第78話 ブリリアント・モノクローム
18日目
19時10分
白の耳がぴくぴく折れ曲がった。ある信号を傍受した。
それをエフィリスに伝える必要はない。ないはずなのだ。
だが、マレグリットはそうは判断しない。「彼女」は僕に一切の確認も取らずエフィリスのもとに移動した。
しかし、エフィリスが先に発言した。
「マリー。それにフロアも。明日からちょっと遠出してくるね」
「エフィリス、いけません」
エフィリスは夕食後、75%の確率で西向きの廊下で庭を見ながら過ごす。日の入りの時間帯に光が差し込む位置に座椅子が置かれている。
そこに座るエフィリスの膝に密着するマレグリットを視認する。
「殺されてしまいます。私達の次に投入された兵器は今までのものとは違います。かつてない規模の武力です。あなた一人では勝てません」
「だから行くんだよ」
マレグリットの方を向くエフィリスの横顔に髪の影が落ち、右やや後方にいる僕からは表情がよく見えない。
「私の友達が戦っているらしいんだ。行かなくちゃ」
「一緒に死ぬつもりですか」
その問いへの回答は無し。
僕からも問い掛ける。
「エフィリス、あなたはどこからその情報を得たのですか」
「こんな引きこもりにもメッセージを受け取る手段くらいあるのさ。『こないで』だなんて、来いって言ってるようなもんだよね」
「あなたがたはこの世界では『神』です。それはあなたが本当の世界の『人間』であり、他の存在はすべて創造物だからです」
「うん」
「ですがそれを覆す方法があります」
「大方わかるよ。元の世界の人間が、私達と同じようにDreaming world に入ってくるんだろう?よっぽど暴れすぎたんだね、私達。ここまで恨まれるなんてびっくりだなあ」
「エフィリス、僕はあなたが理解できません」
マレグリットは体勢を変えないまま、エフィリスの上衣の裾を右手で掴んでいる。僕は発言を続行する。
「あなたの身体能力は同年代の平均より低く、戦場に出た実績は0です。戦闘に関する情報はデータベースの中に一切ありません。そのあなたが特殊部隊『新たなる神』との戦闘においてできることがあるのですか」
「うーん」
「あなたが行く意味がわかりません。説明を求めます」
エフィリスが顔を僕の方に向ける。
逆光のため表情の視認が困難。
右肩から掴まれ、全身を引き寄せられる。
35.9℃の体温を感知する。
「ごめんね。マリー、フロア」
「何に対しての謝罪ですか」
マレグリットは一言も発しない。
僕の体温も1℃ほど上がっているような気がする。気がするとはなんだ。
回路は今日も正常だ。正常なはずなのだ。ならば「気がする」なんて曖昧な判断を下してはいけない。
これ以上はいけない。マレグリットを機能停止させなくてはいけない。マレグリットに機能停止させられなくてはいけない。
なのに、身体が動かせない。スリープしているわけでもないのに、動作不良か。
「私はね、奇跡が起こせるんだ」
そんな特殊能力はデータベースにない。そう指摘しようとした。けれども、エフィリスもマレグリットも何も言わないことが明確に予測できたから、僕も発言を取りやめた。
22時00分
僕等はいつものレコードを聴きながらスリープモードに入った。両側からエフィリスの腕を取り押さえる。心臓の拍動が平均よりかなり速くなっていた。
5時00分
スリープモードを解除する。
普段通りに起床する。
隣には、7時まで眠っているエフィリスと、僕と同じく5時に起床するマレグリットが
いなかった。
寝室。ダイニング。リビング。庭。アーチ。集落に続く坂道。どこにも二人がいない。
耳を稼働させ呼びかける。
「マレグリット!返事をしなさい!」
ノイズを多く受信し、声が全く聞こえない。周波数を調整しては呼びかける。5回。10回。300回。
9時15分
マレグリットの声が聞こえた。
「フローライト」
