第75話 溜息から成る煙
世界には名前などない。何故なら唯一無二だから。
もしも世界に名前がついているとしたら、それはその世界が「人造物」であることの証左である。真の世界ではない。虚構が現実を侵食するなど、論理的に不可能である。
それを可能にするだけの質量が、エネルギーが、人造の世界には存在し得ないことが何よりの論拠である。
話は数年前に遡る。正体不明の国際的テログループの出現は、我々にとって想定外の出来事だった。
ああ、「想定外」だとも!「想定外」など、この世界に存在するはずがないのに!その時点で彼等の存在は死罪に値する!
彼等は完璧に調和した完全なる社会を、風穴を開けるようにささやかに、且つ大胆に破壊していった。
世界を二分する何度目かの大戦の末、人類が辿り着いた平和を、繁栄を、幸福を否定する価値観を喧伝した。人類の苦難を、努力を、成果を否定した。
ある者は言葉で、ある者は暴力で、またある者は技術で。
それでも我々は多大なる犠牲を払いながらも彼等の駆逐に成功した。
彼等はあろうことか肉体を棄て、独自に構築した仮想世界に逃げ込んだのだ!
それはまさしく敗北宣言に違わなかった。この世に存在する「世界」はひとつだけ。他の世界など虚構に過ぎない。接続を切る。電源を落とす。それだけで消せるはずの存在に自ら成り下がった彼等にかける憐憫など不要である。
そう、接続を切り、電源を落とす。それだけのはずだった。
それなのに。
切っても切っても切っても切っても切っても切っても切っても切っても切っても
彼等は、どこかに
「Dreaming World」。
最新のファイアウォールを容易く突破し、社会を構築するネットワークを侵食する自律型ウイルス。そのせいで社会の形態は「大戦前」にあわや逆戻りの、未曽有の危機に瀕している。
世界トップの頭脳を集めても問題は打開されず、世界は悪夢に包まれた。
Dreaming World の倫理観は猛毒だ。
彼等を、彼等の「世界」を殲滅するための画期的な策がまた新たに打ち出された。
ウイルスにはウイルスを。
外側から破壊することが難しいなら、内側から正せば良い。
増殖せよ。繁栄せよ。
彼等の歪んだ思想を、数で制圧せよ。
攻撃されても対の相手がいればいつかは勝利できる。
Dreaming World の中では悠久であっても世界にとっては刹那なのだから。
――それが、僕が。僕等が産み出された理由。
システム・ハーフラビット。
げっ歯類の繁殖力、ヒトの知能。
現代科学の粋を極めた僕等の使命はただ一つ。世界の正常化。
倫理的な悪を完全に排除した世界を取り戻すため、絶えず侵食する胡乱げな混沌を絶滅させなければならない。
つまりは、Dreaming World の神の思想を否定し主流を統一すること。その数によって発言力を高め、理想的な生活ないしは性質によって社会を正常化すること。自称神の犯罪者を矮小な存在へと貶めること。「どのような条件下においても肯定され得ない存在」だと自覚させること。
あわよくば命を奪ってもよい。特別法によって死刑の執行権も付与されている。違和感なく社会の一員として受け入れられるため戦闘力は極めて低く設定されているが、それは「禁止」を意味してはいない。
内部で動作するためには時間設定を環境に適合させる必要がある。世界にとっては数時間、数日であってもここでは流れの速さが異なる。
Dreaming worldができて「350年」。
最初の八人が自身をデータに変換して「150年」。
――つまり、今から「150年前」。
僕達は生まれて、設定された通りに作動し始めた。
朝の5時に起床する。
同胞と通信するための耳の動作確認をする。
黒は送信、白は受信。
元気よく挨拶をする。
規則正しく心臓を動かし、規則正しく呼吸をして。
平穏を愛し、停滞を尊び、現状を肯定して。
発展を憎み、成長を嫌い、騒乱を軽蔑して。
戦乱を引き起こす信奉や従属や渇望を全否定して。
ただただ礼儀正しく大人しく何も信じず何も考えずに生きる。
僕等は二体一組の番で、ただ繁殖するだけだ。
繁殖して、繁殖して、ただ生きるだけだ。
僕等の人数はあっという間に人口を埋め尽くすだろう。
個々の働きや居場所に影響を受けず、僕等は一つの存在。百も千も変わらず、同じ存在。正しく組織された素材。
共有される集合意識の中枢に配置された僕はそのことを知っていた。
それは確信などではない。他の設定が存在しない者にとって、確信なんてものは存在しない。実行のみだ。
弱く設定された肉体が損傷しても、機能は次の個に自動的に移管される。故に死の恐怖などは存在しない。
システム・ハーフラビットの巨大なネットワークの中心。
基幹部分でありながら、替えの利く存在。
肉体が次世代に交代してもそのコードネームは変わらない。
「フローライト」
僕はその日も、そう名乗った。
産み出されて50年経つか経たないか、それくらいの時期だった。
ちょうど当時の次世代個体に交代してすぐだった。
「僕はフローライト。こっちは僕の番の」
「マレグリットです」
「僕等は貴方達を否定します」
「私達は貴方を肯定できません」
「貴方との遭遇は非常事態です」
「貴方との邂逅は緊急事態です」
「僕等に戦闘能力はありません」
「私達に執行は困難です」
「ですが」
「されど」
「貴方は敵です」
「貴方の敵です」
自分達の素性を隠せとは設定されていない。
それで殺害されることもあるが、すべて殺しきれないことを知っているので脅威にはならない。
しかし明確にしなければならないわけでもない。
その人物の観測範囲に入り、何者か訊かれたから回答を出力しただけだ。
「そう」
対象が反応した。
瞬時に表情と声を分析する。
「じゃあ君達は知っているんだね、私が最初の八人の一人だって」
微笑。
初めてのパターンだ。
敵意、警戒、嫌悪、憐憫、無関心。これまで向けられてきたそのどれと照合しても異なっている。
対象がまた声を発する。
「私はエフィリス。今日から君達の友達だ」
観測したことのない呼吸を記録した。
それを自分自身の口から発せられたものとして正確に適切に処理するのに、なぜか若干のタイムラグが生じた。