第39話 滅亡への旅路
暗い暗い廟の中の狭い祭壇。身体も、祭壇も金銀の装飾で鎖のように覆われている。
わたくしの役目は、神様に身を捧げること。
何回も、永遠に、命が尽きるまで。
ここにあるものはすべて神様のもの。果実も、水もお酒も、楽団も、舞姫達も、わたくしも、なにもかも。
わたくしがいるから国は平和なのだと、目も合わせずに侍従達は言う。
高貴な身分のわたくしと必要以上に関わりを持ってはいけないと彼等は言っている。
でも本当は違う。以前、侍従の一人の髪に虫がついていたので払ってやろうと手を伸ばしたとき、一瞬。一瞬だけだが、声にならない悲鳴を上げて身を竦めたことを覚えている。
わたくしは他の「人」とは違う。なぜかはわからないが神が持てるほどの力を持っており、なされるがままに神に喰われ続けている。
気味の悪いものであり、普通ではないもの。
どれだけ恩恵があったとしても、わたくし自身はただの人柱。畏怖……いや。
恐怖と厭忌の対象なのだ。
その証拠に、父である国王への目通りも許されたことがない。
わたくしも望んでなどいないし、国王からの命令も家臣や侍従を何人も通してやっとわたくしのもとまで伝わってくる。
祭壇から見えるもの、聞こえるものが世界のすべて。
「姫様、神様がお見えです」
今日も神様がわたくしを貪りにやって来る。
腰より長い髪を引きずるように居住まいを正す。
「ようこそお越しくださいました」
今日も定められた言葉を口から出す。
何時ものように人払いをされる
でも、その日は。その日だけは。
彼だけは違った。
案内されてきたのは、みすぼらしい汚れたぼろきれを纏った、しわしわで背が丸まった白髪混じりの男性。今まで見てきたどの神とも違う装い。彼が老いた人であることは、わたくしにもわかった。
彼はわたくしを見て、気の抜けたような声を出した。
--その痣はどうしたんだい。その傷はどうしたんだい。
訊かれるままに正直に答えた。
肩の包帯は、神様に引き倒されて関節が外れたときからです。わたくしの力の再生が遅かったからです。
頬の傷は、衛兵の剣で斬りつけられたものです。わたくしが虫を追って廟の外に出ようとしたからです。
首の染みは、お姉様達に毒を飲まされたときのものです。わたくしのような低い地位の者が王宮にいることこそが恥だからです。
腕の痣は、侍従に殴られたときのものです。わたくしが身体に触れられるのを嫌がったからです。
わたくしが、卑しくて穢れていて悪いものだからです。
答え終わると、彼は両目を細めて、そうか、そうかと呟いて、声のトーンを落とした。
「お姫様、俺はね。長いこと旅をしていたんだよ。美しい国、貧しい国、不思議な国、たくさんの国を見てきた。その中でもこの王宮は飛び抜けて穏やかで豊かだ。でも、悪い国だ」
「……ごめんなさい」
ご満足いただけなかった。わたくしの力不足だ。
「違う違う、お姫様が悪いんじゃない。お姫様は何も悪くない。何も悪くない子供をこんな目に遭わせる国は、悪い国なんだよ」
「悪い、国?」
わたくしは何も悪くない?
