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夏空

作者: 新白 ゆうき






 視線の先に、街、ビル、空。



 振り返る。



 自分に向かってくる、一対の腕。



 腕が沈み込んで、墜ちる。



 逆さの世界。



 胃がせりあがる感覚。



 絶望が身体を縛る。



 迫る地面。



 視界が灰色一色に変わり。



 私は。




 ―――――ドサッ。ゴンッ。


「いっったあぁあぁぁ!」


 そう叫んで、咄嗟に口をつぐむ。


 ようやく心臓も落ち着き、辺りを見回す余裕ができた。衣類や雑誌で散らかったいつもの部屋。嫌に痛む後頭部。あと背中。


 夢落ちだ。


 思わずため息が出た。鈍痛が引かない背中を擦り擦り、起き上がる。念のために壁に向かって耳を澄ませたが、隣の人が注意するような音は聞こえなかった。


 以前友達をここに呼んだ時、はしゃぎ過ぎて隣人に注意されたことがあったからだ。注意と言っても怒鳴り込まれたわけじゃない。強めにドン、と壁を叩かれただけだ。それでも怖かった。人の気配はいつもするのに物音すらしなかった隣の部屋から急に注意されれば、誰だって怖いと思う。


 改めて部屋を眺める。引っ越してきた当時の、あの真っ白な部屋の面影が全く感じられない。今年の春、うきうきと心を弾ませ購入した家具の数々は、広げた服や靴下で原型が見えない。水を一杯飲もうと台所へ行けば、さび付いたコンロと御対面。


 ぼんやりする頭が何とか動き始めた。


 ……待って。確か、今日は。


 携帯が鳴るのと焦りが沸騰するのがほぼ同時だった。慌ててけたたましくなる携帯を引ったくり、叫ぶ。


「ごめん拓馬っ。あのね、今ちょっとベッドから落ちて……」


 通話中の向こうで拓馬が笑う。「寝坊したんだろ? 十五分待ってやるよ」


 そんなぁ、と言ったのは紛れもなく自分。


「拓馬ぁ。もう少しお恵みを」


「だめだ。ほら、ちゃんといつものとこで待っててやるから。早く来いよ」


 優しい声音が素直に私を頷かせる。


「……分かった」


「よし」


 その電話の後、パジャマを脱ぎ捨てて洗面台に駆け込んだのは言うまでもない。







「遅れてごめーん!」


 結局待ち合わせ場所に着いたのは、あれから二十分後の事。日焼け止めをまんべんなく塗るのに時間がかかった。


「まさか彼女にデートすっぽかされるとはな」と拓馬。汗が滴る顎を手の甲で拭っている。


「本当にごめん。暑いのに」


 半分しょげた声で返す。もう半分は、拓馬の口から零れ出た「デート」の単語に対する喜び。拓馬もそれを分かっているのか、いいよ、と言ってくれる。


「じゃあ行こうか。暑いし」


「……二回も言わなくていいのに」


 少しだけ膨れて見せると、拓馬があはは、と笑った。


「冗談だよ、悪かった。どこかで涼もうな」


 うん、と返す声は、自分でも嬉しそうと分かるほど弾んでいた。


 久々のデートだもん。寝起きで一瞬頭から飛んでたけど、以前からとても楽しみだった。


 最後に会ったのは一ヵ月ほど前。雨降りしきる六月。拓馬の部屋で過ごしていた時、彼の顔に疲れが見て取れたのだ。それとなく聞いたところ、仕事の忙しさであまり眠れていないらしかった。その日は私も仕事場で嫌なことが続いていたから愚痴も聞いてほしかったし、あわよくばそういう事もしたかった。


 だけどやっぱり、いつも私に優しくしてくれている拓馬を思うと、そんな我が侭も言えない。私だって拓馬が倒れたら困る。拓馬は気遣い屋だから、自分よりも他人を優先する。最初は「嫌なら嫌って言えばいいのに」と思ってた私だけど、そんな所も拓馬の良さなのだと今なら納得できるから、特に。


