第37話 乙女達の花園
アレイルスェン教会はラウフデル一巨大な建造物であり、またラウフデル最奥にあるその敷地は広大で、他の市民生活の場との間にはいささかスペースが空いている。
しかもキエルがギリギリ通れないほどの小さい窓から見下ろせる人間は豆粒ほど小さい。
つまり、落ちたら死ぬくらい高いところにキエルの部屋はある。
だから、扉さえ封じてしまえばセキュリティは完璧なのである。
完璧なはずなのだ。
「やあキエル、ちゃんとごはん食べてる?気が乗らなくても栄養は摂っておいた方が良いよ。まあ世界中のジャンルをかき集めたレシピをもとに調理して、更に季節や天気ごとに繊細に味付けや温冷を調整してるうちのお抱えシェフほどではないだろうからそこは残念だけどね」
「フ……フロアくん……!?フロアくん、本物ですか~!?」
だから、新聞記者なんかが教会のVIPである歌姫の部屋に無断で侵入して紅茶やスイーツを楽しんでいるわけがないのだが、今こうして実際いるのだ。キエルの姿を認めると、フロアは耳栓を外す。
「こらこら大声ははしたないよ、レディらしいドレスが台無しだよ。君らしくはないけどね」
「無事だったんですね!どこいたんですか!どうやって来たんですか!ミウちゃんとバノンくんはどこなんですか!」
「一気にしゃべらない、ゆっくりゆっくりひとつずつ、そう、お茶を淹れる所作のようにね。一杯いかがかな?」
「ごくごく……ぷはー!もうこんなところいやです~!息がつまりそうですよ~!フロアくんなんとかしてください~!」
「キエル、君は静かにお茶を飲む練習をした方が良いね」
かつては投げ網で雑に引っ捕らえられた相手だが、なんやかんやと世話を焼かれていたこともあり、フロアの顔を見るとキエルは肩の力が抜けて、ふにゃふにゃとした口調でまくし立てようとする。
一方のフロアは非常識な登場をしたにもかかわらず、まるでここが昼下がりのマナーハウスであるかのように、ここにいることが全く不自然ではないような余裕たっぷりの振る舞いでのらりくらりとかわしていく。
そんなフロアの態度は少し会ったことがあるだけのキエルにとってももはや馴染み深いものになっていた。
だが、もちろん。
「わーちょっと静かに!誰だか知んないけど部外者がいることバレたら僕が怒られちゃう!こっちは村まるまる人質なんだからね!」
フロアとミラディスは初対面だ。
「これはこれはお初にお目にかかります、フロアだよ。よろしくね。宝石みたいに綺麗な瞳のナイトじゃないか、いじめちゃだめだよキエル」
「えっ宝石とか照れる!そりゃ確かに僕は美少年の自覚あるけどかっこよさは兄さんほどじゃ……って、名前だけ名乗られてもわかんないよ!」
「誰が誰をいじめてるっていうんですか!わたしがいじめられてるんです~!」
「いじめてないもん!すぐ嘘つくから女の子は嫌いなんだよ!」
「なんなんですか意地悪ばっかり!ミラディスくんのばか~!」
「うーん、この賑やかさデジャヴだなあ」
話が一向に進まないことを悟って、フロアは単刀直入に切り出す。
「キエル。ミウの言葉、届いたよね?」
「……えっ、えええ、あれってやっぱりただの夢じゃ……!」
「その反応はビンゴだね。そう踏んで、君にお願いがあるんだけど」
「ミウちゃんからですか?」
「僕から。だけど、実質同じことだよ」
「いやちょっと待って二人とも、何堂々と僕の前で裏工作しようとしてるの!?」
「裏工作だなんて人聞きの悪い。ちょっと確かめて欲しいことがあるだけだよ。朝窓を開ける前に空模様を見るようなものさ」
「えーっ、でもずっとこの子がついてくるんですよお!?」
「人を指差しちゃ駄目なんだよ!兄さんが言ってた!」
「構わないさ、君を殺しでもしないと阻止しようがないからね」
「それわたしが殺されちゃうじゃないですか~!フロアくんの意地悪~!」
ミラディスが割り込んでくるが、もはや合いの手くらいにしかなっていない。フロアは「確かめて欲しいこと」をキエルに簡潔に伝える。
「……ってことなんだけど、できる?」
「ええまあ、それくらいなら……でもどうしてですか?」
「試したいことがあってね」
それ以上は何も言わないという意思をフロアは微笑みで表す。
「じゃあもう行くよ。長居してるとこわーい人に捕まっちゃう!」
