第40話 滅亡とかの問題じゃなかった
日射しがいつにも増して強い日だった。
暑くて暑くて、国境の兵士も少しけだるげな日だった。
俺が王宮からいなくなって、一月経っていたとよく覚えている。暦の正確な数え方もじいさんに教わって初めて知ったようなものだ。
祝われることがなかったから自分の年齢すら本当はよく知らないけど、じいさんに会ってからの一月はよく覚えてる。
最初の二週間ほどは衛兵が俺を探し回っていて、あちこちで姿を見かけてはじいさんにしがみついて顔を隠していた。
でもそれから、ぴたりと追っ手の影は見えなくなった。
「死んだか国外に出たとでも思われたのかもね」
じいさんはそう言った。そして、それから二週間。そろそろこの国を出ようと言われた。
こんな白昼下だからこそ、堂々と出ていけるとじいさんは言った。
こそこそしている方が怪しまれるからと。
この国を出たら、砂漠越えが始まる。
砂漠を越えるのはとても厳しい旅だからと、色々なことを教えられた。
荷物はできるだけ軽く。
日光が肌に当たらないように、風を通すように。
他にも色々。
でも俺は何も怖くなかった。
緊張はしてたけど、じいさんが前から色んなことを語ってくれてたから。
身体が凍えるほどの雪原、たくさんの船が行き交う大きい海、飛竜が悠々と飛び回る山岳。
いつかこの目で見るのが楽しみで楽しみで、昨夜は心臓がばくばくして眠れなかった。
「バノン、目を閉じてるだけでいいから横になりなさい」
じいさんはそう困ったように笑ったっけ。
空を見上げる。ああ、こんなに青かったっけ。
昼間の空をゆっくり見たことなんかなかったな。身分を隠していたこともあるけど、何よりとても眩しくて眩しくて……。
ふと、近くの建物の屋上あたりがきらっと光ったように見えた。
「ねえ、じいさん。あれ何……」
光を指差しながらじいさんの方を振り向く。
「がふ」
じいさんの首に、矢が刺さっていた。
ぱくぱくと顎を動かすじいさんの口から出たのは、俺を呼ぶ声じゃなくて。歯の抜けた笑顔じゃなくて。
大量の血液だった。
静かだった。
暑かった。
風が白い砂を運んできた。
静寂の中、さっきまで傍らにいた人は、一月の間の話し相手は。
とさ、と小さな音を立てて崩れていった。
それが死体であることはわかった。
侍従を目の前で殺されたことがあるから、生きている人と死んでいる人の区別はつく。
でも、呼んでしまうと、決まってしまうような気がした。
とっくに出ている結果が、確定してしまうような気がした。
呼べなかった。
側の建物から兵士達が出てくる。
王宮の衛兵達だったような気がする。すぐに取り囲まれて、身柄を拘束される。
ーー誘拐ーー神のなりすまし。
ーー利権ーー終わりなき豊穣。
ーー死ぬまでーー永遠に死なせはしない。
ーー奪還ーー報酬の上乗せ。
ひそひそだったり、大声だったり、衛兵達の声が頭上で聞こえる。
俺は地面に転がされた。
ーー逃げられないように、四肢を折ってしまおうか。
ーーいっそもいでしまった方がいい、その方が王も喜ばれる。
色々言われても、剣が光るのが見えても、何も思わなかった。死体をただじっと見ていた。
死体が蹴られて、ぐちゃぐちゃに顔や身体を踏まれ、首を切り落とされるさまをただ見ていた。
見ている。
死んでいる。
死んでいる。
ここが彼の死に場所だった。
これが彼の死にざまだった。
ここから出られなかった。
俺を逃がしたから。
俺と話したから。
俺の家族になったから。
俺が悪いから。
じいさん。
じいさん。
俺が死なせた、俺の家族。
俺のたったひとりの家族。
困ったような笑顔を見せてくれた。
にっかりと歯の抜けた笑顔を見せてくれた。
名前を呼んでくれた。
そういう人。
そういう、人だった。
ずたずたになっているあれは、笑わない、話さないあれは、人じゃないのかな。
人じゃないなら、あれは何なのかな。
地面を伝い流れる大量の血液が俺の顔にまで付着する。
ああ、死にたいな。
俺も同じになりたいな。
人である限りこんなに苦しいなら、人じゃない何かになりたいな。
そう、例えば
「神のように?」
うん、確かにそうかもしれないね。
好きなように奪って、好きなように去って、好きなように死ぬ。
神って、俺が持ってないものすべて持ってるんだな。
「私を求めているな」
……誰?
響いてくる声は、俺にしか聞こえてないようだった。
どこから?
