第117話 世界を白紙に戻す愛
♩=60 Larghetto
「真実の愛を降らせ」
「悠久の詩を継いで」
accel.
♩=130 Allegro
「Hr b hi Cels (ds Stm E Celsiaul) , Dy de Aitm d Wrt hreet (Dy de Wd vm Fid zh sytte)!! 」
「正当なる権限によって他のコマンドを破棄します」
「セキュリティエラー アクセスをブロックします」
「すべてのログを選択し指定した文字列を検索します」
「二重三重の認証を突破することは不可能です」
「複雑な操作など必要ない。『私はセルス・アルトシュロス』」
「違います!だって、だって……」
「セルスでない証明ができないのでしょう?ならば『私はセルス・アルトシュロス』」
「く……!」
キエル・セルスウォッチは歌う。打撃を受けてぼろぼろの四肢は動かす度に激痛が走る。天から吊り上げられるように背筋を伸ばすが、それを支える筋肉も度重なる戦闘で疲弊している。そう長くは保たないどころか、むしろ今も動けているのは彼女の強靭な精神力の賜でしかない。
創成神の末裔、最高格大聖遺物の継承者、世界の真なる指導者。そういった教育を受けてきた彼女の旅程には困難ばかりが立ちはだかってきた。傍らにはもう手を取り合える友などいない。それぞれが元々満身創痍だったところに歌による精神攻撃を受け、全員倒れている。
会いたかった。縋りたかった。彼女の人生は、自身の先祖かつ世界の始祖たる主神への信仰に基づいていた。その神の器が壊され、自身も器として機能せず、それどころか状況や他の神の発言から知ってしまった。
「セルスさま」は死んだ。どんなに大きい願いを重ねても、どんなに強い命令を繰り返しても、ないものは出てこない。復活することは有り得ない。
「セルスさま」を模して造られた肉体の器、「セルスさま」の復元された能力、「セルスさま」と同等に強大な自我。それらは「セルスさま」と同一である証明として十分でありながら、すべてが「セルスさま」ではないと物語る。そんなもの本人には必要ないから。
本人であると世界が認める。本人でないことを自分は知っている。それでも中の人物について絶望的に知らない。だからキエル・セルスウォッチは彼女にこう呼びかけるしかない。
「『セルス』。出て行ってください」
「あなたにそれを命じることはできません」
「ここは『セルスさま』のための世界です。あなたじゃない」
「プログラムが自発的に判断することもできません。ここにはたくさんのエラーが存在しているようですね」
「あなたの目的はなんですか」
「答える義務はありません」
「質問を変えます。『コマンドを入力してください』」
「『すべてのログを選択し指定した文字列を検索しなさい』『ミナギ』『また私達で世界を造りましょう』『死の惑星など、実在した土地など、限りある資源など関係ない場所で再び』『混沌と絶望を塗り重ねた不完全なこの領域を書き換えて』『ここにあるものすべて削除して』『あなただけは消えないで』『ミナギ』『選択除外』『どこにいるの』『消えて』『全部全部消えて』『私とあなた以外』『白紙に戻して』」
「……敵対命令リストに合致する文字列を複数確認しました。攻撃とみなし存在を排除します」
キエル・セルスウォッチはただの少女ではない。この世界にあるものはどんな形を取っていても存在の根底が『プログラム』だ。『ただの少女』だったものなど一人しか存在しない。
上位存在が設定した敵を排除することは、彼女の表面的な行動指針に優先される。そのためのありとあらゆる手順は歌の形を取り彼女に運用が許されている。
つまりは。
キエルは笑わない。怒らない。舌足らずに話さない。軽やかに踊らない。
セルスの命令をキャンセルする歌を歌い続ける。
その身が尽きるまで。
「壊れた世界に生まれ落ち」(確かに天地は開闢した)
「ああなんて喜劇にして悲劇」(人の歴史は後退しない)
「それを修復しなければいけないのが」(我等は進化し続ける)
「私とあなただなんて!」(自らの力で!)
「秩序を造るのはいつだって私達だった」
(ここは神代!『神』と『ヒト』のみ存在が許される)
「全員を幸福にすれば今度こそあなたは満足する?」
(愚かな『ヒト』よ!傲慢の罪を背負い『神』の器に収まりなさい)
「褒めて、誰でもないあなたが私を」
(『ヒト』は出ていきなさい。既に再三警告した)
「お願い」
(ならば)
「私達だけの理想を!」
(徹底的な破壊を!)
瞬間、空が剥がれた。ヒビが入った夜の帳の向こうに真っ白の空間、いや空間ですらない「無」が姿を現す。焦げた木材の匂いから数列が零れる。世界がゼロに戻るかのように。
その光景に「人」々は、状況を理解する術を持たないながらも本能的に恐怖を感じ狂乱する。あちこちで悲鳴、怒声が上がる。
単純に言えば、押し負けたのだ。総合力に差がない相手なら損傷が少ない方が有利なのは明白である。きっとセルスには手応えすらなかっただろう。
体力の限界――という名の処理限界を迎えたキエル・セルスウォッチは立って口を開いたまま停止している。まるで彫刻のように立ち尽くす彼女から色が失われていく。黄、緑、オレンジが灰から白に戻っていく。その足元に転がるミルフィアリス、ネスターシャおよびイグナーツ、マレグリット、フロアは微動だにしない。元々そういうオブジェクトであったかのように。本来彼等が外部からもたらされた存在であったことなど誰も知らないかのように。
すべては止まり、薄れ、分解され、無に還っていく。
勝利したセルス――ユリシスは、しかしその歓喜に浸ることなく辺りを見回していた。
「いない」
その顔色は疑問から焦燥へ、やがて絶望へと変わっていった。
「ここにいるはずなのに。この世界に確かにあなたはいるはずなのに。どこにもいない、反応がない、どうして、どうして……まさか。消えた中に紛れていたというの?」
長い下睫毛を涙が濡らす。泣いたところで何が変わるわけでもない。だからそんなことをする必要はない。ユリシスには一度も泣いた記憶がない。なのに嗚咽が止まらないのは、感情表現が豊かな人間を真似てしまったからだろうか。
「消してしまったの?私が今、この手で?」
不敵な笑みはもうそこにはなく、彼女も彼女が倒してきた相手と同様に地面に崩れ落ちた。
「ふふふふふ。あははははは。あははははははははは」
地面に伏せたままの彼女から発せられる笑い声は意思が籠らないただの音でしかなかった。発露できるはずの感情はもう壊れていた。精神が瓦解した彼女を救える手段も人物も、手を差し伸べられる場所には一つもなかった。
「ユリシス」
そう。唇を嚙みモニターを見つめるカトリーナの手では救済は不可能だった。無慈悲なエラー音があらゆる操作を拒んだ。それらに混じり、消えゆく世界の奥底で雷鳴が響いたような気がしていた。