風のスープ
私の住んでいる街は海の側にあり、休みの日になると街外れの海に面した高台へと赴き、昆虫採集をするのが私のささやかな趣味だった。
その高台にはいつも海からの風が吹いており、風の強い日の翌日などは珍しい外国の昆虫が採れる事もあったからだ。
その日も前日に強い風の吹いた、よく晴れた日だった。
私は弁当と水筒を鞄につめ、捕虫網と虫かごを手に取ると高台へと向かった。
高台についてみると、普段は誰もいないその場所に見知らぬ人物が立っていた。
不思議な男だった。
ぱっと見、若者のように見えるが次の瞬間には年経ているようにも見える、年齢を感じさせぬ風貌をしている。
男は淡いグレーのシャツの上に深い緑色の上着を着、濃い茶色のズボンを履いて手には大きなガラス瓶を持っていた。
「こんにちわ。」
その人物は私に気づくと被っていた雉撃ち帽を軽く持ち上げ会釈した。
「虫捕りですか。」
その人物は私の持っている捕虫網と虫かごに気づいてそう尋ねてきた。
「ええ、この辺は珍しい虫が取れるんですよ。」
私はそう言うと男の持っている瓶に目をやった。
「あなたも虫捕りを?」
「いえ、これは虫を取るための物じゃないんです。」
男はそう言うとガラス瓶の蓋を開けた。
「ここはいい風が吹いているので、」
「風を取りに来たんです。」
男は瓶を頭の上に掲げながら海に面した崖の縁に歩いていった。
「風、ですか。」
何故だか気になって私は男の後を追いながらそう尋ねた。
「ええ、スープにすると美味しいんですよ。」
男は私の問いに答えると瓶の口を海へと向けた。
「ああ、やっぱりいい風が来ている。」
言うなり男は頭上で瓶を振ると、素早く蓋を閉めた。
「いいのが取れましたよ。」
男は大事そうに瓶を抱えながら私の方へ歩み寄ってきた。
しかし、男の抱えている瓶の中には何も入っていない。
「おっと、これは失礼しました。」
男は足元の草を引きちぎると慎重に瓶の蓋を少しだけ開けると草を中に入れ、素早く蓋を閉めた。
「これなら分かるでしょう。」
男に促されるままに私が瓶を覗き込むと、何の力も加えられていないのに草がくるくると瓶の中を舞っていた。
「これは良いスープが出来そうですよ。どうです、あなたもいかがですか?」
何故か逆らう気にもなれず、またわずかな好奇心もあって私は誘われるままに男の後をついていく事にした。
道すがら男は最近この街にやってきた事、風を求めて様々な国を渡り歩いてきた事等を話し、私はこの街の役所に勤めている事、虫捕りが趣味であの場所には度々来ていること等を男に話した。
半時ほど歩いた後、街外れの小さな森の中にある小さな家にたどり着いた。
虫を求めて今まで何度となく来た場所であったはずだが、家が建っていた事には全く気づかなかった。
板壁にスレート葺きの屋根のこじんまりとした家で、ステップをあがったところにある小さなドア以外には小さな窓が一つついているだけだった。
「どうぞお上がりください。」
男がドアを開け、中に入っていったので私も後に続き家の中へと入っていった。
家の中は玄関から全てが見渡せる程度の広さで、様々なものが雑然と詰め込まれていた。
向って左の壁にベッドが設えられており、右奥がキッチンになっている。
部屋の中央には椅子が一脚と丸テーブルが置かれている。
テーブルの上には束になった植物がいくつか置かれており、なんともいえない香りを部屋に撒き散らしていた。
奥の壁には大きな棚が設えられ、中には本、標本、瓶、その他様々な用途も分からぬ小物が詰め込まれている。
「どうぞどうぞ、おかけ下さい。」
男はそういうとテーブルの上の植物をベッドの上に放り投げて、椅子を私に勧めてきた。
断るわけにもいかず私が椅子に座ると、男はキッチンの方へと歩いていった。
「すぐに用意できますから、くつろいでいて下さい。」
男はコンロの上に深い鍋を置くと、その中に先ほどの瓶を中に入れた。
椅子に座った状態では何をしているのか詳しくはわからないがどうやら先ほどの瓶の蓋を開けているようだ。
男は慎重に蓋を開けると静かに鍋から瓶を取り出し、鍋に蓋を被せた。
「ここが肝心なんです。慎重にやらないと風はすぐに飛び去っていってしまいますから。」
男はコンロの上にあるガラスの小瓶が並んだ香辛料棚から幾つか小瓶を取り出し、小匙でお椀の中にそれをあけるてかき混ぜ、一匙分掬うと素早く鍋の蓋をずらし匙に入った香辛料を投げ入れた。