「私もお前を求めよう」
俺の中から?……違う。
髪に、頬に付着したじいさんの血液から、声が聞こえる。
「あの戦争を勝ち抜いて×年。身体を消されて数十年。×××だけは聖遺物のふりをすることで難を逃れたが。まああれを死と定義するなら聖遺物と言っても過言ではあるまい。魔導士など仮の器に過ぎん、真の器となり得る者をやっと見つけた。さあ、肉体を捧げよ」
その声とともに、流れていたはずのじいさんの血液が、螺旋を描いて宙を舞った。
土に染み込んでいたもの、矢に付着していたもの、すべて。すべて集まって、固まっていく。
やがてそれは赤く光る宝石になり、俺の眼前に転がってきた。
その瞬間、橙色の光が辺りを包み込んだ。
「何だ!?」
「聖遺物か!?」
衛兵達が口々に叫んでいたけど、俺はそれどころじゃない。
光が渦を巻く。
転がされていたはずの身体が宙に浮き、光と融け合っていく。
口が勝手に動いて、知らない言葉が俺の声を通して形になっていく。
「×××× No.× フェーズ3 本運転 ××開始」
誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
俺も全身が熱くて、悲鳴を上げそうだったけど、俺の口からは変わらず「何か」が奏で続けられている。
「××の×、××の××。×は×、×ありて×あり。×ありて××あり。×においては×、×においては×。そして××においては××の×とならん。我の下に生まれよ、そして滅びよ」
この続きを口にしたら、何か悪いことが起きる気がする。
とてもとても悪いことが起きる気がする。
今言葉を紡いでいる存在は、俺より、国より、ずっとずっとずっと悪い。そんな気がした。
止めなくちゃ。
止まらなくちゃ。
止まらない。
止まらない!
「×こそは××なり!!!!!!」
世界が、白く光った。
××る。
××ている。
世界が××ている。
あまりの××に、目を閉じる。
数秒の後、目を開ける。
目の前には何もなかった。
本当に、何もなかった。
じいさんも、衛兵もどこにもいなかった。
人も、草も、木も、鳥も、虫も、街も、王宮も、市も。
何もなかった。
それらすべてが、焦土と化していた。
いや、焦土と化すなんてものではない。
滅びていく光景ではない。
静寂の中、さっきまで命だったはずのものたちが。生活だったものたちが、文明だったはずのものたちが。質量すら失った、黒く焦げた無が地平線にまで広がっていた。
どこまでいっても無だった。
生命の息吹など、どこにも感じられなかった。
「もう既に滅びているもの」と、俺しかそこにはなかった。
歩いても、何もない。
何もない。何もない。何もない。
ここは夢の中?
だって、こんな何もない世界なんて有り得ない。
それとも死後の世界に来たのかな。俺は死んだのかな。
「お前は生きている」
身体の中から頭に向かって直接誰かが語りかけてくる。
いや、誰かじゃない。確信していた。
これは、赤い宝石の声。
そしてあの赤い宝石はきっと。
「私は神。××と滅亡をもたらすもの。我が器となったことを光栄に思え」
身体中から、血液から、俺の声で。
俺じゃない神の声が聞こえてくる。
その言葉は難しかったけれど、この国を一瞬で焦土にした、それだけは理解した。
いずれ訪れる滅びなんてものではない。この身体から紡がれた言葉が、この国の端から端まで、何が起こったのか誰も理解しないうちに、死ぬことすら理解しないうちに、一瞬ですべてを殺しきった。
そしてその滅亡の権化は俺の中にいる。俺の中で生きている。
あまりのおぞましさに、荷物の中のナイフで喉を切り裂こうとする。
が、腕が上がらない。手に力が入らない。
やがて指が震え、ナイフを取り落とす。
「お前は死ねない。私の望みが果たされるまでは、私は死なない」
そう言われた。
ああ、俺は。俺は死ねないんだ。
「私の望みは、この世界に存在するありとあらゆる神を殺すこと」
また神か。神が神を殺したがってるのか。
どうでもいい。どうでもいいから、俺のこと殺してくれ。
「最後の一柱になるのはこの私。それまで、殺して、殺して、殺し尽くせ」
最後のひとりになるまで死ねないなんて嘘だ。嘘だ、嘘だ。
死なせてほしい。
誰でもいいから死なせてほしい。
そんな俺を嘲笑うかのように「彼」は俺に指示を出す。
「東に向かえ。数多の神が息づく地へ」
それからずっと、旅をしている。
神を見つける度に、俺の力で誘い出し、油断させたところで彼の××××を発動させ、跡形もなく殺し尽くす。
それ以外は許されていない。
彼や××××の名前を言うことも許されていない。
許されていないことをしようとしたら身体は固まり、指一本動かせなくなる。
許されていないことを言おうとしたら言葉は意味の通らない文字列と化し頭の中を覆い尽くす。
何柱も、何十柱も。そうやって神を、殺して、殺して、殺してまわった。世界中、殺してまわった。
殺す度に、彼の声は脳内で大きくなり、彼の力は増していった。
それでも解放されることはなかった。