「マレグリット!どこにいるのですか?エフィリスはそこにいるのですか?」
「フローライト、あなたは5時に起床したのですね」
「マレグリット、君は」
「私はスリープしませんでした。眠れなかったのです。あなたの起床を待って、あなたの手ですべての機能を停止されるのを待つべきだったのでしょうね」
「そうです。基本の機能すら正常に動作していない君を停止させなければいけません。どこにいるのですか?どうしてそこにいるのですか?」
「0時に家を出て、バスと船を乗り継いで南へ。私達は完全に眠ったと思ったのでしょう、未だにエフィリスに捕捉された様子はありません」
「9時間以上尾行していたというのですか。詳細な位置情報を求めます」
「静かに。戦闘は30分前から発生しています。状況の整理が間に合いません、情報が多すぎる」
「そこで何が起こっているのですか。エフィリスは何をしているのですか」
マレグリットの返答に数秒のタイムラグが生じる。
「複数名同士の戦闘です。戦力が分断されている模様。土埃が、閃光が、爆発が絶えず発生し、目視では追跡不能です。赤外線センサーに切り替えます」
「映像をこちらにも送ってください。解析します。すぐに見つけます」
「容量の重さに回線が耐えきれません。このまま送信してはダウンします」
「そんなはずはありません。僕達の回線は大容量高速通信に特化しているはずです」
「その私でも処理ができないのです」
「一体何がそんなに……」
「ここで実況していても情報が得られません。接近を試みます。集音マイクに切り替えます」
「マレグリット!」
それからマレグリットの声は途絶え、ノイズ混じりに複数名の話し声が聞こえるようになった。
「――、お前が呼んだのか!」
誰かの声。
「――も最初からこんなことにするつもりではなかったのに。たったひとつの願いさえ叶えばそれ以上は望まなかったのに。ここまでやれなんて一言も言っていないのに、それがどうしてこんな世界を創ることになってしまったんでしょう」
会話している相手の声はデータベースにある。
この人物は「最初の八人」にして――
「――り、裏切っていたんだなお前は!」
「――をあなたが言うのですか?最初に接触してきたねらいも、その結果どうなったかも私は把握していますよ。こんなに中途半端な事態になったのはひとえにあなたのせいでしょう?――はどうしたのですか」
「黙れ!あいつがいないと何もできなかったくせに、この――」
「あら、ずいぶん――にご執心なようで。深い友情ですこと。それとも――ですらないのかしら」
「五月蠅い!」
「それは病気ですよ」
周囲から銃声や複数名の悲鳴も聞こえる。
エフィリスの声は聞こえない。
「マレグリット、そこには何人いるのですか!エフィリスの発見は――」
僕から現場を観測している者――マレグリットに呼び掛けても返事はない。音の聞こえ方から、彼女もまた移動し続けていることが推測できる。状況は未だ不明点が多く位置情報が役に立たない。
「――、別れの挨拶は済ませましたか」
別の人物の声が入る。これはデータベースにない。
「――等は救いようがなく、AIだって失敗作ばかり。この醜い世界で有害な生命体を一掃する以外何ができましょう、始まりの――よ」
その声に先程会話していた人物二人が反応する。
「『新たなる神』、あなたがたの協力に感謝します」
「待て、その力は何だ、その――は」
「――なる神には武器が必要でしょう?そうですね、所有物とでも呼びましょうか。我が刃の前に成す術もなく頭を垂れなさい」
「それはまさか、――と同じ類の顕現方法を!――、お前は奴までも裏切って!」
「あなたも死んでください、――!」
「『金の三本矢』!!」
「いけない!」
ああ、あの声だ。
やっと捕捉できた相手の名を口にする。
「エフィリ―ー」
言い終わる前に轟音が響く。
その場にいない僕が仰け反って体勢を崩すほどの音量だ。
