第111話 エフィリスとイグナーツ
「イグナーツ。君、ハーブティーは飲める?」
「急に何だ」
「セルシオルの淹れる濃いコーヒーは悪くないけど夜分にはちょっとね。カモミールティーがちょうど二人分あるんだ、よかったらどうかな?」
「ではなく、なぜ私に」
「さては朝の洗顔以外の時に鏡を見ないね?目の下に苦労が滲んでるよ」
「…………」
「ふふ、余計なお世話だって言いたげだね。でも友達の世話くらいさせてくれても良いんじゃないかな?」
「友達?」
「あっ!ほら、こっちこっち。窓の下そーっと覗いてごらん。猫ちゃんがいるだろう?いつもこの時間にここを通ってどこかに行くんだよ。家に帰るのかなあ」
「聞いているのか」
エフィリス。
ミルフィアリスを拾うより前。ハルカとアンソニーが仲間となる少し前。私がミナギを連れてセルス達の元に転がり込んで暫くの頃の記憶がふと甦る。
思い出に浸るなんてらしくない。それもユリシスと戦っている時に。ああそうだ、この街を包み込むような雨のせいだ。もういない彼が死闘に割り込んでくる。
いつだってエフィリスは私の邪魔をしてくる。ユリシスの邪魔でもあり、セルスの邪魔でもあった。
だってそうだろう?
「君の愛について聞かせてくれないか。世界の輝きを少しでも多く知りたいんだ」
なんてことを言う狂った人間、グランアップルに一人しかいない。
「前時代は平和で、手入れされた自然と多彩な芸術に溢れかえった、今とはまるで違う宝箱みたいな世界だったそうだよ。でもイグナーツ、それはきっと半分本当で半分嘘なんだ」
セルスが俺とミナギを受け入れてすぐ、真っ先に友好的に話しかけてきた彼が頭の緩い人間に見えた。
「どんな状況に置かれてもわかり合えない人はいる。争う人々はいる。そんなこと嫌ってほど私達はわかっているさ。史実にはその爪痕が残っているし、たとえ残っていなかったとしても史料は多かれ少なかれ恣意的な部分があると考えていい。それと同時に、美しいとか楽しいとかいう気持ちは、追われている身である今の自分でも持てるものだ。特定の時代の人々の専売特許じゃない」
彼は銃口を私に向けたことがない。それどころか言葉の刃で傷付けようとすることすらなかった。
「そして今の私と似た目的で連帯できるなら、かつては殺し合う関係であったとしても、友達になれないということはないんだよ。イグナーツ、私は夜明けの光が好きだ。木々をきらめかせる朝露が、昼になるにつれ暖まっていく風が、お気に入りの靴で地面を踏みしめる感触が、鳥が飛び立つ瞬間の羽根のはためきが好きだ。君はどうなんだい?私は君の好きなものが知りたい。君に愛されている彼のことももっともっと知りたい」
しかしエフィリスのこういうところがユリシスにとって、今の世界にとって最大の脅威であることは理解できた。誰にも侵されてはならないと思わされながらも、誰の影響を受けても大丈夫な気がする人物だった。今まで出会ったすべての人間の中で一番安定していた。
「エフィリス」
「うん」
「私は私の感情を口にすることが得意ではない」
「そうだねえ」
「私のこともミナギのことも、何がどうだからこういう状態なのか表せる言葉を持たない」
「ふんふん」
「あなたと話せばわかるようになるのだろうか」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれないなあ。でも別のことでも何でも、君が話してくれたら嬉しいよ」
「わかった、先生」
「その呼び方久しぶりだなあ。あっごめんこっちの話ね」
先生。結局私はあなたを死なせたし、あなたは私のことを恨んだりしなかっただろう。だが。
「エフィ……っ」
金髪の少女の掌から湧き出る水が渦を巻いて私とユリシスを引き離す。水の重みに押し潰され、顔を出して呼吸することでやっとの状態だが、彼女の声は確かに聞こえた。
ああ、彼女もエフィリスを失ったのだ。エフィリスが彼女を傷付けなくとも、エフィリスが失われることで傷付くのだ。それを知ってなお、彼は死から逃げようとしなかった。
先生。
私もあなたを失って後悔した。
やがて水の勢いが止まり、押し寄せていた水流は重力に逆らわずに水路の方にざあっと流れていく。濡れた石畳に投げ出された身体を起こそうとするが、全身に鈍い痛みが走りそれは叶わなかった。
視線だけ動かすと、うずくまり肩で呼吸をしている金髪の少女の背後から、ユリシスがじりじりと匍匐全身で近付いているのが見える。ユリシスももう立ち上がるのが困難なのかもしれないが、その手には巨大な氷の刃が閃いていた。
「マレグリット!うしろ!」
兎耳の少年が叫ぶ。
金髪の少女が振り返る。ユリシスの振り上げられた刃が巨大化し彼女に向かって振り下ろされる。間に合わない。
鮮血が飛び散る。石畳が赤く染まる。
その刃を受け止めたのは金髪の少女ではなく、今までこの場にいなかったはずの人物だった。彼女に覆い被さるように現れた赤髪の青年は満面の笑みを向けて言う。
「マリー、そんなに泣かないで」