第36話 闇はあやなし
ぬばたまの夢に抱かれながら
星の盗人が漕ぎ出でた海
最後の逢瀬とともに裂けるあまつち
鏡の中のうつつにであえ
He sn scoo di Sgi, di Ir zugr gg lsees!
Kgs wore sn scoo sils, Seee Kgs Hand!
Di leze Relic is scoo egsaie!!
「キエルさま、ばんざい……」
「うたひめさま、ばんざい……」
「わたしのすべてを、ささげます」
「われわれのすべてを、ささげます」
キエルの初お披露目の翌日。
つまりミウとゼクスレーゼの戦闘の翌日。
穏やかな午前の日射しを浴びながら、再びキエルはアレイルスェン教会のバルコニーで歌わされていた。
元々教会に心酔していた者が多かったラウフデルの市民は、キエルの歌を聴きにきてはよりいっそう虚ろな表情になっていく。顔だけではない。言葉も、歩き方もふらふらと意思のない人形のように一様に脱力していく。
キエルが歌を止めると人々は微睡みから覚めたかのようにゆっくりと意識を取り戻し、何事もなかったかのように元の日常に戻っていく。
特に何を指示しているわけでもなく、操っているわけでもないが、そうせよという命令も含め、その光景はキエルの目にも十分すぎるくらい不気味なものだった。
務めを終え、室内に入るとマレグリットが両手を鳩尾の上に重ね、微笑みながら立っていた。
その姿勢は洗練されているが、浮かべている笑顔は年齢不詳の容姿と相俟って、荘厳な教会の最高権力者とは思えないほどに純朴そうで、衣類を替えたら街中の少女と見分けがつかないほどだとキエルは思った。
「お疲れ様です、キエルさん」
「あ……ありがとうございます、マレグリットさん」
「今日は鏡の神はお見えにならなかったようですね」
「……ええ、そうですね……」
「話し合う機会を授からなかったのは残念ですが、その分皆様に神の御言葉をより長くお聴きいただけたことは素晴らしいです。あなたはなくてはならない存在ですよ、キエルさん」
「はあ……」
キエルにとってよく理解できない指示を出している人物こそがこのマレグリット・アレイルスェンである。
いや、指示自体は「朝9時にバルコニーにて聖歌を披露してください」という極めて単純な内容なのだが、その直接的な意図がわかりづらく表情も変わらないため、靄がかかっているかのように何も読み取れない。
「……ところで、キエルさん」
「はい」
「今日の歌の中に、聖歌以外が混ざっていませんでしたか?」
「伝承歌はセルシオールにとって大事なものなんです!聖歌だけ広めて伝承歌を伝えないなんてそんなのありえませんから!」
「……ラウフデルの人々は、神の御言葉、福音。すなわち聖歌を必要としているのです。この平和を保つために、少しでも長く聖歌を聴かせてあげたいのです」
「でも、でもそんなの……」
「おわかりいただけますか?」
「…………そんなの」
「おわかりいただけますね?」
「…………っ」
要は、聖歌に関係ない歌は歌うなと言われているのだ。そんなのは意味がない、そんなのはセルスに対する冒涜だとキエルは内心で反発していた。
しかし、笑顔のまま、口調も声色も変えないままに。
「そうせよ」との圧がかかっているのを感じる。神の子孫である自分にたやすく圧をかけられること自体が構造的におかしいことをキエルは把握していたが、だからこそ、マレグリットと接する毎にえもいわれぬ寒気のようなものを感じるのも事実だった。
「……わかりました」
「ヒュー、何でも言うこと聞かせるなんてマリーってやっぱりすごい!」
「ダルネ君、仕事中は話しかけないでくださいね」
「クールだね、さすが俺のマリー!」
「…………」
キエルが了承を口にすると、どこからともなく、猫背気味の軽薄そうな赤毛の男性が現れ、マレグリットの顔を正面から舐め回すように覗き込む。年齢はマレグリットと同様によく分からないが若く見える。服装も司祭や騎士のそれではなく、ごつごつした金具が服にも靴にも、それどころか舌や耳にまでびっしりと食い込んでいる。
狭い控え室の中で「どこからともなく」なんてなく、扉から入るしかないのだが、扉が開閉した様子はない。ならば、この部屋の中にずっといたのというのか。耳が良いキエルですらわからないほどに気配を消して。
これがきっと、ハーフラビット社の記者を殺した人間だとキエルは半ば確信していた。
だがダルネはマレグリット以外の人間に興味を示さないどころか視界に入っているかどうかすら怪しいくらいキエルに目線を向けないし、マレグリットからキエルにも「あれは気にしなくていいです」と伝えられている。マレグリットも最低限の注意以外をするだけで彼のことは無視しているようだ。キエルとしてもあまり関わりたくない相手なので、このままやり過ごすことにした。
「ではわたしはこれで、マレグリットさん」
「明日も期待していますよ、キエルさん」
息の詰まるような部屋から出て白い扉をそっと閉じる。
「はいはい、もう終わりなんだね」
扉の横で退屈そうに待機していた人物、ミラディスに声を掛けられる。
「……あなた、わたしの護衛なんでしょ?なんで今日はべたべたついてこなかったんですか~?」
「人聞きの悪い。僕だって君にべったりくっつきたい願望なんかこれっぽっちもないよ。教祖に今日は私達が後ろから見守っていますから大丈夫です、って言われただけだよ」