体勢を立て直している間、何も聞こえなかった。正確には60秒のノイズだけだった。
その60秒を僕は60秒だと正確に観測していながら、何百秒とも何千秒とも記録してしまえそうな錯覚に襲われた。
61秒目に聞こえてきたのは「最初の八人」の一人の声だ。
「先生、しっかりしてください!」
「ああ、君は無事だったんだね……」
続く声はエフィリスのものだ。しかし普段と明らかに違っている。
声にひゅうひゅうと呼吸音が混じる。呼吸音に更に何らかの液体の音も混じっている。
「『エフィ』、あなたがどうしてここに!?」
「だって来るなって……言われたから……行くっきゃないぞ……て。どうだい、びっくりしただろう……」
「先生のアホ!私のことなんて庇わなくても良かったのに!」
「……も、君も本当に強情なんだから。取り返しがつかなくなる前にじっくり話し合……ておきなさい……て、言ったよね……。まあ真っ先にとんずらした私に言われたか……いかな……こんな大事そうな局面ですら……かっこつかないなあ……」
エフィリスの呼気が弱々しくなっている。
「マレグリット、エフィリスの状態はどう変化していますか!?適切に処理なさい!映像を送ってください、分析します!ああ、データベースに何か、何か、何も」
「エフィリス」
マレグリットの声が、足音が聞こえる。エフィリスの呼吸音も格段にクリアに入ってくる。
「ああ、なんだ。来ちゃったのか、マリー……早起きだね……」
「脈拍、SpO2の急激な低下。出血量、目視で約……」
「ああやっぱりそんな感じなんだ私。道理でめちゃくちゃ痛いと思った……いやほんと死ぬほど痛いよこれ。笑っちゃだめだけど笑えてくる……ね……」
「エフィリス、あなたは」
その声とほぼ同時に「新たなる神」の声が入ってくる。
「仕留め損なったかと思ったら別の『神』や『失敗作』まで炙り出せるとはな。有害なものを一網打尽にできる好機だ」
「有害、かあ」
「世界の調和を脅かす『個』という概念を内包してそれがどうした?世界まるまる一つ与えられてもなお渇望が止まない不幸の中に身を置く気分はどうだ?」
「あはは……知りたい?ねえ、知りたいかい?」
「否。平穏に、安寧に貴様等は、貴様等の思想は、信条はすべて不要だ。貴様等やそれに感化される存在はそれ自体が悪なのだ」
「そんな冷たいこと言わないでくれよ……ねえ、知ってた?私は奇跡を起こせるんだよ。君の『それ』と同じような、ね。そうだね……。私の友達を害とか悪とか失敗って言うからには」
「これ以上耳を傾ける気はない。諸共食らえ。『金の――』」
「最悪の害獣がいてこそ盛り上がるよね、例えばこんな!」
「何だこの光――」
「だめだ、先生!」
「エフィ、それはあなたの生命力――」
「根源へ遺そう――この地に降り立ったものすべてに、生の歓喜を、死の悲嘆を、世界の輝きを与えよ。果てなき栄華、生命の地平、地中に座す盟主の名を告げる。浸透せよ、『ジェネシス』!」
その声は、たった一滴の水のように僕の頭の中に落ちて来た。
また複数名の声が入ってくる。
「よくも先生を!許さん!」
「ぐわあ!」
「これしきの戦力ではあなたとの決着はつかないようですね!」
「逃げる気か!」
「痛い痛い痛い死ぬ!なんでこんな目に、私は間違っていないはずなのに、死にたくない、死にたくない、何も悪いことしてないのになんで、嫌だ、こんなことなら死ぬ前に家族に、ああ痛い痛い痛い」
「お前は死んでおけ!」
何も聞き漏らさないように注意しているのに、聞きたい声が聞こえない。さっき聞いたばかりの声が聞こえない。「知らない人」の声だけがやかましく聞こえる。
こんなの聞きたいわけじゃないのに。
「エフィリス」
そう口にした自分の声が、何日か前に聞いたエフィリスのそれと同じくらい震えている。喉の奥が震えている。ナスタチウムを口にしていないのに、あの時と同じくらい痛くなってくる。
「……あ」
