第33話 夢渡り
着るものへのこだわりとか身嗜みとかお洒落とか、そういうものは私にとっては無縁だった。
邪魔になるものは身に着けない。動きにくいものは着ない。前髪は邪魔になったらその辺の刃物で切り落とす。それで十分だった。
実際私は今も、ばさばさのぼうぼうに伸びきった水色の後ろ髪を中途半端に切ったら余計に邪魔という理由だけで、そのへんの紐で高い位置で縛ってそのままにしている。
今着けているブレスレットなんか、キエルに薦められなかったらたぶん一生触ることもなかったかもしれない。
それくらい、関心のないものなのだ。
なのに、こんなにも明らかに。清潔で高価そうな服を着せられているのに、彼女はとても血色が悪く意思も何もないように見える。
周りも何どよめいてるのよ。白いワンピース着せとけばやれ可愛いとかやれ綺麗だとか馬鹿みたい。どう考えてもあんなお転婆凶暴爆買い娘に着せるものじゃないでしょうが。
もうそれだけで十分よ。そこにあなたの話なんか聞いてない連中しかいないことなんか、一目でわかった。
もういいわ。これ以上様子見してもどうせやることないし、向こうだって大事な情報は言わなさそうだし、規格外の敵が三人や四人いたところでだから何よってだんだん思えてきたし、そもそもキエルは相手にとっては厚待遇すべき相手みたいだから雑に行っても悪いようにされないでしょ。
サクッと切り込んで連れ戻すに限るわ。
でも。
「フロア」
「ん?何か言った?」
「バノンのこと頼むわ」
「え?なんて?聞こえないんだってば!」
そういやこいつ耳栓してたわね。でも察してくれるわよね。
「バノン、あいつらに見つかっちゃだめよ。先に帰っといて!」
「……ミウ」
バノンと繋いでいた手を離す。
守りきれないなら離れてもらうしかない。そもそも私は誰かを守るようにはできていない。
その代わり、待っててもらえばいい。私は必ずあなたのもとに戻るんだから。ましてや同じ街の中なんだから、すぐに帰れるに決まってる。
「道を空けて」
私が一言呟くだけで周りの「人」が振り返り、私を「神」だと認識するとすぐに左右に捌けていく。
本当はこういうの、あんまり好きじゃない。特に今のは直接的に私が死ぬための行動じゃないから尚更。
「人」は「神」のためなら基本的に、好意的に行動してくれるし指示にも従ってくれる。
まあその指示を理解してなかったり、従ってはいても融通が利かなかったり、死とは関係ないところであんまりひどい扱いをしたら拒否されたりとかはあるけど、それは別の話。
そういう感じの、人の習性を利用して好きに振る舞うのは褒められた行為じゃないわ。誰かに褒めて欲しいわけじゃないけど、同じような形の存在の意思を無視するのってなんかモヤモヤするのよ。
でもそもそもこの街においては、向こうがそもそも「神」なのに「人」の社会に干渉しすぎてるのが悪い。
海を割るように、まっすぐに教会に向かって空けられたスペースを小走りで進む。
目立ってるだろうけどそんなことはわかってる。
むしろとっとと気付きなさい、私が来たわよ。辛気くさい顔してんじゃないわよ。
「キエル!」
「ミウちゃん!」
あっさりとキエルのいるバルコニーの真下に辿り着いた。
「来なさい」
その場で両手を広げてみた。
「ミウちゃ……」
キエルが羽根をわずかに上下させる、が。
何かに気付いたように、彼女は表情を引きつらせながら動きを止め、伸ばそうとした手を躊躇いがちに下げる。
かなり高くて、バルコニーの奥は暗くてよく見えない。
でも一瞬光が反射したのが見えた。
念のため試してみたけど、やっぱり。
キエルの背後に潜んでいるのがどんな人物かはわからない。すっぽりと影に入ってて見えない。
でも確実にわかる。
刃を背中に当てられている。恐らくは昨日の暗殺者かしら。
一方、キエルの隣にいるマレグリットは眉ひとつ動かさずに「さあ」と促す。
キエルの口からまた歌が紡がれる。
街中で歌ってたときみたいに伸びやかでもなければ、セルシオルに歌わされていた時ほどの決意も感じられない。
状況がよくわからないまま、戸惑いながら、迷いがちに。
ゆっくり、ゆっくりと歌声が降り注ぐ。
「Blb Se bt, schz Se mh bt vGfe, nemz kmma ……」