男が香辛料を投げ入れた一瞬、鍋の中が青く光ったように見えたが男がすぐに蓋を閉めてしまったため本当に鍋の中が光ったのか、あるいは金属製の匙が窓から差し込む光を反射しただけなのか、単に目の錯覚だったのかもしれない。
「これは紫アザミと言って、スープに入れるといい香りがするんでよ。」
男はベッドの上に放り投げた植物を幾つか取り上げてナイフで刻みながらそう言った。
「こちらの黄色いのはミヤマカズラ草です。好みは別れるのですが、やはり風のスープにはこれがないと。」
そう言う男の横ではコンロに掛けられた鍋の蓋が火も着いていないのに細かく震えている。
「ここまできたらもう大丈夫ですね。」
男はそういうと蓋を持ち上げ、先ほど刻んていた植物を鍋にあけた。
男が植物を鍋にあけると、何とも言えない不思議な香りが部屋中に漂ってきた。
子供の頃に遊びに行った農家の叔父さんの家の藁小屋の匂いのようでもあり、早朝に散歩する霧に包まれた小川の匂いのようでもあり、不思議な懐かしさを感じる匂いだった。
「そしてこれが私自慢の隠し味です。」
男はそういうと部屋の奥の棚から透き通った赤い鉱物の結晶と金色に輝く鉱物の結晶を持ってきて鍋の中へ放り込んだ。
軽い金属音が鍋の底から聞こえ、鍋の中が緑に輝いたと思うとすぐに消えた。
気が付くと先ほどの匂いもどこかへ消え去っていた。
「さあ出来ました。」
男が鍋をテーブルへと持ってきた。
鍋の中を覗き込むと、そこには何も入っていなかった。
先ほど入れた香辛料も、植物も、鉱物の結晶も全て消え失せていた。
しかし、その鍋の中には何かが入っている、そんな気がした。
目には見えず、匂いもしないがそこには何かがあった。
「さあさあ、風のスープは出来たてを飲まなくては。」
男はそういうと棚から皿とお玉とスプーンを持ってきて鍋の中にお玉を入れて何かを掬うかのように持ち上げて皿の中にあけた。
そうして部屋の奥から椅子を一脚持ってくると自分も腰掛け、皿の中にスプーンを入れて掬い上げて口へと運んだ。
「うん、思った通り、これは良い風だ。良いスープが出来た。」
そう言うと男は私の方を向き、もう1枚の皿を差し出した。
「さあどうぞどうぞ、風が消えないうちにお召し上がりください。」
男の差しだした皿には何も入ってはいない。
ただ空の皿の底が見えるだけだ。
私はしょうがなくスプーンを持ち上げると皿の中に入れ、底を掬うように動かしてから口の中に入れた。
その風は大陸の奥にそびえる山脈の頂上で生まれた。
風は急峻な峰々で遊んだ後に斜面を滑り降り、深い谷を川下に沿って下っていった。
羊の群れを連れた年老いた男の横を通り過ぎ、リンゴ畑の中を通り抜け、風は山からなだらかな丘陵地帯へと流れていった。
風は小さな家々が並んでいる村の中を通り抜ける。
洗濯物を干している若い母親、路地を走り抜ける子供達。
村の外れの大きな楡の木の下で恋人と愛を語らう若い娘の髪を吹き乱し、風は更に草原地帯へと向かっていく。
草原を走る狼の群れを追い越し、月光で照らされた沼地を越え、朝日の煌めく水田地帯を吹き抜けていく。
風は巨大な街の熱気に煽られて急上昇し、街の熱の塊を滑り降りるように下降していくと大海原へと向かっていった。
幾つもの波頭を乗り越え、やがて水平線の彼方に小さな影が見えてきた。
影はやがて陸地になり、大きな崖が目の前に広がっていく。
そして風は崖の上を越えようと…
「いかがですか?スープのお味は?」
耳元に響く男の声で私は我に返った。
見渡すとそこは先ほどの男の家だった。
いつの間にか窓から差しこむ夕日が家の中を朱に染めている。
「これは…」
数秒の沈黙の後に感嘆の息と共に私の口からようやく言葉が零れ落ちた。
「本当に風のスープだ。」
皿の中を見落とすと、そこには何もなかった。
本当に何もなくなっていた。
しかし、口の中には確かに残っているものがある。
雪片をいただいた山脈、雪解け水を運んで谷を流れる川、草原を駆けていく狼たちの息づかい、木の下で恋人に微笑みかける娘の髪の香り。
口に運んだスプーンの中に、確かに風があった。
「気に入っていただけたようで何よりです。」
男はそう言って私に微笑みかけた。
相変わらず年齢を感じさせない、不思議な男だった。
翌日、私は再び森を訪れたが昨日あったはずのあの小さなスレート葺きの家は影も形も見えなかった。
1日中探し回ったが見つける事は出来ず、あれ以来男も姿を見せる事はなかった。
そして街外れの海が見える高台には今日も強い風が吹いている。
読んでいただきありがとうございました。