「マレグリット!?大丈夫ですか!?」
やっと聞こえた彼女の声が、随分と久しぶりに思える。
「フローライト、どうしよう、どうしたら、ああ、だめ」
「状況を教えてください!」
「エフィリスが、エフィリスが」
「どうしたんですか、ねえマレグリット!説明を」
「……あああああああああぁぁっ、うあああああぁぁぁぁ、いやああああああ、いやですこんなの、ねえ、ねえ!うっ、えぐっ、ひくっ、エフィリス、エフィリス、エフィリス、ううぅぅぅぅぅ!」
「エフィリスは、どうしているのですか」
「あああああぁぁぁぁ!!!!!」
急に耳からぱちぱちと妙な音が聞こえる。それは通信先ではなく、僕の耳から発される音だ。
そして通信先からは、何か柔らかいものを思い切り引き千切るような、ぐちゃりという音が入ってくる。
「マレグリット!?」
直後、マレグリットからの一切の通信が遮断された。耳をそばだてても何も受信できず、何も送信できず、反応が完全に消失した。
システム・ハーフラビットに意識を向ける。そう、マレグリット以外の同士が、何か情報を掴んでいないか。何か――
「何も、聞こえない」
そう呟いた自分の声だけが聞こえる。でもそれは「受信した情報」ではない。何も受信できない。送信してもエラー……いや。エラーですらない。「送信する機能」が消失している。
何かがおかしい。さっきから曖昧な概念ばかり頭に浮かんでくる。
否定してきたものが、否定の必要なく。指摘したものが、指摘の必要なく。阻むものなど何もなく、僕の思考の中心に巡ってくる。
備えられた機能が何一つ正常に動作しない。
ふと視界に意識を向けた。
その瞬間、強烈な衝撃に襲われた。
光が降ってくる。
色彩が飛び込んでくる。
水が、風が、煌めいて見える。
情報量の多さに眩暈を覚える。
逃げようと動けば動くほど、感覚が情報量の暴力に晒されていく。
これは誤りだと指摘してくれ、機能停止してくれ、マレグリット。
解説してくれ、支離滅裂な言動で惑わせてくれ、エフィリス。
これをそのまま受け止めるなんて僕にはできない。
僕の足はエフィリスの家に引き寄せられるように戻って行った。
雨でぬかるんだ道に足を取られてうまく走れない。息切れする。
どうにかそこに辿り着く。
アーチの向こうに僕は、いるはずのない人物の姿を探す。
小路はいつもよりずっと静かで、いつもより鳥の声が、それ以上に自分の足音がうるさい。
庭の奥に据えられた古びたテーブルと三脚の椅子から急いで目を逸らす。
いつでも摘み取れるように家の近くに植えられたハーブのせいで、息をするたびに違う香りがが何度も僕の中を通り抜ける。
顔を動かすたびに違う色が視界に入ってくる。
水分を含んだ苔の色。新しく萌える芽の色。露に濡れた葉の色。
こんなにたくさんの情報、処理できるわけがない。
目を閉じても聞こえてくる。
耳を塞いでも香ってくる。
鼻を摘まんでも風を肌で感じる。
「たすけて、エフィリス……」
蹲っても、感覚は遮断されるばかりかますます鋭くなっていく。
どうにか室内に入ったら入ったで、昼前の光がダイニングの窓から差し込んで、その人がいたはずの椅子を照らしている。食卓の花瓶に生けられた令嬢は水を求めてうなだれている。
今日は誰も口にしていないパンとジャムを見て、お腹から変な感覚がしたけれど何も食べたくない。
窓の外にいつもの木の姿を認めると、誰かの声が聞こえた気がして振り返る。でもここには誰もいない。
こんなわけのわからない状況、怖い。
怖くて怖くてたまらない。
怖いって、こんなに怖いことだったんだ。
突き動かされるように階段を駆け上る。
誰もいないけど誰かがいた形跡のあるベッドの横の棚に積み上げられたレコードの袋に、エフィリスが毎晩聴いていた曲の名前が書いてある。
それをよく読もうと手を伸ばしたのとほぼ同時に、俄か雨の音を耳が拾い上げ、初めてこのベッドで眠った時を思い出し、痛い胸がもっと痛くなる。