 拓馬の仕事が落ち着くまで少し時間を空けよう。そう私が言い出したのだ。提案した側だし、拓馬の体調を思ってだから不満では無かったけど、さすがに一ヵ月も会えないのは寂しかった。


 私の提案を、拓馬は申し訳なさそうに承諾した。その代わりなのか、その日は少し遅い時間まで話を聞いてくれた。ありがとう、とちょっとしたご褒美もくれた。


 そっとうなじに手を伸ばす。もう消えたけれど何度でも思い返せる、彼がくれた噛み印。自然と笑みがこぼれた。


 横を歩く拓馬をそっと見上げて、何度も感じた気持ちを再びなぞる。


 私は。彼が好きだ。






「拓馬はもう仕事、大丈夫なの?」


 待ち合わせ場所から少し歩いた先にあるカフェで、注文したアイスカフェラテをすすりながら私は尋ねた。


 拓馬はすぐ近くの高校で現代文を教える先生をしている。私と拓馬の母校だった学校でもある。


 最初会った時は優男の言葉が似合いすぎていて頼りなく思っていたが、いざ付き合ってみると、爽やかで頼りがいのあるカッコイイ人だった。お互い高校生だったことと、彼が学年内でもかなり格好良かったこともあり、同級生の冷やかしは少し面倒くさかった。それでも彼は「帰りはいつも一緒に帰る」というささやかな約束を破らなかった。その頃から彼は持ち前の温かい包容力で、私の心を鷲掴みにしていた。


 そんな甘酸っぱかった青春時代はとうの昔。私達は社会人となり、会える時間も大分減った。だけど拓馬は今でも、時間をわざわざ空けては私と過ごしてくれる。公務員だから休みは少ないはずなのに。貴重な時間を割いてくれる彼は、優しくて頼れる、私の自慢の好きな人だ。


 拓馬はコーヒーカップを傾けながら答える。持ち手を握る、太くて柔らかい指先。


「大丈夫。先週の土曜日に学園祭があったから、今日は代休なんだ」


「そっか、もうそんな季節だね。懐かしい」


 忙しかった理由は学園祭だったのか。それは確かに大変そうだ。


 私達が通っていた高校は、夏休みの前に学園祭を行なう。しかも、六月半ばの中間試験後すぐに。生徒も教員もこの時期は特に忙しいのだ。新任教師である拓馬なら尚更、数多くの仕事が回ってくるだろう。一ヵ月前の、あの疲れた表情が思い起こされた。


 納得する気持ちと裏腹に、すまない気持ちが顔を覗かせる。


「ごめんね。せっかくの休みに」


「何言ってんだよ。肩が少し凝ってるくらいだ。それに」


 そこまで言って、拓馬が俯く。頬が少し赤く染まっているのが見えた。


 お前に会いたかったし。


 脳内で勝手に補完したけれど、大体こんな所だろう。


 ここぞという時にカッコイイことを言おうとし、結局恥ずかしくなって口ごもる。本人はちょっぴり悔しそうだけど、いつもの完璧な気遣いからは想像しにくい、拓馬の可愛い所。胸が心地よく締め付けられる。


 今回も少し悔しそうに顔を上げて、彼は話題を変えた。


「それで、今日はどこ行く?」


「うーん、じゃあ」


 弾んで返そうとした所で、タイミング悪く携帯の着信音。拓馬のだった。不思議そうに席を外し、戻ってきた拓馬は焦っていた。


「ごめん、ちょっと学校行かなきゃ」


 言ってはいけないのは分かっているのに、不満が口元から滑り出てしまう。


「行かなきゃだめなの? 休みなんでしょ?」


「いや、ちょっとこれは行かなきゃまずい。生徒が……、いや言わない方がいいな」


 ごめんな、と詫びを入れて拓馬は立ち上がった。私の代金までをさりげなくテーブルに置いて店を飛び出す。「え、いいよ」なんて言う間もない。


 拓馬が座っていた場所を眺めて、微かな切なさが胸を刺した。半分だけ残ったコーヒー。急に静かになった席。


 やっぱり拓馬と一緒が良いな。目の前のテーブルに置かれた代金を見て少しばかりの罪悪感を覚えつつ、そんな思いが湧いた。いつものことながら、私の出る幕なんかほとんどない。いつも先回りされて、気が利きすぎて、それでも本心からの笑顔を浮かべて。拓馬に文句があるとすれば多分これだ。でもそれが、欲張りな文句だということも、これまで付き合ってきた期間で学んだ。