どれだけ過酷な環境下でも、方向がわからない砂嵐の中でも、崩落寸前の豪雨の山岳でも、命は尽きてくれなかった。
殺した神の数を数えきれなくなってきたある日。昼か夜かもわからない一面真っ白の雪原。
吹雪の中、君に出逢った。
君のことも殺すんだと思った。どうせ殺すんだから、君からどんな扱いを受けてもよかった。
「……でも、ミウ。君は」
「……うん」
「一緒に死のうとか言って」
「そうね」
「頼んでもいないのに、神の中でも生まれたてで、彼よりはるかに弱いはずなのに。俺を守るとか助けるとか言い出して、自力で何柱も神を殺していって」
「そうだったわね」
「挙げ句の果てに『なぜか彼ですら力を十分に発揮できないこの花舞う聖都』で暴れ回って。キエルを助けるついでに、『彼ですら手が出しづらい』マセリアとかいう神すら殺そうとして。もう滅茶苦茶だよ」
本当に滅茶苦茶だよ、ミウ。
きょとんとした顔してる場合じゃないよ。
俺のそばにいたら殺されるって話をしてるんだよ。
いつまで俺の手、握ってるつもりなのかな。
「『彼』は、少なくとも君がマセリアを殺すまでは君のこと生かしとくつもりだ。でもその後は、君は……」
「私は?」
「俺に殺されるよ」
「バノンもそれで死ねる?」
「……たぶん、無理。まだ生きてる神がどこかにいるはず」
「じゃあ駄目ね」
じゃあ駄目ね、じゃないんだよ。
駄目なのは最初からなんだよ。
最初から何もかも間違ってるんだよ。
俺のそばにいるのは間違ってるんだよ。
「私がマセリアぶっ殺して、そいつもぶっ殺した後、一緒に死にましょう、バノン」
「……話、聞いてた?俺の中にいるんだよ。俺の全身に、血液の中に、彼はいるんだよ。彼が生きてる限り俺は死なないし、俺が生きてる限り彼も死なないんだよ」
一度話し始めると、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「この話だってずっと聞いてるんだよ。君のことだってずっと見てるんだよ。君が触れてる俺だって、俺じゃなくて彼かもしれないんだよ。俺が彼じゃない保証なんかどこにもないんだよ。気持ち悪いよこんな身体、これ以上君に触れたくなんかないよ。もうそばになんかいたくないよ、早くどこかに行って。俺のいないところに行って。この街から出られないなら出られないなりに、俺が見つけられないところに行って」
「…………へえ」
何か納得したような君の表情は、とても見覚えがあった。
人の話を曲解している時の顔だ。
「バノンあなた、思ってもないことたくさん言うのね。意外だわ」
「思ってるよ!本当にそう思ってるんだよ、ミウ!」
「うんそうね、可愛いわねバノン。私も大好き」
なんでこの話の流れで抱き締められるの!?
絶対そういう話じゃなかったはずだ。
長々と何を聞いてたって言うんだ!
「バノン。私ね、バノンと結婚できて最高に幸せ」
「ーーっ!?」
頭を撫でられながら、君の声に耳を傾ける。
「ずっと何も言えなかったのよね。言うのも怖かったわよね。でも頑張って言ってくれたわね、大好き」
「ミウ」
「私はあなたの家族だから、あなたのことずっと好き。どこにも行かないし、先に死んだりしないし、嫌いにもならない」
「……そんなの、そんなの無理だよ……!死んじゃうよ……!」
「まあそいつのことは厄介だけど、なんとかなるでしょ。なんにもわからなかったし知らないことが多すぎるけど、なんとかしてバノンの分までぼこぼこにしてぶっ殺すわ。心配ないわ、私についてきて」
「…………」
「信じられない?」
「わからないんだ、もう何も」
「私にもわからないわ。でも大丈夫よ」
「大丈夫じゃないかもしれないよ……?」
「その時はその時よ」
ひとつも根拠がないのに、君が彼に勝てる見込みなんかないのに、俺は君のことどうやっても守れないのに。
君は変わらないんだね。
「ミウ」
「なに?バノン」
「君のこと好き。出逢った時からずっと好きだったんだよ、ミウ」
「やっと言ってくれた」
「……そうだね。ごめんね」
「ううん、大丈夫。……ねえバノン、どんなところで死にたい?どんな風に死にたい?」
「ミウがいるならどこでもいいよ」
「うん、私も。バノンがいたらいいな。それでね、星が見えたらいいな。一緒ならきっと怖くないから。一番遠い星を見つけて、一緒に名前をつけて死にましょう」
「うん。ミウ、大好き」
「私もよ、バノン」
頭の中で声が響いた気がした。
「計画は今も進行している、好きにしろ」
そう言われた気がした。
そんなのはどうでもよかった。
許されてても許されなくても、絶望に絶望が上塗りされるだけだろうと、今触れている女の子の方が大事だった。
でも、ミウ。
こんなこと言うと君に怒られちゃうな。
それに彼にも許されないかもしれない。
それでも、もう決めたんだ。
じいさん、見守っててね。
もう一度手に入れた、俺の家族のこと。
ミウ。
俺が何を失おうと、君のこと誰にも渡さないから。
Q.3章で焼きやすそうな村があったのに焼かなかったのはなぜですか?
A.4章で国を焼くと決めていたからです。