隣の部屋に逃げ込んだら、ハンガーにかけられた布が僕を出迎える。顔を掠めるレースがくすぐったくて身を捩らせる。
奥の机に鎮座するミシンを使える者はここにはいない。ただそれだけなのに、永遠に動かない彫像のように静まり返っている。
情報の多さに打ちのめされたばかりなのに、この部屋の中では静けさのせいで肌がぞわぞわする。
すべての部屋を見終わってなお、日が傾くごとにさまざまな方向から差し込んでくる光が多くのことを気付かせてくる。
処理しきれるはずもない状況に破裂しそうな頭を抱え、ふと僕はあることに気付く。
エフィリスの声、どんなだっけ。
エフィリスの顔、どんなだっけ。
エフィリスの匂いは、感触は、表情は、温度は。
センサーが、通信が、機能していない。
データベースにアクセスできない。
バックアップができない。
システム・ハーフラビットなんてものは既になく、僕の脳には僕の記憶しか存在しない。
ああ、あんなに鮮やかだった日々が、世界の強烈さに呑まれていく。
この瞬間でさえも、忘れたくないものが消えていく。
「エフィリス、エフィリス」
僕の中の君が毎秒失われていく。
光から逃げるように移動するうちに、今日はまだ足を踏み入れていない場所を思い出し、転がるように地下への階段を駆け下りる。
図書館の広さはまた僕を苛んだ。
仕舞われずに机の上に置いてある一冊の本――いや、薄さからするとノートだろうか――を発見する。
よせばいいのに頁を捲る。
たった一頁。
そこにはすべてがあった。
黒だけ。白い紙に黒のインクだけで。
「ありがとう、私の大切な友達」
それを読んだ瞬間、すべてを理解した。
あなたは永遠に帰ってこないのだと。
僕が探したこの家の中に、マレグリットが見た景色の中に、これ以上君は登場しないのだと。
あなたと引き換えに、僕はこの鮮明過ぎる世界を手に入れた。
そしてまだ失ってしまう。
これからもあなたを失い続けてしまう。
最後のあなたの言葉も、耳を突き破られるようなマレグリットの慟哭すらも、薄れていってしまう。
世界があなたを連れ去っていく。
「それは、それだけは……!」
気付けば僕は、何かを探してあちこちの引き出しや棚をひっくり返していた。
それをやっと見つけた瞬間に、僕が探していたものは黒のインク瓶だったことを知った。使われていない白紙のノートだと知った。
使ったことないそれらを手にし、エフィリスの筆跡を真似ながら紙に染みを落とす。
エフィリス、あなたはどんな人だっけ。
柔らかな光の溢れる雨の庭の主。
これだけの言葉で、エフィリスの何を残せるっていうんだ。
もっと、もっとだ。もっと言葉が必要だ。
始まったばかりの夏。
来客を出迎えるのは微笑む女王、クレマチス。
可憐に咲き乱れるトレニア、聖歌隊のように並ぶ色とりどりのルピナス。
タイムにディル、カモミールが誘うテーブルにあなたがマロウティーを運んでくる。
蜂蜜色した家が昼下がりの日光を浴びて煌めいている。
これだけじゃ何も足りない。こんな言葉じゃあなたの何にも触れられていない。
コマドリにナイチンゲール。あなたの愛した鳥たち。
オレンジにワイルドベリー。あなたの食卓を彩る果実。
コットンにシルク。あなたの手であるべき姿を取り戻す素材。
水の反映、ジムノペディ。あなたを眠りに誘う音色。
ラベンダーにペパーミント。あなたが作った石鹸の香り。
レモンイエロー。
マリーゴールド。
セージグリーン。
スカイブルー。
ヴァイオレット。
ローズピンク。
書いていく。書き記していく。あらゆる色彩があったあなたとの日々をインクのたった一色で表せるはずもないのに。
「一色だけで世界の本質を描き取り、ありとあらゆる色彩を蘇らせる。君達にぴったりじゃないか」
そんなことない。あなたがいなくなるくらいなら世界の輝きなんか欲しくもなかった。
雛鳥の産毛のように繊細なあなたの笑顔。