「私達……?」
「あの男、見たでしょ?たぶんまともな筋の人間じゃない。どうせ僕をどうにか懐柔したところであいつに殺されちゃうよーっていう脅しをかけときたかったんでしょ、しょうもな」
ミラディスがいつもつまらなさそうに吐き捨てるので、キエルもなんだか明るく受け答えするのが馬鹿馬鹿しくなってきていた。
キエルに与えられた小部屋の手前にミラディスの部屋も用意されているので、二人はそのままそちらに向かっていきながらお互いぶっきらぼうに会話を続ける。
「わたしそんな単純じゃないんですけど!」
「でも結局暴力には屈するんじゃん。僕こそ君なんかに懐柔される可能性なんか万に一つもないのに、おじーちゃんも過保護なんだよ。あのクソジジイ、兄さんに何かしてないだろうな……してたら後で殺す……」
「後でとかいってるじゃないですか!ミラディスくんこそ屈してますよね?」
「声が大きいよ!耳キーンってなるよ、よしてよ!」
「そういえばミラディスくん、マセリアさんの子孫だからわたしの歌で眠らないんですよね!たっぷり聴かせてあげますよ!」
「うわやめてよ耳元で歌うの!パワハラって言うんだよそういうの!わーわー聞こえなーい!!」
そうして廊下を歩く二人は、片や黄緑の長髪に透き通った羽根を持つ歌姫、片や黒衣に身を包んだ美少年と人目を引く容姿をしている。それらを差し引いても顔を合わせる度にぎゃあぎゃあわめいているので、静かな教会の中でも結構目立つはずである。すらりと背が高めのキエルと、同年代の中でも背が低めのミラディスがそうしているとまるで姉弟喧嘩のようである。
しかしそもそも二人の行動範囲は幹部層しか出入りできない上層部に限られているので、咎める者も特にいない。
「ていうか廊下長くないですか……もうめんどくさいです、特にミラディスくんとしゃべるのが」
「僕も同じこと考えてた、奇遇だね」
そのままミラディスは下へ向かう階段を歩き進める。キエルも何の気なしに後を追う。すると案の定、番をしていた騎士に呼び止められる。
「申し訳ございません、こちらをお通りになることはできません」
「そんなこと言わないでよおねーさん、ちょっと近道ないか探すだけでどこにも逃げたりしないからさ、ねっ、いいでしょ?」
「そういうわけにもいかないのです」
「……ふーん」
するとミラディスが突然、騎士の顎を下から掴む。
「……ミラディスのお願い、聞いて?ね?」
そう囁きながら騎士の目をねっとりと見つめる。ふっと騎士が広げていた手を下ろす。
「お通りください」
「いいの?ありがとー!」
そのままぼんやりと立っている騎士を背後に二人は階段を下りようとするが、突如見えない壁のようなものに跳ね返され一歩も進めなくなる。
「……やっぱり結界張ってるみたい。おとなしく戻るか」
そう呟いたと同時に、先刻の騎士が慌てて駆け降りてきて「本当にだめなんです!」と二人を上階に押し戻す。
一連の流れを呆気にとられながら見ていたキエルははたとミラディスに疑問をぶつける。
「な、なんなんですか今の!色仕掛けってやつですか!?やめてくださいこんな昼間から!」
「あれ?君はできないの?まあ僕もおじーちゃんから教わるまでは知らなかったけど」
「えっマセリアさんもそういうことしてるんですか?うわあ……」
「誤解しないでよ、今のは誘惑。僕ら神の子孫はいくらか、普通の人より力が強いでしょ?神ほど人になんでも言うこと聞かせられるわけじゃないけど、『ほんの一瞬だけ都合の良いように動いてもらう』ことくらいならできるんだよ。まあその一瞬がどれくらいの長さかとか都合の良い行動ってのの内容は個人差があるみたいだけど」
その冷淡で無機質な説明と、先程のわざとらしく甘ったるいミラディスの態度を重ね合わせてキエルはいささかうんざりする。
「……別に抜け道探る気じゃなくて、さっきの人で試しただけなんですね……」
「鎧が所有物の一部だから効きはほんと弱かったけどね。名前も言わなきゃ駄目みたい」
「あの名乗りはぶりっこだと思ってました、というかそれを差し引いてもえげつないぶりっこだと思います」
「君にだけはぶりっことか言われたくないですー!この良い子ぶりっこ!」
「ムキ~!憎たらしいです~!!」
そうこうやり合いながら、二人は部屋の前に着く。キエルが自室に戻るまでミラディスはついていなくてはいけないし、出ていくときはミラディスを連れていかなければならない。
だからミラディスはいつもキエルの部屋の扉を開ける。半分はマセリアに、女の子をエスコートしなさいと教えられたから。もう半分は早く仕事を終えて解放されたいからである。
「はーしんど、早く入りなよ、僕もう疲れ……」
そう言いながら扉を開ける途中でミラディスは言葉を失う。
「えっ、どうしたんですか?さっさと中に……」
その後ろから覗き込むなりキエルも同じように絶句する。
清潔な調度品と可憐な花で彩られたキエルの部屋。その中央。
「遅かったね、キエル。ミウが待ってるよ」
片方ずつ白と黒の兎耳を持つ良く知った人物が一人。
フロアが、三段トレイのアフタヌーンティー(午前だがアフタヌーンティーとしか形容できないくらい、ここだけ優雅な時間が流れている)を楽しんでいた。
無事帰宅しました!
更新頻度は落ちますが、その分面白くできるように頑張ります。
あと、何があっても完結させますのでその点はご心配なく!エタりません、絶対に。
まだ中盤の始まりですが……。