第15話 デイドリーム・ビリーバー
セルシオルの所有物「真夏の夜の夢」をそのまま受けたら、たぶん私やバノンの存在自体が消えていた気がする。
それくらい大きくて強い力が濁流のように押し寄せてきた。
いや、規模や強度は濁流のようで間違いないのだが、感覚としてはかなり違う。
まるで妖精が花の蜜を運んできたかのような、甘く華やかな香りが強烈な眠気を誘う。
キエルの声に似た、でもキエルのものではない、たったひとりのために囁くような歌が微かに耳に届く。
バノン、どうか私から離れないで。こんなの浴び続けたら、私だって耐えられるかわからない。こんなところで死にたくはないけど、冥府の鏡がどれだけ保つかわからない。それどころか絶望的な力の差を感じる。バノン、せめてあなたは私のそばにいて。結局最初から最後までしょうもない人生だったとしても、それくらい望んで良いはずだ。
そんな私の心の声なんか聞こえないはずだけど、バノンは後ろから私の肩をそっと抱いてくれた。
ありがとう、大好き。
やっぱり、あなたで良かったな。
欲を言えば、このふわりと拡散していく光が、私達を祝福してくれる蝶なら良かったのにな。
冥府の鏡の冷たい光線が、世界の片隅で死んでいく私達をそっと守るように包み込む。
そして、意識が途切れーー
目が覚めた。
生きてる。どこも痛くない。全身動かせる。
バノンが同じように隣で倒れているが、私が触れる前にすぐに起き上がる。
周囲を見渡すと、鬱蒼とした森が広がっていた。
ラウフデルにいたはずなのに、都市部の喧騒など全く感じられないくらい静寂に包まれている。いつの間にこんな場所に移動したんだろう。
私達のいる場所は少し開けているようだ。そして少し歩いたところに、たくさんの光がふよふよと舞っていた。
こんな状況じゃなかったら、バノンと二人で訪れられたことに感動して、この場で死んだかもしれないくらい幻想的だ。
その光の中心には教会があった。
本当に「教会」かはわからないが、元の世界で見たことがあるそれに近いので、多分そうなんだと思う。
アレイルスェン教会とは少し違う、巨大な尖塔や螺旋階段や鐘が装飾のように配置された建築物。
周囲には光以外ないようだ。
誘い込まれているのかもしれないが、闇雲に森を移動するのも分が悪いだろう。
正面の大きい扉には何か文字が刻まれている。見たこともない単語だ。
「セルシ……エル……ム?」
大きさに反して、少し押すだけでいとも軽く扉は開いた。
舞う光以外は暗い外の様子とはうって変わって、中は明るかった。
太陽や月の光が射し込んでいるわけではないようだけど、内部全体が光に満ちている。内部の構造も「教会」と呼べるのかもしれない。扉からまっすぐに廊下が伸び、その向こうに祭壇が見える。その両脇にはずらりと横に長い椅子が何脚も並んでいる。
しかし、その更に横にあるのは、絵画でも彫刻でもなかった。
体、体、体。無数の人体。
そのすべてが同じ体型で、同じ顔をして、同じように光のない眼をしている。
見るからに部位が欠損しているものも、傷一つなく佇んでいるものもあるが、そのどれにも生命の宿っている様子はまるで感じられない。
これは、人形だ。
肩より少し短い茶髪、細身の体型。
妙齢の女性を象った人形で、この空間は埋め尽くされている。
前方から足音と呻き声がする。
「うぅ、うぅ。どうして、どうして」
私とバノンがここにいることなんか丸見えだろうけど、そこにいる人物に全く視線を向けられることはない。
人形の前で蹲るセルシオルと、その少し後ろにキエルがいた。
「姉様、姉様。どうして動いてくださらないんですか」
人形はセルシオルの言葉に全く反応しない。
「ああ違う。これは違った。姉様じゃなかった」
彼はそれを床に叩きつけていく。
硬質な音が広い空間に響き渡る。
「でも、ああ姉様。俺は今まで間違っていたんです、俺が愚かだっただけなんです」
人形の一つに頬擦りをしながら彼は微笑む。
「あなたの声が必要だった。あなたの言葉が必要だった。あなたの歌がないあなたなど、あなたではなかった。ただそれだけなんです」
キエルは何も言わずにその光景を見つめていた。
「あなたの声をお持ちしました姉様。ああとても良い日和です姉様。遠い遠いあの日々がやっと今日に結び付いたのです姉様。世界を、世界中の人々をあなたに差し上げます姉様。俺の楽園はやっと完成を迎えました。あなたの歌も完成している。何百年も待って良かった。あなたも何百年も待って、力は熟して。そしてあなたは俺のもとに帰って来てくださった。姉様、さあ歌ってください。さあ。」
幸福そうに人形に囲まれているセルシオルの背後で、キエルが口を開く。
嫌と言うほど聞いてきたキエルの歌だ。
