第13話 合歓の木に寄せて
「ma Lb, ma Bd, kas d ma Sm, kas d ma Se? 」
案の定キエルが気持ち良さそうに舞い踊るそばから人がばたばた倒れていく。
何回眠ったら気が済むのよこの街は。
でも今回は高度はそんなにない。
商店が密集した場所を、スキップをしながら、時折気になった雑貨や服を手に取って眺めながら進んでいるようだ。
スキップといっても身長の数倍は跳び上がっているけど。
色とりどりの服を選ぶ若い女性達。
珍しい飲み物の屋台に並ぶ子供達。
そういう人達に混ざって楽しそうにしている。まあみんな眠っちゃうけど。
本当に悪意も逃げる意思もないような、屈託のない清々しい笑顔がちらちら見える。
私がこんなに必死に走ってるの、ばかみたい。距離的には近いけど、動きが自由すぎてきっと手を伸ばしてもすり抜けてしまうだろう。
でも手を伸ばして、掴んでやめさせて、それから話の続きを……。
ん?
私、今。
両手、塞がってない?
右肩に愛しいバノンの重みを感じる。
そして、左脇には小柄でほとんど重みなんかない兎耳の……。
「いや重い!!というかバノン以外のものは全部重いわ!!!」
思わずフロアの首根っこを掴んでぶん投げてしまった。
キエルに向かって。
「hr b ……えええっ!?」
自分に向かってまっすぐ飛んできた人のことを流石にキエルも無視できなかったようで、歯を食い縛りながらその両腕でなんとかホールドして着地した。
もちろん急なことでバランスなんか取れず、何回か石畳の上を転がったけど。
「いえ何するんですか~!?」
「ほんと何すんの!?」
歌が止むなりフロアも覚醒が上がったようだ。
でも何よ、キエルがしたがってた、フロアが聞きたがってた話の続きを聞いてあげようっていうのにどうしてそんな驚愕と非難が混じった目で見られているのかしら。
「せっかく歌ってたのに~!」
「僕に怪我させたらほんと大事なんだからね!?損害賠償えげつないからね!?僕ちゃんと訴えるよ、そういうの!お金持ってないでしょ!?」
「だって」
「だってじゃないですよ~!」
「うん、こればっかりはミウが悪い」
キエルとフロアに責められている。心外だわ。私は全く悪いことなんかしていないのに。
「……バノン」
「ミウは悪くないよ」
「すぐ甘やかされようとするのやめなよ!バノンもすぐ甘やかさないの!」
バノンにゆっくり撫でられると、走るとばさばさ鬱陶しいこの長い髪も悪くないって思う。
フロアはぎゃあぎゃあやかましいな。
一方キエルは。
「せっかくこ~んなにいっぱいわたしの声を聞いてくれる人がいるのに!」
「私だって寝ずに聴いてるじゃない」
「でもミウちゃん、やめなさいとか止まりなさいとかばっかり言うんですから~!」
「飛び回るからじゃない!」
「フロアくんだってびっくりしてます!」
「寝てた人にびっくりされても知らないわよ」
反省の色が見えない。話がずっと平行線だ。両手で握りこぶしを胸の前で作って、若草色の髪を振り乱して騒いでいる。
このまま話なんか聞いたって、きっとキエルの気分が乗る度にこんなやり取りをしなきゃいけない。うんざりする。
「ミウあれ何?」
「バノン待って、今こいつのこと……」
バノンが話し掛けてきたが、今はそれどころじゃ……
いや。
いやいやいや。
私は何を言っているんだ。
目の前の人物が何だろうが、何をしていようがバノンより優先するものなんかこの世にはない!
振り向くと、複数の果実の絞り汁や刻んだハーブを混ぜた飲み物を売っている屋台があった。
「噂に聞くミックスジュースってやつかしら。色々な種類があるわね。全部液体ね」
「ミウは何でも知ってるね」
「わたしあの右から二番目の、はっぱが浮いてるやつが良いです!」
「あなたあんなに素麺食べといてまだ何か飲みたいの!?」
私とバノンの愛の語らいにキエルが割って入る。なんて厚かましいのかしら。
「はぁー、しょうがないなあ。奢ってあげるからおとなしくしててね、本当におとなしくしててね。こんなの出血大サービス過ぎて社員が見たらひっくり返るよ」
フロアが上着の内ポケットから黒いカードを出して店員に見せる。
「ほら選んで、ミウとバノンも」
「こんなので恩を売る気?白っぽくて赤いぶつぶつしたのが浮いてるの一つ」
「ありがとう、俺はその横の、紫の何かが底の方に沈んでるのもらうね」
注文を聞くなり店員はすぐにコップに入れて手渡してくれる。
「甘い。とっても甘いわ。こんな甘酸っぱくて冷たい液体、たぶん飲んだことない」
「俺のも酸っぱいよ、ちょっと飲んでみる?」
「ありがとうバノン好きよ」
「このはっぱにがいです~!スースーします~!」
「それ飾り用のハーブじゃないの?」
「食べられるはっぱは飾るものじゃなくて食べるものです~!」
「うん、それ飲んだら帰ろうね……」
フロアは少し疲れているように見える。着地の時あんなに転がったんだから仕方ない。
「飲み物って飲んだらなくなっちゃいますよね……」
「何よいきなり。もう最後の一口じゃない。それくらいガッと飲みなさいよ」