 今度手料理でも作りに行ってあげよう。拓馬の好きな肉じゃがは、私の得意料理だ。


 またしても携帯の着信音。今度は私のだった。画面に映し出された「非通知」の文字。誰だろう。そして何故。


 親指が無意識に受話器のマークを押す。


「――――あ」


 何故電話に出るんだろう。


 自分で押したくせに、少しの間呆然とする。出ようか。出るまいか。


 どうしよう。でも押しちゃったし。今も繋がってるし。


 意を決して携帯を耳に当てる。


「もしもし」


『      』


 電話の向こうは無言だった。でも分かる。


 誰かがいる。


「あ、の」


『      』


 黙っている。けど確実にいる。


 店の冷房が急に気になりだした。寒い。それなのに首筋を汗が伝う。


 早く切らなきゃ。


 早く切らなきゃ。


 そう思うのに、腕が硬直したように動かない。腕だけが好奇心に支配されているみたいだった。


 怖い。誰。


 ――――あれ。


 不意に、何かを思い出しそうになる。


 黙ったままの受話器の向こう。知らない電話。非通知。



 視線の先に、街、ビル、空。



 振り返る。



 自分に向かってくる、一対の腕。



 顔が霞んで、歪んで。



 腕が身体に沈み込んで、墜ちる。



 逆さの世界。



 胃がせりあがる感覚。



 絶望が身体を縛る。



 迫る地面。



 視界が灰色一色に変わり。



 私は。



『あの』


「っ! はいっ!」


 急に耳元に声が響いて、一瞬声が引きつった。手の中で携帯が滑りそうになる。


『管理会社の者です。裏野ハイツにお住まいですよね』


「……はい、そうですが」


 応対しながら首を捻った。電話の声は若い女性だった。春に行った不動産会社には、若い女性は居なかったはずだけど。もしかしたら新人採用でもしたのかな。電話の女性は慣れていないのか、時折口ごもりながらボソボソと言葉を続ける。


『そちらのお部屋から、その、水が漏れていると。苦情がありまして。はい。それで一度お部屋を見せて、拝見させて。欲しいのですが』


 水漏れ? そんなのあったかな。


 でも、と考える。不動産会社からは築三十年は経過していると言われていた。家賃は安いし、内装も値段と比較して綺麗な方だとは思うけど、水道は古いのかもしれない。下の階にも迷惑だったら謝らなければならない。


「分かりました。じゃあお願いします」


『え、はい。分かりました。…………これから伺っても宜しいですか』


 目の前の座席を再び眺める。拓馬は仕事に行ってしまった。本当は夕方まで一緒にいる予定だったけれど、時間は急に空いた。


「はい、わざわざすみません」


『では、また後で』


 そう言うと、女性は唐突に電話を切った。少し驚く。普通相手が切るまで待つものじゃないのかな。職場の先輩には、そういう電話の応対を徹底的に教えられたけどな。しかも「また後で」って。


 苦笑しながら携帯をテーブルに置く。アイスカフェラテは氷が解け切っていた。水とカフェラテに分離したコップを傾けると、薄まった苦みが不安定に舌を濡らした。






 ハイツに戻るとまず、真下の部屋のインターフォンを鳴らした。水漏れしたなら、下の階に被害が出ただろう。管理会社の人が来る前に、先に謝っておこう。


 玄関扉の向こうで「ピーンポーン」と電子音が響いている。表札には「103」とだけ書かれていて、ネームプレートは無い。どこの部屋もそうだけれど、やはり名前の分からない人の家に訪れるのは、少し勇気がいった。心臓の音を聞きながら、返事を待つ。