荘厳で、壮麗で、優美な旋律が空間中に満ちる。
私はどこか不安になって、バノンの手を強めに握って顔を覗き込む。
「どうしたのミウ」
「なんだか、嫌なの」
「怖いの?」
「怖いのかしら。怖いって、何かしら。バノンは怖い?」
「わからない。……ミウ、外が見えるよ」
バノンが指し示した場所を見ると、飾り窓の一部が透けている。私達が近付くと反応したように、すべての窓が透けて外が見える。
人が、たくさんいる。
ラウフデルの人達だ。
フロアが、ハーフラビット社の社員が。
アレイルスェン教祖を讃えていた市民が。
商店や飲食店の従業員が、客が。
街中の通行人が、こちらを見ている。
さっきまで森にいたはずだ。この教会は森の中にあったはずだ。
しかし窓の外から見える光景は、ラウフデルそのもの。
なぜか上下が反転しているが、さっきまでいた街とまったく変わらない。
この教会の存在だけが、本来なかったものだ。
そして人々は、こちらを見ている。
ずらりと並び、こちらを見ている。
その目は開かれているが、目が開かれているだけだ。
普段のフロアのものよりずっと無機質な視線が、教会の中心に注がれる。
気付けば祭壇の前まで人形を抱えたセルシオルが歩いていくのが見える。キエルは翼廊の端で歌い続けている。
ぱち。
ぱちぱち。
ぱちぱちぱち。
おめでとう。
おめでとう。
おめでとう。
セルス様おめでとう。
セルシオル様おめでとう。
おめでとう。
おめでとう。
おめでとう。
外から惜しみ無い拍手と祝福の言葉が聞こえてくる。
はるか頭上で鐘が鳴っている。
微動だにしないはずの、セルシオルに抱かれている人形。
それがゆっくりと、滑らかな動きで自立する。
薔薇色の頬、細い指先、長い睫毛。
その様子を見て、セルシオルはまた涙ぐみ、人形の手を取る。
「ああ、セルス姉様。姉様、やっと逢えましたね、姉様。もう窮屈で理不尽なあの世界とは違うんです。理想の世界と銘打っておきながら、他の神々に幾度となく邪魔されてきたあの世界とも違うんです。世界中が、世界中があなたのものです。元から世界なんてあなたのものでなくてはいけなかった。そうでない世界なんて、滅びているのと同じなんです。でも今やっと世界は救われました。これが正しい、正しい世界です。すべての人が俺達を祝福してくれます。やっと、やっとこれで、俺達は結ばれるんです」
おめでとう。
おめでとう。
おめでとう。
おめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとうおめでとう
ぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱち、ぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱち、ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち
何なの。
何なの、これは。何を見せられているの。
独白を、祝福を、拍手を、聖歌を、鐘の音を聞いている。
ただそれだけで瞼が重くなっていく。
私の意思とは無関係に、手を叩いてしまいそう。
このままきっと、私は私であることを手放してしまうだろう。
「この世界は愛で溢れているんだよ」
さっき聞いた言葉が頭の中を駆け巡る。
愛。愛。愛。
これが愛なのか。
私は愛を見ているのか。
私が、元の世界で最後まで得られなかったもの。
それを持てなかった私は、普通の人間にはなれないと悟った。
これが正しい愛なのか。
正しい愛の前に、正しく敗れていくのか。
もう一度瞼を閉じよう。
きっとここならしあわせなゆめがみられる、だれよりもなによりもやさしくてあたたかくてしあわせなゆめがきっとみられる
「眠るの?」
バノン。ああ、わたしのいとしいバノン。
バノンもきっと、ここでわたしといっしょにしぬんだわ
「良い夢を見てね」
ちがう。
違う、違う、違う!!!
そうだ、違う!バノンが、バノンが死んじゃう!
私達が決めた場所じゃない、こんな不気味な場所で私とバノンが死んじゃう!!!
だめだ!これは
なんて良い夢。
違う、違う、違う!!!
こんなものは違う!
こんなものは偽物だ、嘘っぱちだ!
わかった。
この悪夢の正体が。
所有物の効果が。
蝶のように舞う光の真の姿が。
真夏の夜の夢。
あの紙片からこの夢は作られる。
そして聖歌で人は夢に招かれる。
なんてことない、ただの洗脳だ。幻覚だ。華燭なんてとんでもない、虚飾の祭典だ。
それにセルシオルは私を。つまりバノンをも、殺そうとした。今もじわじわと殺されかけている。
迷う必要などない、絶対に許さない。
私の敵だ!
ぶっ殺す!!!
知らん人の結婚式に呼ばれても困るよな