泡立つ黄金色 3
「はい、鍋おまちどうさま」
「おー。美味しそう。さすが私の梨紅」
「わかったから。もっとちゃんとしてよ」
鍋を運ぶと、紗菜は年甲斐もなく声をあげて喜んだ。
そんな彼女の格好に、眉をひそめる。
仮にも24歳男性の部屋にいると言うのに、沙菜に警戒心はどこにもない。
どころか、スカートなのにストッキングを脱ぎ、生足をさらしている。上着だって脱ぎ捨てて、胸元が少々、いやかなりきわどい半袖のカットソー1枚のみだ。
これでビールを飲んでグダグタになっているとくれば、襲わない方がどうかしている。
俺の部屋だから安心しきっているのだろうが、俺だってれっきとした男。
今まで何も無かったのが不思議なくらいだ。
自分の自制心を誉めてやりたい。
「やっぱり梨紅はいい男だよね。女作ったら大事にするタイプでしょ。ね、まだいい出会い無いの?」
「無いよ。全然無い。恋人がいる沙菜がうらやましいよ。行人さん、いい人だろ」
「いい人だけど、お人好しすぎ。合コンだって断ればいいのに」
「わかってるなら、許してやればいいのに」
沙菜は行人さんが浮気するような人では無いとわかっているんだ。最初から。
怒っているのは、行人さんに言い寄る女の子に対してだ。
『自分の男が、簡単に落ちるような人だと思われたのが許せない』そう言っていた。『自分の男はそんなに安くないのに』と。
「大体、どうして毎回行人は気づかないのかな。意味わかんない」
「いやいや。意外と気づかないもんだよ?ジャケットのポケットとか」
俺も経験はある。
初めての合コンの帰り道、何気なくポケットに手を入れて女の子の名刺が出てきたときはびっくりした。
「そんな卑劣な女が行人のそばにいるなんて。腹立つ」
沙菜はまたビールを煽って、空になった缶をローテーブルに叩きつけた。空になった缶が、カン、と小気味良い音をたてる。
「大事に思ってるんだな。行人さんのこと」
「当たり前でしょ。行人は私を愛してくれる人よ。大事にしなきゃ、バチが当たる」
「そうか」
俺は、コップに注いだ烏龍茶で喉を潤す。沙菜が家に来るとき用に、烏龍茶だけは切らさないように買ってある。
俺が何も飲んでいないと気付くと、沙菜は無理やり俺にビールを飲ませようとしてくるからだ。
自制心には自信があるが、酔った状態でそれが働くかどうかはわからない。
紗菜は恋人のある身だ。万に一つでも間違いがあれば、俺は今後行人さんに顔向けできない。
まぁもっとも、俺はそんなに酒に強くないから、という理由もあるのだけど。
「そういえば私、梨紅がお酒飲むとこ見たことなーい。私とお酒飲むの嫌なの?」
飲みなさいよ。と低い声で言って、彼女は俺にビールを押しつける。それをやんわり手で押し戻して断った。
「そんなこと無いさ。20歳の誕生日に一緒に飲んだろ?酒にあんまり強くないから控えてるだけだよ」
「あー…、そういえばそうだったかも。あの日私も飲み過ぎたんだよねー。記憶飛ばすまで飲んだのってあのときだけだなー」
「当たり前だよ。俺や行人さんの前以外でそんなことしたら大変な目に合うぞ。飲み過ぎるな。つーか、飲むな」
えー、梨紅ひどーい、と沙菜は頬を膨らますけれど、ビール缶は握りしめたままだ。
膨らませた頬はほんのり赤い。
酔ってきたのだろうか。そういえば、目もなんとなく潤んでいるような気もする。
そろそろ危ないかもしれない。またあの時のように潰れてしまったら後が困る。
鍋が空っぽになったタイミングで、俺は沙菜から6本目のビール缶を取り上げた。
「もう終わり」
「えー!まだ飲むー!」
だだっ子のように手足をバタつかせる沙菜の前に水のグラスを置いて、俺は片付けを始めた。
沙菜はビール缶を両手に持ってまだブーブー文句を言っていたが、それらも含めたビール缶を目の前から遠ざけると、おとなしく水を飲み始めた。
「飲み終わったらシャワー浴びて来いよ。冷たいやつな。この前置いてったスウェット置いとくから」
「えー、冷たいしめんどーい」
「いいから。少しでも酔い冷ましてから寝てくれ。ベッドは貸す」
「…はーい」
未だ不服そうな沙菜は、ちびちびとなめるように水を飲む。口を尖らせた姿は、まるで幼い子供のようだ。年上であることをうっかり忘れそうになる。
「あ、そうだ。忘れてた」
しばらくして不意に沙菜は立ち上がり、台所で鍋を洗う俺のところにやってきた。
水は飲み干したらしく、グラスは空だ。
酔いが少しは醒めたかと思ったが、まだまだ足取りはふらふらしている。幾分か顔色はいいが、まだぽやぽやした雰囲気をまとっている。
気は抜けない。
「ん?なに?沙菜、どうかした」
「うん。梨紅には一番に言うつもりだったんだ」
そう言って、沙菜は嬉しそうに左手を俺の目の前にかざしてきた。長くて細い指。その中の一つにキラリと輝くものが見えた。
「行人と婚約したの。結納の日取りも決まったし、結婚も秒読み。」
一瞬、動きが止まった。何を言うべきか、どんな表情を作るべきか、わからなかった。
「そうか、おめでとう。よかったな」
『弟』なら、きっとこう言う。そして笑顔で祝福する。そう思ったから、笑顔を作った。
沙菜は俺の返答に満足したらしい。幸せそうな笑みを顔中に広げた。
「結婚式には梨紅も呼ぶね。行人が友人代表の挨拶も頼みたいって言ってた」
「行人さんが?困ったな。そういうスピーチ苦手なんだけど」
曖昧に笑って、不自然にならないように目を伏せた。なにかを叫びたい衝動に駈られて、理性を総動員して心を鎮めるのに必死になる。
「梨紅、お願い」
沙菜は両手を合わせて俺の方を窺う。昔から俺は沙菜のお願いには弱かった。多分彼女もそれを知っていてこんな風に頼んでくるんだろう。狡い、でも断れない。断らない。
「…仕方ないな。頑張ってスピーチするんだから笑うなよ?」
「やったー!そうと決まれば、明日行人に報告しなきゃ」
しぶしぶ了承の返事をすると、紗菜は今にも踊り出しそうに上機嫌になった。
行人さんが浮気した、と怒って俺の部屋に来たくせに。沙菜の頭の中からその事実はもう消えているらしい。
多分俺の部屋にいることも、明日の朝には単に遊びに来たくらいとしか覚えていないんだろう。いつものことだ。
「じゃー、お風呂借りるねー。この前って下着も置いてかなかったっけ?」
「多分。探して置いとく」
「了解」
短い返事を残して、紗菜はお風呂場へと姿を消した。同時に、俺の体から力が抜ける。
「結婚、するんだ」
口に出してしまえば、それはよりリアルになってしまう。
紗菜の指に光る指輪の輝きが、やけに胸にきた。涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
喉の奥が苦しくて堪らない。
「本当は、俺が指輪を贈ってやりたかった」
俺の声は負け犬の遠吠えにすら、なりはしなかった。