ティーセットが入ったリュックを背負ったフロアが窓枠に手をかける。
「ちょっと!フロアくん、その窓から来たんですか!?」
「そうかもね」
「落ちたら死んじゃいますよ~!」
「普通に降りるから大丈夫だよ」
「普通にって……」
窓枠を跨ごうとするフロアの耳に、剣を抜く音が聞こえる。
振り返らずにフロアは問い掛ける。
「……ミラディスだったかな。僕のことどうするつもり?」
「そんなバレバレな逃げ方されちゃ、結局見つかって最終的には僕の責任になるじゃん。どうせ怒られるなら処分しといた方が良いのかなって」
「……そう」
「ミラディスくん!やめてください!」
「そんな家族想いの君にひとつ、新鮮な情報をサービスしてあげよう」
「何?」
「東の島のどこかで大きな土砂災害があったみたいだよ」
「え!?どこ!?島のどの部分!?被害は!?」
「そこは続報を待って欲しいな。では今後とも、ハーフラビット新聞社をご贔屓に!」
お辞儀代わりに長い耳をぺたんと曲げてからフロアはふっと姿を消す。
「!?飛び降り……!?」
ミラディスとキエルがすぐに窓の外を見るが、もうフロアの姿はどこにもなかった。
「…………その、大丈夫ですか?」
「兄さん……レト……」
キエルは青ざめているミラディスの顔を心配そうに覗き込むが、心ここにあらずといった様子である。
仕方ないので彼を放置して、キエルは「フロアのお願い」のために部屋を出た。
同じ頃、教会の別の場所。
「アレイルスェン教会騎士団、六つの誓い!」
一、大いなる神に忠誠を示し教会の剣となり盾となれ
二、神の威光を授かりし者としていかなるときも高潔で誠実であれ
三、揺るがぬ正義のもと勇敢に戦い邪悪を退けよ
四、信仰の下に集いし者をすべて家族として庇護せよ
五、神の力の化身として弱き者のためにその身を捧げよ
六、最後の一人になったとしても凜と咲く薔薇のように戦い続けよ
先日騎士の誓いを立てたばかりの少年少女達の声が外から聞こえてくる。
アレイルスェン教会の騎士にとって、激しい戦闘などそう頻繁に起こり得るものではない。ラウフデルの社会は信仰によって支えられ、たまに不信心な者が起こす小競り合いも、身も蓋もない言い方をすれば神だけでも十分に対処できる。
騎士団とは、いわば教会の力を大きく見せるための賑やかしのようなものだ。
だからこそ、騎士道精神を何よりも尊ぶよう教える必要があった。特に脅威もなく高い社会的地位だけ与えられた人々は、一人一人がいくら善良であっても集団になるとやがて腐敗していく。
外敵は恐ろしくない。しかし内部の堕落は組織の崩壊に繋がるのだ。そう考え、市民達の寄せ集めのような騎士団に「騎士の誓約」という形で、二十年以上前に可視化できる方針を持ち込んだのがゼクスレーゼだ。
それ以後はゼクスレーゼが騎士団全体を大胆に、かつ細やかに統率し、清らかで勇ましい、市民の憧れとなる「銀色の騎士」のイメージが定着した。
そのゼクスレーゼだが、意識を失い治療を受けていたところを新人騎士達の唱える宣誓により目を覚ました。
ここは教会内の救護室である。兵舎側に位置しており、窓から訓練中の騎士の隊列が見渡せる。
そちらに向かいゼクスレーゼは身体を起こそうと、腕を曲げるが……。
「……っ」
「いけません騎士団長!まだ治ってないのです、ご安静に!」
「腕が……」
「痛みますか?今ちょうど包帯を取り替えようとしていたところです、軟膏をお塗りしますね」
衛生兵が包帯を解くと、真っ赤に爛れた右腕が露になった。
「なっ……!?」
「おいたわしや団長……。でも腱に傷は入っていないようです、きっとすぐに槍を取ってその美しい背姿を我々にお見せくださることがかないます。だからこそ今はゆっくりお休みください!」
「……世話になった」
「あっ団長!いけませんよ、まだ動かしては……」
「行かねば、私が……!」
ゼクスレーゼは激痛に耐えながら立ち上がり、よろよろと歩き出す。
「もう大丈夫なのですか」
救護室の扉を開けると、すぐ目の前に教祖マレグリットがいた。
突然のことにゼクスレーゼは一瞬目を大きく見開くが、すぐに姿勢を正す。
「申し訳ありません教祖様。教会に仇なす敵を取り逃がしたのはこのゼクスレーゼ、一生の不覚……!」
「……神殺しは発動していたのですね?」