そんなはずはない。
だってこんなに嫌われてるんだから。
悪くないなら嫌われるはずがない。
何も悪くない人は殺されたりしない。
枷をつけられて避けられたり責められたりしない。
神様のお相手をする以外何もできないわたくしが、身の程も弁えず王宮で暮らしているのだから、悪いに決まっている。
そう告げると彼は困ったように笑った。他人のそんな表情は見たことがなかった。
「お姫様は神様の相手しかできないわけじゃないよ。こんな老いぼれの話し相手になってくれてるじゃないか」
「……でもあなたは神様でしょう?」
彼の声のトーンが一段と低くなる。
「実は違うんだ」
「えっ?そんなはず……」
そんなはずはない。神様の持つ大きな力を示さないと通れない神様用の門があったから、彼は王宮に入れたはずなんだ。
そうでなければ、衛兵に止められるまでもなく弾き飛ばされるはずなんだ。
神様以外、わたくしを訪れて来るはずがないんだ。
怪訝な顔をしているわたくしに彼は言った。
「俺はね、魔法が使えるんだ」
彼の右手中指に、赤い宝石が見えた。
指輪かと思って目を凝らしてみたが、そうではない。
彼の肉体を突き破るように、骨や血液であるかのように、皮膚から石がはみ出ている。
彼が呪文のようなものを唱えると、その石は光り出して……
「楽園の焔!!!」
辺り一面、橙色の光が満ち溢れた。
それがあまりに眩しくて、思わず目を瞑る。
誰かの悲鳴が遠くで聞こえた気がしたけれど、わたくしの意識はそこで遠退いた。
目を覚ますと、視界いっぱいに闇が広がっていた。
その中に数えきれないほどの小さい光の点が見えて、手を伸ばす。
一握り、手に入るかと思って手を伸ばしたんだ。
欲しいものなんかないはずなのに、欲しがることなんか許されてないはずなのに、どうしてかそれを掴みたくなった。
「星は人が手にするには遠すぎるからね」
声がした。そちらに顔を向けると、さっきの彼が歯の抜けた口で笑っていた。
辺りを見回すと、廟じゃなかった。一度拐われそうになったからわかる。ここは、王宮の外だ。建物の中ですらない、外だ。人が通る道の上だけど、王族や貴族が通るような道じゃない。
宝石のひとつも持たない、そばにいる老人と同じようなぼろきれを纏った人達が辺りにぽつぽついて、寝転がったり蹲ったりしている。
でも、以前外に出たときよりずっと暗い。
不思議に思って上を見ていると、彼が話しかけてくる。
「夜空を見るのは初めてかい?」
頷くと、彼はまたそうかそうかと言って話を続ける。
「星というのは、この大地と同じような大地や、お日様と同じような炎が遥か遠くにあるということの証なんだよ」
「……遠く」
「ああ。遠く。遠すぎて、あのひとつひとつの点はすべて遥か昔のものなんだ」
「遥か昔の……?」
「今見えるあの光を放つ星たちは、今はもう死んでいるかもしれないんだ」
「……きれい」
「ああそうさ、綺麗だろう。それぞれが長い時間をかけて生きて、それぞれの旅路を辿って、やがては死んでいくんだ」
とても綺麗だった。
でも、ひどい話だと思った。
わたくしは星じゃなくてよかった。
わたくしはどうせ、どこにも行けはしない。
せめてもの情け。
死んでからも光らなきゃいけない存在じゃなくてよかった。
「わたくしはどうしてここにいるんですか」
空を見上げたまま呟くわたくしに彼は答えた。
「逃げるんだ、この国から」
「!?それはいけません!」
そんなことしたら、この国は!神の恵みを得られなくなって、豊かさを失って、滅びてしまう!
わたくしが役目から逃れるわけにはいかない!
「この国は、良い国かい?」
彼が視線を動かす。わたくしもそちらを向く。
路上で蹲る人は、肋骨が見えるくらい痩せている。
寝転がっている人をよく見ると、蝿がたかっている。
「……これが、この国の正体だ」
息を呑むわたくしに、彼が語りかけてくる。
「君が苦しんで守ってきたものは、君を傷付ける王宮の人々だけを豊かにして、ただ消費されていくだけだ」
彼の方を見ると、また歯のない笑顔を向けられ、手を差し伸べられる。
「逃げて滅びるのなら、滅ぼしてしまおうじゃないか」
その意味はよくわからなかった。
滅ぼすのは悪いことじゃないの?
滅びてしまってはいけないんじゃないの?
