第105話 楽に死ねると思ったわけじゃない
どうして私の記憶はこんなにも中途半端なんだろう。頭の中を更地にされてしまえばよかったのに。反発し合って痛みを残すくらいならミルフィアリスとしての自我なんか要らなかった。
それなのにミルフィアリスの意識がじわじわと波のように浮上しては私を苦しめる。例えば今。彼を殺した時に目が合ってしまった。
私が演算に基づいたタイミングで、角度で、速さで、握った剣を突き出した。最初に手に伝わったのは柔らかな内臓を貫く感触。次に自身を支える力を失った肉塊の重さ。引っ掛かる骨の固さ。
もう見えている結果が確かに潰したはずの私を呼び戻す。
「あ、あ……」
「とりもど……ないと、ハル……やくそく、した……ら」
「やだ、アンソニー、死んじゃだめ、私、私!」
「……ミウ、やっぱりミウだ。そこにいたんだ。かえろう」
「はやく、はやく止血しないと!」
私は泣き叫ぶ私の身体を引きずりながら次の演算を行っていた。忌まわしい予測が的中することを望んでなどいなかったが、確信はしていた。100%それは起こる。
ミルフィアリスにもそのことは伝わっており、ミルフィアリスだけが喜んでいた。もっとも彼女は喜んでいたことを頑に認めないだろうけれど。
ほら、どこかでなくしたはずの記憶媒体が転がっている。アンソニーが持っていたのか、それとも私が持っていたのか。いいえ、ミルフィアリス達の持ち物は没収されたはず。例えばの話、没収した人がハルカと対話を重ねるうちに絆されて、彼女の死後に持ち物をアンソニーに返したりなんかしたら別だけど。
でも今重要なのは経緯じゃない。大男の微笑みが消えて、差し伸べられた手がだらりと脱力したのと同時に媒体の表面にあるランプがチカチカと点滅しだした。
だめ、私。それに触ってはだめ。すべての私がそう判断したはずだった。ミルフィアリスの意識を除いては。私はそれを拾い上げて、私の脳で読み込みを始める。つまりは世界がそれを読み込む。
「私」のことだけは守らなければいけなかった。
私を守るために私はいた。それなのに私はどんどん「それ」を読み込んでいく。
ただのソフトウェアだったはずのそれをミルフィアリスが世界と認識してしまったばかりに、実体を得ていく。私の中でミルフィアリスだけがその完成を見ていたがために、ミルフィアリスを起点に私が崩れていく。現実と虚構の合間なんかとっくに抜け出してしまっている。
Dreaming worldは実在する。
領域、構成物質、自己認識の確かさ。そういった現実の人間が生きられる資源を呑み込み消費していく。虚構の中で既に膨れ上がっていた世界は質量を帯び、守るべき世界の何もかもをぷちぷちと潰して取り込んでいく。
実在の感覚が弱いものから輪郭がぼやけ、存在がほどけて形を保てなくなる。
同時に私の中の「私達」が悲鳴を上げる。個としての意識を、それぞれが受けた痛みをそれぞれに思い出す。それもこれもミルフィアリスのせいだ。
「お前は人間だ。一人の人間だ。そうでない扱いをするすべてと戦う覚悟はあるか、ミルフィアリス」
この言葉を覚えてしまったから「私は私」だとすべての私が意識してしまう。だめ、私。早く潰さなきゃ。ミルフィアリスを押し潰さなきゃ。でないと、でないと!
「そこにいるの?」
やめなさい!誰を呼んでいるの!何を見ているの!そこには正しい世界などない、空間などない、命などない!それなのに向こうで起こっているすべてがありありと読み取れる。凄まじい速さの時間が情報となってこの身に降り注ぐ。雨のようなそれに対し、開かないドアを叩くようにミルフィアリスが声を上げる。
「セルス、待って。違う。あなたは誰なの!?」
そう。愛する人と共に散った前の私はセルス、あなたになりたかった。彼に嫌われていない、横暴なほど華やかなあなたに。同じ虚構の世界に飛び込んででも、容姿や歌唱力を剥いで乗っ取ってでも、そこに行きたかった。
「セルシオル、だめよ!セルスがあなたのもとを去ったのはーー!」
そう。彼女はあなたを確かに愛していた。本当は二人で、ううん。子供と三人でずっと生きてたかったはず。見捨てようとしたわけじゃない。ただ世界の根幹に関わる情報をセルスを名乗るものから守れるのも彼女だけだった。
「エフィ、違うの……!みんなは変わってしまったんじゃない、そう見せかけられてるの!」
急に仲間を攻撃し出したセルス、彼女を殺そうとする仲間、庇おうとするセルシオル。あなたは心を痛めて彼等の前から姿を消したのね。あなたはいつも優しくて、真実を見定められるほどに強くはなかった。
「リアナ、何してるの?本当に何してるの?」
あなたのことはわからない。たぶん私に見られていることは想定済みで何かを隠しているんだろう。それにしても、それにしてもよ。そこから私を殺すのは無理でしょう!?