 なかなか住人は出てこなかった。アスファルトを熱する太陽が、首筋やふくらはぎをジリジリと焼く。確か三十代くらいのご夫婦が住んでたはずなんだけどな。何度か顔は見たことがあった。


 そこまで考えて、ようやく気付いた。旦那さんは朝に、奥さんは昼に出掛けるのをよく見かけた。会社とパートなのかもしれない。それだと今の時間にはいないよね。


 待ってた時間を少し後悔する。汗で日焼け止めも多少落ちているに違いない。喉も乾いた。早く涼しい風に当たりたいな。


 ふぅ、と溜め息を吐いて、ハイツの外階段を登ろうとした時。


 ガチャ。


 玄関の開く音がして、振り向いた。ドアの隙間から顔を出したのは、まだ幼い男の子だった。独りで留守番していたのかな。


 男の子はキョロキョロと辺りを見回し、私に目を止めた。不思議そうに首を傾げている。慌てて男の子に話し掛ける。


「ごめん。さっき鳴らしたの、お姉ちゃんなんだ。いきなりでびっくりしたよね」


 自分をお姉ちゃん、と呼ぶのは何だかくすぐったかったけれど、男の子は納得してくれたみたいだった。


「ごよーけんは、なんですか」


 舌足らずな口調で尋ねてくる。少し微笑ましい。腰を屈めて、男の子に視線を合わせた。


「お父さんとお母さんは、お出かけかな?」


 男の子が首を縦に振る。見た目からして三歳から五歳くらいかもしれない。


「まだかえりないよ」


「そっか。あのね。ちょっと聞きたいんだけど、天井からお水が落ちたりしてない?」


 男の子は目を瞬かせた。ドアノブに寄り掛かる姿勢のまま、家の中を振り返る彼の視線を追って、私も部屋をちらりとだけ覗く。


 間取りは私の部屋と一緒だった。私の部屋と違うのは、きちんと整理されていながらも、穏やかな生活感に満ちている点だ。衣類を脱ぎ散らかしてる私とは違う。綺麗好きな奥さんを私も見習わなければ。


 玄関すぐのLDKの真ん中には大きなテーブルが置かれている。その上にちょこんとカップアイスが乗っていた。奥の洋室へ続く扉が少しだけ開けられており、そこからテレビの音が微かに聞こえて来ていた。冷房もちゃんと効いているようで、ほのかに涼しい風が玄関先まで届いている。


「おみず、おちてない、とおもう。よね?」


 男の子が私に確認を求めて来た。不意に我に返って、少し恥ずかしくなった。ここまで他人の部屋を勝手に眺め回したことは今まで無く、途轍もないバツの悪さに苛まれる。


「う、うん。みたいだね。お姉ちゃんの勘違いだったのかな」


 ありがとね、と呟いて腰を上げた。男の子は再び家の中に視線を投げている。そんな男の子の背中に訊いてみる。


「お父さんかお母さんにも確かめてもらっていいかな、帰って来た時に。もしお水が落ちて来てたら、お姉ちゃんに教えて。私は上に住んでるから」


 頭上にある私の部屋の玄関を指さした。私の指先を彼の視線が辿り、ゆっくりと頷いた。本当に素直でいい子だと感じた。


 何となく、彼が独りでいるのが可哀想になった。奥さんが昼に出掛けてからずっと家にいるのだろう。パートだとしたら夕方まで帰って来ないのかもしれない。その間だけでも。


「ねえ」


 男の子は頭上の玄関から、今度は私に目を向けた。くりくりとした瞳が躊躇いも無く私の目を見てくるから、かえってこっちが目を逸らしそうになる。この年で視線を真っ直ぐ合わせることなどあまりないからか、少し気後れする。


「お母さんが帰ってくるまで、うちに遊びに来ない?」


 男の子の目が一瞬大きく開かれる。ちょっと後悔した。話したことない人に遊びに来いなんてそりゃ怖いよね。突然言って悪かったかな。


 案の定、男の子は首を横に振った。少し寂しいけど、防犯上は仕方が無いと思う。不用意に声を掛けた私もいけなかった。そう思ってると。


 男の子が、口を開いた。


「うえにひとがすんでたら、いえにいなさいって」


 ――――――――ん?