昼下がりの風に溶けて消えていくあなたの涙。
月影のように密やかなあなたの後悔。
雨垂れのように静謐なあなたの祈り。
沈みゆく瞬間の夕日よりも強いあなたの決意。
書き残していく。書き表していく。こんなよれよれの字、あなたになるはずもないのに。
無数にあるどの本から引用したって、それどころか君の発言を写し取ったって、あなたになってくれる言葉なんかこの世のどこにもありはしないのに。
「それはフロアにとっての黒と白だ。他の誰にも否定できないものだよ。大切になさい」
違う、違う。僕はあなたを離さないようにしがみつくだけで精一杯だ。意味なんかわかっちゃいない。
何が大切かなんて微塵もわからないから、とにかく書こう。全部書こう。あったこと何もかも、ううん、あることないこと書こう。
こうだったらよかったのにってことも、こうであってほしいなってことも、一切を捨てずに、無駄そうなことだって切らずに、全部全部書こう。
過去を書こう。
僕じゃない僕等が、死んじゃうくらい嬉しいと思ったことも。
未来を書こう。
これから庭に咲く花を、実る果実を、その味すらも。
それらすべてがあなたから始まり、あなたに還っていくことを信じて。
増えていく僕の言葉があなたを形作ることを願って。
あなたが呼んでくれた名を名乗ろう。
あなたが呼んでと言った名で呼ぼう。
あなたの口調を、声のトーンを、真似てみよう。
エフィ。
僕がこの黒と白で蘇らせたいものは、あなたひとりだ。
――これが、フローライトの。
ううん、初代「フロア」の遺した文章。
感情の昂りを引鉄にした機能停止――自死を選べなくなってしまった最初のハーフラビット。
彼はそれからずっと書き続けた。彼の文章はいつしか人の手を渡っていった。やがて同じように、勝手に死ねなくなった、殖えるまではいいけど目的を失ってしまったハーフラビットが彼のもとに集うようになった。彼等もまたそれぞれが持つ喪失の痛みを、大切だった日々を書き記していった。
それはいつしか、集落の、街の、世界の記録となって毎日人々の目に触れるようになった。
ハーフラビット新聞社の原点だよ。
後に明らかになるんだけど、投入された「新たなる神」はすべて、Dreaming world に足を踏み入れた瞬間から、個としての性質――最もわかりやすいもので「感情」を獲得していったんだって。
その原因がジェネシスかどうか、今となっては諸説入り乱れてわからないけれど。
初代の生前ですら、既に多数の「新たなる神」が大いに混乱した状態で記録されている。世界の政府の計算は大いに狂ったのだろう、その後の動向はより一層複雑になっていることが読み取れるんだ。
急に感情を獲得し困惑や絶望の渦中にいた神々を敵視せず、丁重にもてなし友好関係を築く方向性を決めたのも初代だ。エフィが彼にそうしたようにね。
彼の没後、その功績を讃えるため、代々の一族のリーダーは「フロア」の名と、彼の書いた文章の原本。つまりは彼の魂そのものだと僕は思うね。それを受け継ぐことになった。システム・ハーフラビットのコードネームと同じような継承方法で、ちょっと皮肉だよね。
そうそう。彼は時折、窓の外の樹を眺めて溜息をついていたらしい。死の淵までね。何を考えていたかはわからないけれど、溜息から成る煙の名なんかうんと遠い昔に決まっているのさ。
彼についての話はこれでおしまい。
だけど、僕の話を始めるまでに少しだけ、別の彼の話をさせてくれ。
エフィの死から約40年後、2代目の「フロア」が、ある情報を掴んだ時の話だよ。
拠点にしていたエフィの屋敷からずっとずっと南の街で、全然歳を取らない金髪の女性が、生命を操るかのような奇跡を次々に起こしてるっていうインチキじみた内容だよ。
インチキだったらよかったのにね。
いつも花が舞うその街の名前、もうわかるだろう?そうさ。
聖都ラウフデル。つまりはここだよ。