「パパ……それは引くわ」
ミナギ。ミナギ。ミナギ。ミナギ。ああそうだ、私はあなたのことを愛している。この気持ちだけはカトリーナにも触らせない。ユリシスが一人の人間だったときからあなたを愛していたのよ。あなたがどれだけおぞましいことをしていたとしても。
「おとうさん……!?おとうさん!聞こえる!?やめて!そんなのだめよ、おとうさん!聞こえないの!?聞けって言ってんでしょうがクソ親父!は?今絶対こっち見たでしょ無視してんじゃないわよ!え?『黙れクソガキ』ですって?ほんっっとーに性格終わってるのね、よくも騙してくれたわね絶対絶対許さない!」
忌まわしいイグナーツ。あなたはミナギを私から、ううん。過去未来のすべてのユリシスから奪い取って返してくれない。やっと悲願を叶えてくれる前の私を滅殺するために死んでもまた死ぬなんて。ううん、それどころかセルスもミナギも巻き込んで、全員に二度も死ぬことを要求するなんて。肉体を捨てて大聖遺物なんて形で生き続けるなんて。前の私がセルスにしたように「人」の身体を乗っ取るなんて。彼女を完全に殺すまで何回でも死に続けるなんて!狂ってるわ!ミルフィアリス、こんな男を父親扱いするんじゃありません!
「ハルカ、今度こそって。そういうの無理なんじゃなかったの?ちゃんと逃げてよ!誰のことも守らなくていいじゃない!」
あなたが世界に辿り着いた時には争いは激化し、世界はかつての仲間も「人」も血を流し続ける地獄と化していたのね。元の世界と変わらないくらい、いいえ、もっとひどいと感じたのね。だからあなたは一人で遠く離れた島に逃げ込んで、「人」の守護女神になった。でも悪意はどこに逃げても追い付いてくるって知らなかった?また守りきれなかったものが増えていくだけよ。
「アンソニー、ごめんなさい!私、謝らなくちゃ……あなたに謝らなくちゃいけないのに!」
そしてあなたが目を覚ましたときには彼等はもう人の形をしておらず、世界各地に散り散りになっては断続的に災厄をもたらしていた。あなたは決意するでしょう。すべての悲劇を終わらせなくてはいけないと。昔読んだ物語の聖なる槍の名を身に宿し、この世界における異物を滅ぼす存在になると。
悲鳴にも近い叫び声を上げながらあなた達の足取りを追うミルフィアリスに、そこで起こった殺戮の歴史に、私達の情報処理能力は限界を迎えかけていた。このままでは私が、世界が崩壊してしまう。それどころか何人かが「こちら側」に攻撃を仕掛けようとしている素振りまで見せている。
止めなくちゃ。早く制圧して、正しい世界を取り戻さなくちゃ。死ぬしかないテロリストは大人しく死んでいればいいのよ。
ゲームとしてのDreaming world、その中での文明ができて「数千年」。
明確な世界としてのDreaming worldができて、つまりセルスとセルシオルが変換されて「350年」。
アンソニーが変換されて「150年」。
現実よりも速い流れではあるけれど、それでも少しずつ減速していく世界。まるで現実に近寄るように。
ミルフィアリスの意識だけを停止しようとしても、必ずどこかから二つの世界は接続される。切っても切っても切っても切っても彼等は繋がってくる。こちらの世界は混乱し、ミルフィアリスは目を覚まし「私」ごと苦痛に身を捩らせる羽目になる。
価値観を是正するためのプログラム「ハーフラビット」を投入しても彼等の悪い影響を受けて呑まれていった。
武力で制圧を試み、囚人に「新たなる神」の名を与えて肉体を変換してもつまらない欲に身を滅ぼしていった。
私の、ううん。「あなた」のせいよミルフィアリス。あなたなんか私じゃない。
だいたいあなたのせいじゃない。あなたが逃げたから、イグナーツなんかの手を取ったから、私に刃向かったから、私になったから悪いんじゃない。
みんな迷惑してるのよ。この世界では今も秩序が失われ、Dreaming worldでは絶えず血が流され続けている。どう責任取るつもりなの。ねえ、言ってみなさいよ。泣いてても何も解決しないわよ。あなたなんかに謝られても意味ないじゃない。自分がやったこと、考えてること正しいって思ってるの?理由は?私にちゃんと説明できるの?何も言えないんなら何回もしつこく出てこないでもらえる?あなたは一番ぶっちぎりで何もできないのよ、わかってるの?能力は私に依存してるくせに問題ばかり起こして誰が対処すると思ってるのよ!……え?何て言ったの?
「死にたい」
ちょっと、待ちなさい。あなたがそんなことを言ったら私は
「死にたい、死にたいよぉ……」
やめ、やめなさいよ!私が、世界が!
「ウワーーーー死にたい!死にたくて死にたくてたまらない!!!」
消失しちゃうじゃないの馬鹿何考えてんのよふざけないで!
あ、あ
わたしが
せかいが
せかい
まもらなきゃ
「これはひどい」
カトリーナ
カトリーナの声がする
どこから
「やっと切り離せた……大丈夫?ユリシス」
せつぞく
きれた
ミルフィアリス
やっと
いなくなった
あ
カトリーナ
だめ
そいつ
まだ
そいつまだいきてる
「ん、ん……?あれ……」
「目が覚めたか。大丈夫?」
「…………」
「もしもし?ユリシス?」
「……」
「ユリシス」
「…………」
「ユリシス、君を傷付けるものはここにはない」
「…………死にたい」
「うん。君は病気だ」
そう、カトリーナ。あなたはユリシスを殺せない。それが私じゃなかったとしても。今回もまた刹那的な衝動で決断して、いつまでも後悔するんでしょう。そういうところがいじらしくて鬱陶しい。
「助けてあげなくちゃね」
なろうには一括段落下げ機能があるって皆さんご存知でしたか?私は今初めて知りました。