 彼の言葉に何かが引っ掛かった。言葉の意味もあるけど、何より。


 前にもこの言葉を聞いた事がある気がする。


 あれ。何でだろう。聞き返さずにはいられなかった。


「それは、……どういうことかな?」


「うん。あのね、おかあさんがね。いつもそういうの」


「お母さんが?」


「あと、2かいにすんでるおばあちゃんも」


 二階に住んでるお婆ちゃん、がよく分からなかった。見かけてないだけなのかもしれない。私はいつも朝早く出勤して、帰るのも夜遅いから会わないのかな。


 というか、問題はそこじゃない。


「二階のお婆ちゃんもそう言うの?」


 男の子が頷く。


「上に人が住んでいたら、家の中にいなさいって?」


 また頷く。よく分からなかった。それだと「誰も住んでいなかったら家に居なくても良い」ってことになる。まずもって、住人がいることと留守番をすることに関連性が見出せない。


 悩んでいると、家の奥の洋室から軽やかな歌が聞こえて来た。高らかな前奏に「さぁみんな、はっじまっるよー」と掛け声が続く。男の子が目に見えてそわそわし出した。好きなアニメが始まるのかもしれない。


 またご夫婦にでも聞けばいいかな。そう考えて頭を切り替えた。思ったより長居してしまったし、管理業者も来るかもしれない。


「分かった。お姉ちゃん、助かったよ。ありがとね」


 そう言うと、男の子はこくんと首を縦に振った後、片手をひらひらと振ってくれた。扉は支える力が少なくなり、ゆっくりと閉まる。再び、暑い夏の午後が私の肌を焼き始めた。


 素直な子で良かった。心の底からそう思った。いつか拓馬と結婚したら、あんな子が居てもいいな。なんて。


 汗の滲む額を手の甲で拭った。暑さで頭のネジが緩んでいるのか、少し出過ぎたことが頭を過った。気恥ずかしさで頬が緩む。


 上に人が住んでいたら家に居なさい、か。


 反芻しても納得がいかない。それに何だか山彦みたいに頭の中で響く。


 ま、気にしても仕方ない。また訊きに行こう。あの子にも会いたいし。


 私は気を取り直して、今度こそ外階段に足を掛けた。






 ピ―ンポーン。


 玄関のインターフォンが鳴った。え、もう?


 あれから部屋に戻って、軽い片付けを始めていた。管理会社の人が入ってくるのに、脱ぎっ放しの服や下着があるなんて絶対に嫌だ。拓馬にだって見せられないのに。


 十分くらいで片付くだろうと踏んでいたのに、三十分過ぎた今でも半分綺麗になったかどうか、と言った所だった。忙しい日々にかまけて掃除を怠った自分のミスだ。LDKの方は見ても大丈夫なくらいには回復した、と思う。多分。見せられないものを洋室や押し入れに突っ込んだだけを「掃除」と呼ばないのは知ってる。でも気にしてる余裕はない。


 ピーンポーン。再び響く電子音。


 「はあい」と声を挙げながら、洗面台で化粧の再確認。拓馬と会ってたからノーメイクではないけど、帰り道にかいた汗が心配だった。鏡を覗き込んで。……まあ悪くはないけど、と少し妥協。


 ピーンポーン。


 分かってるってば、と内心突っ込みながら玄関に向かう。最後の手段とばかりに消臭剤を振り撒いた。一瞬濃いシトラスの香りが広がり、ゆっくりと霧散していく。焼け石に水かな。


 玄関の框から上半身だけ乗り出して、ドアスコープを覗いた。そして目を疑った。


「…………だれ?」


 呟いた小声までも反対側に佇む人に聴こえそうで、慌てて口を噤んだ。


 制服を着た女の子。


 歳は高校生くらいだろうか。長い髪は結ぶ事も無く、後ろに垂らされている。この角度だと前髪で目が隠されていて見えない。白いブラウスに、紺のプリーツスカート。胸元に短いネクタイ。


