第54話 滅諦の聖女
肉の焼ける臭いがする。
空は果てまで赤く、足元に転がる「人だったもの」は更に赤く、ほうぼうから立ち上る煙が「ここにいてはいけない」と示すようだった。
されど走れど走れど瓦礫が行く手に延々と積み重なるばかりで、あちこちから聞こえる呻き声は、それが誰かもわからないままにたちまち弱って消えていった。
ああ、なんて愚かしいのだろう。
争いなんてない平和な世の中で誰だって生きたかったはずなのに。それを皆が望めばこんなことにはならなかったはずなのに。
平和。誰も苦しまない世界。死の恐怖から、生の痛みから解放された世界。
ここはそんな世界のはずじゃないの?それとも、それを享受できるのは「神」だけで、使い潰されるだけの「人」にはそんなものはどうあがいても与えられないというの?
私は知っているのに。平和の尊さも、欲を持つことの愚かさも知っているのに。
それが世界の真理だと私は理解しているのに。
何も知らず、何も考えず、求め争うだけの人々を変えられないまま!
何も為せないまま、何も救えないまま、無視され続けるの?
「そうだね、ここで生き延びたとしても君は何にもなれない。取るに足らない存在として。いや、存在していたことすら認識されないまま、死ぬまで藻掻き続けるだろうね」
場にそぐわない、あまりにも涼やかな声に顔を上げる。
足音もなく現れたその身体には傷一つなく、ただ佇んで微笑んでいるだけなのに、荘厳な空間が彼を中心にどこまでも広がり、清浄な空気が満ちていく心地がした。
そして何より、燃えるような夕日を背にしてなお強く輝く黄金色の髪がその権威を証明しているように思われた。
「ただし君が人としての生を捨てるというのなら、そしてどんな犠牲を払ってもいいのなら、『それ』を使いなさい」
そして彼は目的を語った。
だから私は迷わずに、「それ」の名を呼んだ。
「マレグリット!」
意識を取り戻した時に視界に入ってきたのは、あの時と同じ金髪。
ああ私はまだ動ける。突然の衝撃で機能が一時停止していたけれど、聖遺物には傷一つついていない。問題なく稼働できる。
天井も窓も壁も滅茶苦茶になっていたけれど、「それ」が壊れていなければ私はまだ頑張れるのだ。
ダルネ君も同じように停止しているけど、私が動けているのなら大した問題はないだろう。
「申し訳ありませんマセリア様。襲撃を受けました」
「ああ、間に合わなくてすまない。どこか損傷はないかな?もう時間も迫っている、今日はもう出て行かなくていい。無理はせずにメンテナンスを念入りに行っておきなさい」
「いいえ、いいえ……。こんなことが起こったまま私が奥に引っ込んでいては人々の不安が募るだけです。どうか人々の前に立たせてください」
「……少しの時間だけだよ。それに私は行かなくてはいけない」
「キエルさんが、キエルさんがいなくなって……!それに……」
「ああ、大切な存在だからね、必ず取り戻すさ。心配はいらない」
木っ端微塵になって扉とは呼べない扉から出て行く彼の腰に下げられた武器が、今日はなぜかいやに目につく。
その時思わず口をついて出た言葉は、自分でも唐突すぎるように感じられて意外だった。
「マセリア様。こんなにも集まっているのに、もし『どれも違ったら』……?」
私の言葉の意図を読み取るように、彼は振り返り滑らかな口調で答えた。
「苦しみを取り去ることが私達の目的だ。何があっても変わったりしないよ、マレグリット」
一方その頃
「あーーもういい加減苦しい!いつまで走らせるのよ!」
「わたしだってもう腕が限界ですよ~!」
「あはは、ミウもキエルも強いね」
今、私達はラウフデル市内を走ってる。
正確には走ってるのは私だけなんだけどね!キエルは飛んでるし!
右腕ではいつも通りバノンを担いでるんだけど、問題なのはもう片方の腕。
「なんで私がソフェルまで運ばないといけないのよ!こいついつまで気絶してんのよ!」
「しょうがないじゃないですか、その子は普通の人なんですから~!わたしだってミラディスくんをがんばって運んでるんですよ~!?この子こそ普通の人じゃないのにいつまで気を失ってるんですか~!重いです~!」
「あなたの飛び方が雑だから酔ってんじゃないの!?軽そうな方譲ったげたんだから文句言わない!ていうかそうじゃなくて、この二人私と全く関係ないんだけど!?あなたの友達か何だか知らないけど適当なところで置いて行って良いわよね!?友達の友達は友達♪みたいなお花畑じゃないんだからね私は!!」
「だめです~!それもふくめて、ミウちゃんに説明しなきゃいけないことが山ほどあるんです~!」
「説明ったって落ち着いて話せるところがどこにも、ってまた追っ手!」
「ミウ、どれ使えばいいかな?」
「催涙弾!」
「これだね、わかったよ」
「えい」
ぽい。
「ギャー!なんだこれ目がー!!!」
「効いてるみたいだよ、ミウ」
「さすがねバノン最高よ」
後ろ向きに担がれているバノンが密輸品を投擲してくれているので司祭達はだいたい撒けた。でも、歌姫が乱闘した末に教会の一部が破壊されたとあっては市民達の混乱は必至である。その上歌姫がこの通り脱走しているので、更なる混乱を避けるため人が少ない道を選んでいるけれど、日中ということもあり、どこもかしこも人で溢れかえって、遠回りに次ぐ遠回りを延々とさせられている状態である。
「あっ、この区域。近くにフロアが指定した宿があるわ。そこで休憩しましょ。私とバノンの部屋は確保できてるとして、あなたたち三人も適当な部屋が空いてれば泊まれば?最悪倉庫しかなくても詰めたらいけるでしょ」
私がそう言うと、キエルの表情が曇った。
「だめです」
「えっ」
「ぜーったいだめです!」
「そんなに倉庫が嫌なの?仕方ないわね、じゃあ私達の部屋のクローゼットを特別に使わせてあげる」
「そうじゃなくて!」
「ねえミウ」
「あっバノン何かしら?」
わめいているキエルの相手をしていて背後への注意が逸れていたけど、バノンがすぐに何かに気付いてくれる。さすが頼りになる!好き!
「あれ何?」
バノンの指した方を振り返れば、誰かがいるのが見える。
いや、バノンの言う通り「誰か」じゃなくて「何か」だ。
深淵のように暗い窪んだ眼窩、爛れた皮膚、まばらな毛髪。
だらりと垂れ下がった舌、あらわになった骨、零れ落ちる内臓。
「なんだ死体じゃない」
それにはある程度見覚えがあるし、綺麗に整備された街であっても、不可解な存在ではない。
立って歩いていなければ、の話だけど!
飴ちゃん袋詰めももっと詰めたらイケるよ