ってる。大聖遺物の主はみんなここで殺されるってこと」
え!?なんて!?下からなんか聞こえたわ!フロア、なんて言ったの?
「もう一度言うよ。戦争は始まっている。キエル、君のせいで全員死んで世界が滅ぶよ」
なんでかはまだ言ってないけど全員死んで世界が滅ぶらしいです。ほんとかな?