「は!あらゆる神の力を削ぐ我が槍の輝きは、決して鈍ることはありませんでした!……なのに」
「なのに、あなたはそんなに酷い怪我を負って……痛ましいことです」
「勿体ないお言葉にございます!きっと彼等はまた仕掛けてくるでしょう。今度こそ、我が騎士団の総力をもって殲滅してご覧にいれます!」
「ゼクスレーゼ……。あなたの力を私はとても頼りにしています。ですが、私達の目指すところは人々の平和と安寧。その中にはあなたも入っているのですよ。どうか怒りに任せて身を滅ぼすことのないように、気をつけてくださいね」
「マレグリット様……」
「そんなに困った顔をしないでください。私達は同じ神の下に集った家族なのですから。そうでしょう?」
「痛み入ります……!」
「そうそう、そんで俺とマリーも家族!」
「ダルネ君、話に割り込まずにおとなしくしていてください」
「マレグリット様、ストーカーの始末ならこのゼクスレーゼに一任ください」
「ありがとうゼクスレーゼ。後回しで良いですよ」
傍目にはどこから出てきたかわからないほど唐突に登場したダルネのことなど気にも留めない様子で教祖は教会上層に戻っていく。
ゼクスレーゼも兵舎に向かい歩を進める。
「おのれ……おのれ!!」
マレグリットにああは言われたものの、歩くうちに増していく痛みとともに、自分を負傷させた存在と、その屈辱を思い出していく。褐色の肌の奥に見えた、金色の無慈悲な視線を思い出す。
あれは、人。力こそ多かったけど、神ではない。
しかしあの光は、一瞬で腕を焼け爛れさせる高熱は、人が無から産み出せるものではない。
神の力でなければならないのだ。
ならば、なぜ神殺しが効かなかった?
募る疑問は、やがて復讐心に変わっていく。
「あいつら……絶対に殺してみせる……!!」
同じ頃、ミウとバノンの部屋にて。
昨日、バノンが倒れて。
昨夜、バノンじゃない人が語りかけてきて。
その後バノンの口から妙な音がして。
それからずっと何かに怯えたように、私の胸に顔を埋めていた。
ふわふわした短い煉瓦色の毛が首元に当たって、少しくすぐったかった。
バノンは明け方とともにそのまま眠ってしまったけど、数時間経ってまた目を覚ました。
「……ミウ」
恐る恐る。そんな声でバノンに名前を呼ばれたのは初めて。
「起きて大丈夫なの?バノン」
そう話し掛けながら、ベッド脇に足を下ろす彼女の横に寄り添う。
「昨日はごめんね、ミウ」
「私こそごめんなさい。危ない目に遭わせて……」
「ううん。ミウのせいじゃない。それより……それよりも……」
こんなに口ごもるバノンを見るのも初めて。
膝の上で握り締められた彼女の手の上に、私の手を重ねる。
「嫌いになんかならないわ」
「ミウ……」
「ずっと好きでいられるって思ったから結婚したのよ。絶対嫌いになんかならない」
その言葉を聞いて、バノンの瞳の奥が揺れた気がした。
表情はまた笑顔に戻っていて、嬉しいのか悲しいのかはっきりとはわからないけれど、それから彼女は何かを決心したように話し始めた。
「ミウに聞いて欲しいことがあるんだ。俺のこと」
「無理に言わなくても良いのよ」
「ううん、話したいんだ」
そのきっぱりとした口調も、たぶん初めて。
「でも、全部は話せない。許されてないから」
「……そいつ、そこにいるのね」
私は確信していた。バノンじゃない何か。
昨夜語りかけてきた存在。
もし神だとしたら、私より圧倒的に強い。セルシオルくらい格が違う。それでありながら、私がずっとそばにいてもそこにいることを感じさせない。
あるのはただ膨大なバノンの力だけに感じられる。
そしてそいつが、バノンが話せる内容を制限している。
そいつについて、きっとバノンは具体的な言葉を出してはいけないんだ。話そうとすると、昨夜みたいに意味の通らない音の羅列になってしまうんだ。
腹立たしい。
そもそも私のバノンの中に巣食っている者というだけで、怒りに任せてぶち殺したいけど、ここにはバノンの身体しかない。
限られた話の中で、私がバノンの言いたいことをどれだけ聞き取ることができるかにかかっている。
うん、大丈夫。だって私だもの。バノンのことこんなに好きな私だもの。
重ねた手に少しだけ力を込める。
それを感じ取って、決意したように少し大きめの呼吸をしてからバノンは話し出す。