キエルの歌声で人々をまた眠らせて、何がしたいんだろうこいつらは。
そう思いふと振り返るが、誰も眠っていなかった。
人々は次々に目から光を失い、だらりと腕の力が抜け、ただ虚ろな目で立ち尽くしていた。
「Kmbt Se zschz ……」
キエルの歌はなおも続く。
人々はやがて焦点の合っていない目でこちらに近付いてくる。
いや、私に向かってではない。
教会の入口に向かって人々が波のように押し寄せてくる。
「ちょっと、どいてよ!」
私の声など聞こえてもいないように大挙した人々によって入口は完全に塞がれた。
「……そういうこと!」
キエルの歌は眠らせることが本質じゃない。幻覚を見せて洗脳することができるってセルシオルとの戦いで知ったばかりだ。
それをこいつらは今、キエルにさせている。
もともと心酔していた信者達なんだから、そんなことする必要ないじゃない。なのに、完全に人々はキエルの言いなりになっている。
どうしてそんなことをする必要があるのか、導かれる答えなんか一つしかない。
「拒否することを許さないつもりね……!」
人から意思を奪って。人工知能から知性を奪って。
「好意的」ではなくて「指示した通りの」行動をさせる、そういうことね。
しかもそれを、セルシオルみたいなクッソ迷惑ながらも個人的な用途とは違う、支配に使うつもりなんだわ。
いえ、あるいは。
「私と、戦うため……?」
所有物や遺物は神には効かない。よっぽど力の差がありすぎるか、相手が瀕死かくらいじゃないとまともな効果がない。そのはずだ。
でも、人はそれらに対して無防備だ。大勢の人の行動を思うように操ってしまえば、神の足止めなんか簡単にできる。
いや、そうじゃない。普通に突破できる。人が何人目の前に立ち塞がろうと、私なら無理矢理突破できる。
でも、それをするには。
人々に近付いて押し退けても、ぐりんと体勢を立て直す。
担いで運んで遠退けてみても、ふらふらと扉の前に戻っていく。
夢鏡とかいう鈍器を振り上げて殴りかかる素振りを見せても、何の反応もない。
一つしか解決方法が思い浮かばない。
神の私がそれをしても、きっと罪には問われない。
それくらいしてみせるって、海の上で自分に誓ったことを覚えてる。
でも。
でも、でも。
元々そのつもりだった「神」じゃなくて。
特に落ち度のない、死ぬつもりもない、ただ普通に生きてきただけの「人」に対してそれをするの?
そんなこと今まで当たり前にやってきたことだ。
きっと食器を持つより手慣れていることだ。
今更罪悪感なんかない。
なのに、なのに。
「殺さなきゃ、いけない……」
どうしよう。
こんなところで戸惑っている暇はないのに。
こんなところで立ち止まる私じゃなかったはずなのに。
もうそんなの仕方ないのに。
Dreaming world に来てからも、たくさん神を殺してきたのに。
どうして、どうして人を殺さなきゃいけないってだけで、こんなに手が震えるの?
こんなのおかしい。私、どうしちゃったの?
バノン、バノン。私おかしいの。
私が私じゃなくなってく感じがしてるの。
そばにいてほしい。私が遠ざけたのに、今そばにいてほしい。
怖い。何が怖いのかわからないけど、何かがすごく怖い。助けて、助けてバノン。
「どうしたい?」
バノン。
昨日のバノンの声が頭の中に蘇る。
「ミウは、どうしたい?」
私は、私は。
なんて答えたっけ。
なんて言ったんだっけ。
願いを声に出した後、何が起こったんだっけ。
今、何が起こってるんだっけ。
ふと手を見る。所有物を握りしめている手は、まだ震えていた。青いブレスレットも同じように揺れていた。
「夢鏡……」
祈るように、縋るように。半ば無意識に近いくらい、自然にその名を呼んだ。
その瞬間、鏡面がぼんやりと光り出す。
ああ、そうだ。
夢の中で聞いた声は、きっと本物のキエルのものだ。
本物じゃなきゃ、あんなにやかましくない。
あんなにぶーぶー文句言わない。
服装になんかケチつけない。
「ミウが使いたい時に使う方法があればいいね」
バノンの言葉を頭の中で反芻する。
それはきっと、意識のない相手にできること。
キエルが歌った、今だからできること。
夢の世界に声を届けて、夢鏡!!