そんなのは、悪いことだ。
悪いことだ。
ああ、でも私は悪い子で、この国は悪い国なのかな。
滅びてしまって、いいのかもしれない。
何もわからないままに彼の手を取った。
彼と歩いてる途中、衛兵達がわたくしを探し回っている声と足音が聞こえた。何度かすれ違ったけど、ぼろきれを頭から被っているわたくしなど視界にも入っていないようだった。
誰もいない廃屋のような建物に辿り着くと、彼が小声で語りかけてきた。
「俺は……まあ名前なんかとうの昔に忘れたし、じいさんとでも呼んでくれたらいいよ」
「ジーサン」
「まあそれでいいや。お姫様は?なんて名前?」
「ネスターシャ・イルク・ミヒリカ・ロメ・ハリーア・ウーディゼ・グノエ・ドーシュエーデ・マウナネト・シャバーリ・バノン・ケイナリアデ・イズアイメス・ワーティア・ネスティア・モガロシナ・ユナ・ホレイオサ・スルギヒカ……」
「……ミドルネームはあといくつあるんだい」
「90です」
「……ネスターシャ姫様」
「ええ」
「もうこの国を出ていくから、ネスターシャ姫様のままではいられないよ」
「何になるんですか?」
彼は腕を組んでしばらく考え込んだ。
「うーん、今聞いた中で一番お姫様っぽくないのはどの名前だろうな……『バノン』ってどういう意味かな?」
「わかりません」
「わからないなら丁度いい、今から嬢ちゃんは『バノン』で、俺の孫だ」
「わかりました、ジーサン様」
「違う違う、じいさんっていうのは、老いぼれの家族って意味だよ!様なんかつけなくていい、かゆくなるだろ!」
「……じいさん?」
「そう、じいさん。それでいいんだよ、バノン」
「わかりました、じいさん」
「……うーん、やっぱりかゆいなあ」
その後、背中より腰よりずっと長い、重い重い髪を切り落としてもらった。
「そう、そんな風に耳も眉毛も見せた方が元気そうに見えるなあ、可愛いなあ、子供はこうでなくっちゃな」
「可愛い……?でも、わたくしは目立ってはいけないのでは……」
「どうせぼろきれ纏った奴なんか王宮の連中は見てもいないよ。逃げるとき色々外したけど、外しきれなかった腕輪なんかもあるなあ。そういうのは服の奥に隠しときな、他の街で売り払えばいいさ」
「はあ……わかりました」
「あとその喋り方も、俺みたいな感じにした方がいい」
「じいさんみたいな感じ?」
「そうそう」
「……俺、そんな話し方したことないから……よくわからないんだけど……」
「いや、それで合ってる、上手いじゃないかバノン」
すぐに国を出ては怪しまれるからと、数日出国を待つことになった。居所は国中を点々として、足がつかないようにした。
何回もじいさんと一緒に星空を見た。
星には人のようにひとつひとつ名前がついていると聞いた。
新しく見つけられた星には見つけた人の名前がつけられることも教えてもらった。
神様へのお供えでしか見たことのない、木に生る果実を半分ずつに割って食べた。
口中に広がる果汁が甘くて甘くて、じわりと涙が出てきた。
わけもわからないまま一度泣いてしまうと、ぼとぼと涙が落ちて止められなくなった。
俺が泣く度にじいさんは頭をわしゃわしゃ撫でて、いつもの歯のない笑顔を見せてくれた。
市で買い物もした。
黒ずんだり泥にまみれてたりしても、コインでさえあれば食べ物と交換できるのがなんだかおかしかった。
甲虫を目で追っていると、葉の影から出てきたトカゲに食われて驚いて尻餅をついてじいさんに笑われた。
じいさんは虫を一匹指でつかむと俺の掌に乗せてきた。
「俺のものにしていいの?」
「ああ。でも……」
じいさんは優しく笑いながら言葉を濁した。
その夜、その虫は死んでしまった。
「もうだいぶ弱っていたからね、どのみち明日は迎えられなかったさ。バノンのせいじゃない」
じいさんは俺の頭を撫でた。
それでも俺が逃がしてやれば。
逃がしてやれば、どうなったんだろう?
どのみち死ぬんだから、捕まえていても問題はなかったのかもしれない。でもどうしてか、すごく悲しくなった。
「逃げられていれば、最後に好きなところに行けたかもしれないね」
じいさんの言葉を聞いて、またぼろぼろ涙が出てきた。
好きなところ。
もう死ぬしかなくても、好きなところに行きたいのか。
行きたかったのか。
行かせてあげなきゃいけなかったのか。
「俺、わからなくて、そんなのわからなくて……」
涙が全然止まってくれなくて、足下の土が俺の涙を吸いすぎて水溜まりができそうだと思った。
じいさんは優しい声のまま言った。
「死に場所を選べる命ばかりじゃないさ」
「でも、そんなの……そんなの……」
「可哀想だと思うかい?」
「……つらいと思う」
「そうだねバノン。死に場所を、死に方を選べるというのは実はとても幸せなことなんだ。人だってそうさ」
相変わらず澄んだ夜空が広がっている。
「殺したり殺されたり、病気になったり。命の終わりは突然訪れるものなんだ。そして、気付かないうちにその終わりすらも終わってるものなんだ」
涙で滲んだ目ではどの星の名前もわからないくらいぼやけてる。
王宮から逃げ出した夜より、輝く空が一層つらくてひどくて恐ろしいものに思えていた。
あの星たちは、死んでいるのだろうか。
死んでいることに気付いているのだろうか。
その日は結局、寝入るまで涙が止まらなかった。