第118話 俺以外全員意識不明か欠席の会議
最も華やかな花畑とは雪原のことを言うのだろう。
一つとして同じもののない結晶が確かな質量を帯びるごとに、大地は白に染まっていく。それでも今この世界を覆い始めた白の中に花など一輪も咲いていない。共通している点があるとすれば、それを構成する要素――本当の姿は目に映ることのない小さいものだということだろう。
有機物も無機物も、オブジェクトも背景も静止したまま0と1に還っていく。既存の世界に創世前から限りなく寄せられ、それでも小さなずれを繰り返し、今ではどこか玩具めいたファンタジーの空間の終焉には破壊など必要ない。消去されるだけだ。
「こんなものに意味なんかなかったんだよ」
「意味があるものとして作ったんじゃないもんな、セルスは」
「ただ楽しかったとか、構ってもらえて嬉しかったとか、気持ちの逃げ道にしたいとか。そんなもんだったんだよな、この世界って」
地上に出てすぐ、白い地面が最初は雪に見えたから、靴裏にさくさくとした感触を予想していた。それが何も感じられないことへの驚きと、消失への実感を同時に覚えた。
俺はエメルド・アイフレンド。どこにでもいる普通の村人、そういう設定で生きてきた。生きてきた、というのも正確じゃない。ひとつの生命体として独立していなくても生きていると言えるのは植物とか菌とかであって人間じゃない。それでもどうにかこうにかやってきたんだから、言葉の綾でくらい「生きている」ことにして良いと思う。
「でもどうせ捨てるつもりだったんだろ」
俺の口からぽつりぽつりと出る言葉はミナギのもの。俺が進む一歩一歩の方向と距離はミナギが決めている。
背後からはマセリアが無言でついて来る。彼もミナギの発言が自分に向けられたものではないことを知っているんだろう、返答は一切ない。
地面という箱を除けば、上の方から白は侵食し始めている。空だの建物だのといった障害物のない世界では、いとも簡単に彼等を見つけることができた。
二人の少女が寄り添うように倒れている。一人は空色のポニーテールにぶかぶかのコート、一人は褐色の肌にオレンジ色の民族衣装。
俺にとっては赤の他人だ。特に後者は知識の中にない姿で、それなのにミナギが「イグナーツ」と呼んでいることが不自然に思えた。それって背が高くて目付きが悪いおっさんの名前じゃん。
何はともあれ、弟――弟ではないけど、便宜上の弟と同い年くらいの女の子が大怪我をしているのを見て良い気分はしない。心配だし、可哀想だし、できることなら助けたいとも思う。
だけど今感じている胸を刺すような痛みは俺のものじゃない。むしろ痛みが強くなればなるほど、俺の心は芯から冷えて透明になっていく。
最初、彼女達が視界に入った時に反射的に上げられた踵がその場から動かないまますっと下ろされる。なんだ、駆け寄らないのか。世界はもう消えるのに。生まれてから今までの、永遠にすら感じられた虚無がもうすぐ終わりを迎える。
必死に守ろうとしたものがなくなる絶望感よりも、これ以上害されることのない安堵感の方が強いのは、結局俺が兄という存在になりきれなかった証左なんだろう。
どうでもいい、とまでは言い切れない。でもこれでいい。疲れた。溜息を吐こうと軽く開いた唇から言葉が漏れ出る。
「まだ会えない」
まだ。確かにそう言った。たった二文字が俺を凍り付かせる。
「大聖遺物 だっけか。はは、セルスのワードセンスって面白いよな」
待て。
「雷鎚ねえ。試運転だけでも結構色々便利だったけど、流石に舐めプして失敗したらすげえダサいな」
何をする気だ。
「はー、リアナ師匠どこにいんだろ。折角みんな集まってんのにほんと付き合い悪い」
みんな。みんなって誰だ。
人が多すぎてわからない。ここにいる人全員か。
それとも。
「さて」
仰々しく両手が広げられる。浴びられる光など存在しないのに。
「邪魔者がやっと壊れてくれたっぽいし、始められるな」
気付けば周りは真っ白になった。
その場には数えられるほどの人数しかいなかった。止まったり倒れたりしている者四人と、馬鹿でかい槍、マセリア、そして俺。それらが等間隔で円を作るように並べられている。いや、不自然に距離が空いている部分がある。でもその分の距離を詰めようとはなぜか思わなかった。
他の者が消えたというよりは、俺達だけ切り取られて別の箱に入れられたように感じる。
改めて辺りを見渡そうとすると、さっきまで目に映っていたものの姿が一度大きく歪んだ。そしてそれらの人々や物はすべて、椅子に座った別人の姿に見えたが、瞬きの間に元の見え方に戻った。
「そんなわけで、10回目の定例会なんだけど。議決権持ってて喋りたい奴いる?」
ミナギは何を言っているんだ。まともに意識があるのは俺とマセリアだけじゃないか。意識うんぬん以前になんで槍が会議に出席してるんだ。
「いないってことで。じゃあ俺が前から言ってることなんだけど、反対意見ある奴」
「それだけは!」
「マセリア。お前に議決権はあるか?」
「いいえ、ですがハルカの代弁はできます」
「認めない。お前が捏造していない証拠がどこにある? あとお前が呼び捨てにして良いわけないだろ。てめえが監禁しといてお友達にでもなったつもりか?」
「き、貴様!」
俺に斬りかかろうと構えたマセリアは、何か見えない強い力で抑え込まれたかのようにその場に倒れ込む。
「く……」
「議場に暴力は厳禁だっつの。この空間ではそういうルールなわけ。それができたらこっちだって苦労してねえんだわ」
「貴様最初から仕組んでいたな……!自分以外が物理的に声を上げられない状態になるまで何回騙した!何人殺した!『正式な議会で手続き通りに決定された事項は絶対』という形式だけを目的に!」
「発言権もねえんだけど?ただの運び屋がうっさいな」
嘲るように吐き捨てた後、俺の声は緊張感なく、しかし高らかに宣言する。
「じゃあみんな反対じゃないから賛成ってことで決定。侵攻プログラム起動」
「やめろ……!」
俺達それぞれの足元から青白い光の線が浮かび上がり、複雑な軌道を作りながら円の中心に向かって伸びていく。その線はある数式によって導き出されているようで、最初はばらばらだったのにみるみる間に図形が描かれる。立体に見えるけど、自然界に存在し得ないと直感させられるような変な形だ。
そんなことよりすごく身体が苦しい。線が伸びれば伸びるほど、強い倦怠感に襲われる。全身の皮膚が捲れるような痛み、内臓が一つ一つ取り出されるかのような不快感もある。俺はともかく怪我してる人達は命に関わるのでは?と一瞬思ったけど、前言撤回。俺も死ぬほどつらい。
ていうか俺がつらいのはミナギがつらいっていうのと同じなんだけど、なぜかこの表情筋はめちゃくちゃ笑顔で我ながら気持ち悪い。心臓が締め付けられるほど痛いのと、かつてないほど高鳴っているのが症状なのか感情なのかまるでわからない。
その時、中心にある図形が急に沈んだ。いや、跳ねたんだろうか。一度下に移動し、すごい勢いで縮んでいく。わあ小さくなった、そう思えたのもまた一瞬。こんなのばっかりで嫌になる。
豆粒より小さくなったはずのその図形に向かって俺達は引きずり込まれていく。その数秒の中で俺は思う。これ、立体じゃなくて穴だったかもしれない。