 これ、私の母校の夏服だ。


 違う違う、と首を横に振る。今はそれどころじゃない。


 この子だれだろう。頭をフル回転させても思い当たる人物はいない。親戚にも知り合いにも、母校の女子高生は思い付かない。


 家を間違えたのではないだろうか。そうも考えたのだけれど。


 ピーンポーン。ピーンポーン。


 彼女は私が出ないことに一切の躊躇も無く、ただインターフォンを押し続ける。微動だにせず立ち尽くす様子から、この家に用があるのだと分かる。私が家に居ることをどうにかして知ってるとしか思えない。


 どうしよう。そう考えて。



 視線の先に、街、ビル、空。



 振り返る。



 自分に向かってくる、一対の腕。



 顔が霞んで、歪んで。




 カチャ、という音で我に返った。無意識で鍵を開けていた。


 ――――え、何で。


 思うより早く、扉が開かれた。真夏の熱気が勢いよく室内になだれ込んで来る。


 ドアノブを握ったままの女子高生と視線がぶつかった。綺麗な二重の目から注がれる、射抜くような視線。その視線が、私の肩越しに部屋の奥を見つめた。


 彼女の薄い唇が割れて、か細い声が零れる。


「水漏れ、どこですか」


「……あの、どちら様で」


 彼女は何も言わなかった。どう見ても管理会社の人には見えない。高校の制服を着た女子が水漏れ工事? そんなはずない。それとも家族ぐるみで……。


 蒸し暑い空気が玄関先に溢れているせいか、頭がぼうっとする。思考があちらこちらに逸れていく。全身にじっとりと汗が滲んだ。蝉が遠くで鳴いている。強い陽射しに霞んだ住宅街の屋根。彼女の向こうに真っ青な空が見える。その中に高くそびえる入道雲。


「管理会社です」


 ようやく沈黙を破った彼女が再びそう言い、私の目の前に左手を掲げた。


 急に我に返った。一瞬何かが分からなかったけれど、どうやら工具箱みたいだった。用務のおじさんが使うような古びた緑の工具箱。彼女の腕の動きに合わせてガシャリ、と音を立てる。少し耳障りなほどに。