「あなたたちいつまで寝てるのよ!!早く起きなさい!!!」
鏡面が激しく光を放つ。地面に沿って円状に広がったその光はやがてドーム状に膨れ上がり、人々を包み込んでいく。
端の一人まですっぽり包み込んだ瞬間、ぱちんと消える。
一瞬の静寂。
それを切り裂いたのは、誰ともわからない声。
「あれ?私何してたんだろ?」
「確か呼ばれて……なんだかよくわからないや……」
「なんか寝てた気がする……怒られた気がする……」
人々がそんなことを口々に言いながら意識を取り戻していく。
そして各々、不思議そうに辺りを見回しては、各々の仕事場や家に戻っていったり、バルコニーを見上げて暢気に「わあ教祖様は今日も綺麗だなあ、歌姫様も綺麗だなあ」とか呟いたりしている。
私もバルコニーを見上げる。
マレグリットは相変わらず特に感情の籠っていない目で微笑んでいた。でも彼女なんかどうでもいい。
キエルと目が合った。ほんのわずかに、マレグリットでさえ気付かないくらい小さく唇が動いた気がした。
何て言ったのかはわからないけど。
まあいい、後で聞くわ。
「はいはーいどいてどいて通して!」
意識が戻った人々は、私が駆け寄ると急いでまた端に寄っていく。
バルコニーの上。
「…………あの神にはご理解いただけませんでしたか、キエルさん」
「ごめんなさい……マレグリットさん……」
「謝る必要はありませんよ。次に、確実に。この街を福音で満たせば良いのですから。そうでしょう?」
「…………」
「そうでしょう?キエルさん」
「…………はい」
次はない。そう言われた気がした。
マレグリットが先に教会の中に入っていく。
横から伝わる有無を言わせない、得体の知れない威圧感から解放されて少しだけキエルは緊張を緩める。しかし。
「僕の存在、忘れてないよね?」
昨日出逢った少年の左手に握られた刃がずっと、背中に押し当てられている。
「ミラディスくん、なんで……」
「おじーちゃんから言われてるんだよ。君の護衛を最後までちゃんと務めたら、帰してくれるって。もう村には近寄らないって」
「……そんなの信じるんですか?」
「どのみち逃げ場なんかないよ、僕らには」
何事もなかったかのようにミラディスが剣を収める。
「さ、早く中に入って。どうせばたばたするでしょ、部屋にでも引っ込んでようよ」
「ばたばた……」
「教会の中に入ってきたの見たでしょ、さっきの神」
「……!」
バルコニーから飛び出そうとするキエルの腕をミラディスががっしり掴む。
「言っとくけど、僕より速く動けるなんて思わないでよね」
動きを邪魔されて、キエルの頭に血が上る。
「……っ、あなた……友達いないでしょ!」
「は?いきなり関係ないこと言わないでくれる!?」
「ミラディスくんにはわたしの気持ちなんかぜんっぜんわかんないですよ~だ!ひとでなし!ろくでなし!」
「なっ……なんでそんな言い方するわけ!?ほんとのことじゃん!」
「ミウちゃんは強いんですよ!あなたなんかぼこぼこですよ!」
「えっ知らないし、そもそもここに辿り着けるわけないじゃん!」
「どういうことなんですか!」
キエルの言葉に、ミラディスが溜息を吐く。
「僕さっき見たもん、あいつが入り口近くに陣取ってるの」
「あいつ?」
私が教会の入口を開けると、そこは礼拝堂だった。側廊に、ずらりと人が奥まで並んでいた。
全員が銀色に輝く鎧を身に纏っている。
そしてその奥。内陣の前、翼廊の真ん中に、その人物はいた。
薔薇の紋章、赤いマント、巨大な槍。
昨日話した人物だが、その時の気さくな様子とはまるで雰囲気が違っていた。
兜越しでも殺気が静かに伝わってく。この場がびりびりとした緊張感に満ちている。ここで私のことを食い止める、いや。
仕留めるつもりだ。
彼女が高らかに宣言する。
「聖都でのこれ以上のご勝手は、神とて見過ごせるものではありません。アレイルスェン教会騎士団がお相手いたします」
夢鏡を固く握り締め、私と対峙する彼女の名を呼ぶ。
「ゼクスレーゼ……!」