「……ねえ、ミウちゃん、バノンちゃん」
「ん?」
「くん呼びで良いよ俺のことは」
「あそこに並んでる服、ちょっと見てみませんか?」
「は?」
飲み終わるなり、キエルは私とバノンの手を引っ張って向かいの店まで走っていく。
店内に足を踏み入れるなり、色が濁流のように目に入ってくる。春の盛りを彩るように鮮やかな色の服が並んでいる。
「わー、わたしより大きい鏡初めて見ました!海みたいですね!」
「鏡見るの?服じゃないの?」
「いろんな布があるねミウ」
「これがこの地域の服なのよたぶん」
「君達……飲み終わったら帰るって言ったよね?小鳥じゃないんだからもう少し慎みを持とうか」
溜息を吐きながらフロアも入店してくる。
「フロアくん!これとこれ、どっちの色が似合いますか!?」
「どっちも悪くないけど素材がだめ。君はこういうのよりもう少し薄手の柔らかい……って、僕に選ばせるのやめてくれる?僕は優雅で知的な貴婦人としかデートしないんだよ、お高いんだよ!」
「どうやって着るのかわからないわ」
「どうやって着てもミウは素敵だと思うよ」
「いや試着!試着室あっちだからここで着替えないでね!あと、それは腰に巻くんじゃなくて下から頭を入れるんだよ、まったくとんだプリンセス達だ!」
私とバノンは特に何もいらない。これから死ぬのに荷物が増えてもしょうがない。
でもキエルはあれやこれやと試してはフロアに持たせている。
「僕の方が小さいんだけど、君ほんとにエスコートの意味わかってる?無理矢理させても意味ないんだからね?」
「ねえねえ、これミウちゃんとバノンくんも買いましょうよ~!」
「いらないわ」
「いらないっていう前に見てくださいよ~!」
「荷物になるものはいらないのよ」
「荷物にならないです!」
「ほんとだね、荷物にならなさそうだよ」
「バノンまで!……なにこれ。本当に軽いじゃない。キエル、結構良い物見つけるのね」
「まさかとは思うけど僕に買わせる気?初対面の僕に?正気なの?ちょっと僕、あらゆる嗜みは教養として身に着けてきたけど狂人相手のマナーとかニッチすぎて学んでなくて……」
「フロアくんのも選んであげます~!」
「これ女の子用だからね!謹んでご遠慮……」
「この白いの!」
「いや聞いてくれる?」
ごちゃごちゃ言いながら結局フロアが全部支払ったらしい。
まあ、神に追従するわけでもない相手からここまで貰ったら網の件はチャラにしてあげてもいいかしら。
「もうこれで終わり!今日はこれで終わり!もうどのお店にも行かないからね!歌うのも今日は終わり!よそに迷惑かけちゃだめだよ、今夜うちに泊まって良いからね!むしろ泊まりなさい、それが良いよ!」
それにしても段々口うるささが増している気がする。でも芝居がかった腹立つ動きはなくなってきたから、私はこっちの方が良いと思う。
キエルの選んだブレスレットをよく見てみる。
小さい石が連なっている華奢なそれは、春の夕日に似た青い色をしている。手元を見る度に視界に入る。悪くない。
バノンのものは同じデザインで、マナウ海域で見た夕日に似たオレンジ色だ。私と繋いでいる手の反対側の、左手に着けている。
自分の髪より少し薄い色のブレスレットを着けたキエルが満足そうにハーフラビット社に向かって歩みを進める。
「今日はとっても楽しかったです!」
「……そう」
「明日もいっぱい、いろんなところで歌わなくては!」
「…………」
「……ミウちゃんは聞きたくないんですね。ざんねんです」
「キエル。あの歌、どういう意味?何を歌ってるの?」
「聖歌は聖歌ですよ、セルシオールの力です!」
「歌詞の意味は、おばあさんから聞いてないの?」
「そのまま正確に歌わないと意味がないって聞きました!」
「……私は、あの歌に興味ない」
「ミウちゃん」
「あなたの言葉じゃないなら、聞いたって意味がない」
「…………」
急にキエルが歩みを止める。
「わたしのことを待っているわけじゃないから」
夕日が眩しくて、逆光でキエルの顔がよく見えない。でもその声は、今日聞いた彼女のどの声よりも低く、誰にも聞かせる気なんかないくらいに小さかった。
「待っているって、誰が」
背後から足音と荒い息遣いが聞こえる。
急に近づいてきたそれは、フロアのものとは違う。
漁師、傭兵、騎士団および騎士団長、市民、司祭達と教祖、ハーフラビット新聞社の社員。
今日会った誰とも違うことが、私には明確にわかる。振り向かなくてもわかる。
だから振り向く時、バノンを遠ざけなきゃ。庇うように前に出る。
だが、その相手はーー神は。
私のことも、バノンのことも見てなかった。
「あ、あ……」
緑がかった灰色の長い前髪で片目が隠れている男性が涙ぐんで、崩れ落ちるようにキエルに駆け寄る。
「やっと……やっと。お待ちしておりました」
太陽が遠くの建物に隠れて、キエルの顔がやっと見えた。
私に似た、何の感情も浮かんでいない瞳。
その表情のまま、突然現れた彼に背後から強く抱き締められている。
私にはキエルが喜んでいるのかどうか、まるでわからない。
「おかえりなさい姉様。俺の、俺だけのセルス姉様」