 ガシャ。音が頭に響いて、思わず右手を頭に添える。


 ガシャ。


 ガシャン。


 どうしたんだろ、あたし。軽い眩暈がする。暑さにやられたのかな。そういえばカフェを出てから今まで水分を摂っていない。何か飲まなきゃ。


 蝉が鳴く。灼けたアスファルトの匂い。真っ青な空。じっとりと滲んだ汗が玉となって、こめかみから落ちる。渇きが纏わり付く。


 もう一度彼女の顔が、彼女の目が、彼女の唇が。目に焼き付く。


 その向こう。彼女の向こう。視界に映る、街と、ビルと、空。


「どうぞ。入って」


 知らない。どう見ても知らない顔。初めて会ったはずの顔。なのに。


 脇の壁に身体を避けると、彼女は無言で靴を脱ぎ始めた。


 彼女が部屋を眺めている間に、冷蔵庫へと脚を向ける。


 冷ややかな庫内から麦茶を出したけど中身は空だった。渇いた。かわいた。


 玄関から入り込んだ生温い空気が部屋を満たしている。


 まど。開けなきゃ。


 テーブルに工具箱を置く女子高生の脇を抜ける。紺のスカートが目の端で揺れる。知らない女の子。なのに見たことのある顔。ガシャンと喚く工具箱。ガシャン。ガシャン。


 あつい。うるさい。窓あけなきゃ。


 洋室の扉を開けた。投げ込んだ服や雑誌が足首に絡まる。差し込む陽射しで熱されたベッド。クレセント錠を外し、一気にガラス戸を引いた。


 窓を開けても涼しくない。蒸し暑い空気が息苦しい。汗が流れ続ける。


 身体中がだるい。うだるような夏空。


 軽い眩暈。蝉のこえ。


 そう。


 たしかあの日も。


 意識が。記憶が。溶けるようにぼけていく。さっき飲んだアイスカフェオレに似ていた。分離した水とカフェオレ。薄まった苦み。


 かわいた。すずしくない。


 涼しかった男の子の部屋。素直なおとこのこ。留守番。うえにひとがすんでたら、いえにいなさい。


 わたしは上にすんでいる。おとこのこは、家からでられない。なんで。


 ぼやける。空が青い。ガシャン。ガシャン。あつい。


 知ってる顔。あの日の顔。いつだろう。


 きょうもあの日といっしょ。あつい。かわいた。もうよくわからない。


 あのひ。おとこのこ。でんわ。せみ。そら。おちる。


 あつい。あついとおちる。


 どうしよう。あつい。


 あつい。


 あついよ、たくま。



 たくま。



 たく馬。



 拓馬。



 本当にごめん。暑いのに。



 まさか彼女にデートすっぽかされるとはな。



 遅れてごめーん。拓馬。



 ―――――――――拓馬。拓馬。



「あれ」


 我に返った。現実感が再び戻って来た。視界がはっきりしてくる。


 目の前には窓から見える風景。真夏の陽射しと、蝉の声と、灼けた街と、青空。


 窓を開けた。なんで。暑いから。エアコン付ければいいのに。


 部屋のエアコン。男の子。お水が落ちてないかな。


 水漏れ。管理会社の女の子。夏服を着た女子高生。


 何で彼女を家に上げたんだろう。


 振り返った。


 そう、振り返った。


 振り返ったら一対の腕が。



 ガシャンッ。



 工具箱が落ちる音が耳を劈いた。


 私の胸の辺りに女の子の頭が見えた。彼女は私に腕を伸ばしていた。手に持った刃を真っ直ぐ私に沈み込んでいた。音なんてしなかった。蝉の声だけが奇妙に反響する。背中に当たっているベランダの手すりが熱い。


 お腹に鈍い痛みが走った。一瞬のようにも、永遠のようにも感じた。


 赤い絵の具が私の服に、彼女の制服に、彼女の顔に散らされた。


「せんせい」


 彼女がぶつぶつと何かを呟き続けている。


「せんせい、せんせい。やったよ。一緒にいようね」


 彼女は目を見開いて笑っていた。口角が歪んでいる。


「センセイよろこんでね。私がずっと、ずっと一緒、あはは」


 さも可笑しそうに笑っていた。


 先生。彼女の夏服。私達の母校の制服。拓馬と私の母校。


「あはは、センセイやったよ。センセイは、あは、すてきな私の、あはは」


 急に彼女の膝から力が抜けた。彼女の細い体躯にある体重全てが刃に圧し掛かる。鈍痛が酷くなって、刃先から絵の具が零れた。ベランダの手すりを支点にして私の体が浮き上がった。


 真っ青な空と、入道雲と、蝉の声が、視界の中でぐるりと回った。


 堕ちる。


 世界が逆さに回る。


 胃がせり上がる感覚。


 背中から地面に堕ちた。乾いた砂埃が服を汚した。二階のベランダの手すりから彼女の笑顔が見えた。とても晴れやかな笑顔だった。


 真っ青な空が赤く染まっていく。赤く。朱く。紅く染まっていく。


 懐かしいと思った。前も、その前も、ずっと前から知っていた、と思った。


 この空も、暑さも、彼女の笑顔も。ずっと前から知っていて。知っていても無理なんだ。


 拓馬。


 紅い視界の隅に、ハイツ一階の窓が映った。半端に閉じたカーテン。隙間から見えた男の子の顔。両手で耳を塞いで耐えている。うえにひとがすんでたら、いえにいなさい。


 硬い表情で唇を引き結んでいる。ごめんね。怖かったね。泣かないで偉かったね。


 拓馬。


 たくま。


 たくま。


 た










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