序章
──────トクン。
内側からドアを叩かれているような、そんな痛みを胸に覚える。
「…朝か」
三寸ばかり空いた小窓からは、憎たらしいほどに元気な雀の鳴き声が入りこんでいた。
鉛のように重い体を起こし、木製のベッドの上で、薄れていた意識を取り戻す。
「んん…怠りいなぁ」
登校までには、十分の時間がある。
想定したよりも幾分かの余裕が出来た俺には、対価に値する選択肢が幾つもあった。
もう10分…いや、20分ばかりの睡眠を取る。
何時もよりも、手間をかけた朝食を作る等…。
考えるうちに、5分経っていた。
己の優柔不断さを呪った。
貴重な10分睡眠が、半分の5分になってしまったのである。
──────いや、そんなことは、どうでも良かった。
何気なく窓の外を眺めていた俺は、"その景色"に捕らわれたかのように硬直していた。
「おい…どうなってんだよ…!?」
思えば、気が付くのが遅かった。
心地よく寝ていた木製のベッド。
──────何を言ってるんだ。
そもそも俺の部屋には、ベッドなんかありゃしない。
数年前から、毎晩のように布団で寝ていたことを忘れるとは…。
まだ若いとは言えど、一度認知症の検査を受けたほうがいいのかも。
…それに、考えても見ろ。
こんな小洒落た小窓なんて、俺の部屋にはあるはずがない。
考えるうちに、恐怖心がこみ上げてきた。
俺は夢中になって、部屋を見回す。
──────全く見覚えの無い家具が、この空間に敷き詰められていた。
「うおおおおおなんじゃこりゃ!?」
俺は叫んだ。
外の景色は、サバンナの大地のように、果てしない草原が広がっていた。
意味がわからない。
俺の部屋は、都内のビルが押し込められた中にある、ボロアパートなはずなのに。
──────!?
"ピシャリ"
俺は慌てて窓を閉めた。
──────トクン。
広大な緑の景色の中で、あまりにも不釣合いな"そいつ"を見た途端に、寝起きの時と同じような痛みが胸に走った。
身の丈は、推測するに、約2メートル。
全ての光を吸収するほどに全身が黒く、奇妙なまでにぐにゃりとした"ヒトガタ"がそこにいたのだ。
──────見ルナ。
俺の脳が、そう警告した。
"あいつ"とは、関わってはならない。
何も状況を呑み込めてない俺でさえ、直感で分かった。
「本当にどうなってんだよ…ここはどこなんだよ…」
目が覚めて突然、知らない場所に居る自分。
目の前が真っ白になった。
『バコォォォォオオオン!!!』
「──────ファッ!?」
突然、古臭い木製の扉が開いた。
「わぁ!起きてる起きてるぅ!」
いきなり豪快に扉を開け放ち、目の前までやってきた"その子"は、くりっとした大きな瞳を潤わせ、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「コハルぅー!新しい"住人"が起きたよー!」
"ダッダッダッダ"
木造の床が、リズム良く軋む。
どうやらさっきの子が、廊下か階段を走っているらしい。
そんな足音が小さくなったかと思うと、しかし。
次にはおよそ"4足分"の足音になって、こちらに近づいてきたのだ。
──────バタン!
さきほどよりは、やや優しく。
けれども、勢いよく扉は開け放たれた。
「…まあ」
姉妹…なのだろうか。
さっきの"ちっこいの"が、今度は俺と同い年か、或いはやや年上くらいの女の子を連れてやってきた。
「どお?コハル好みの"コル"じゃない?」
「何を言ってるの。人様の事を"コル"で判断するなんて失礼よ」
大きいほうの女の子が、そう叱責した。
それはそうと彼女たち、俺にはさっぱりわからん会話をしてやがる。
「あのぅ・・・」
高校時代からコミュ障だった俺にとっては、この第一声が精一杯だった。
「ごめんなさいね。この子、新しい"住人"には慣れてなくて、ついはしゃいじゃうの」
そう言って、ニッコリ微笑む彼女は、どうやら『コハル』という名前らしい。
腰の位置程長く、さらっとした淡い栗色の髪の毛をしている。
「ちぇ!コハルだってはしゃいでたクセに」
「言いがかりは止しなさいノア。あなたの朝ごはん、ちゅるちゃんの餌に回しちゃうわよ」
「わわあ!それはひどいよ!コハルの鬼ぃ!悪魔ぁ!」
…ちっこいほうは『ノア』って名前らしい。
綺麗な金髪を大きなハイビスカスのような髪留めで左右に結っており、俺は決してロリコンではないが、目もくりっとしていてかなり可愛らしい顔をしている。
つうか、なんだよちゅるちゃんって。
ペットかなにかなのか?どうでもいいけど。
「…まあ、冗談はさておき。朝食の用意が出来てるわ。あなたも食べにいらっしゃい」
「え、あ...その…」
コハルさんはそう言うと、何の躊躇いもなく俺の手を握った。
「まぁまぁ」
何かを言いたそな俺の心情を察してくれたのか、ノアって子が割って入った。
「おにーさんも今はちんぷんかんぷんだと思うけど、まずはコハルのおいっし~朝ごはん食べて、それから色々はなそ!」
「…ええ。"元の世界"でどんな生活をしていたかはわからないけれど」
ふさっと、コハルさんは綺麗な髪を掻き分ける。
「"ここ"では時間がたくさんあるわ。ノアの言う通り、まずは食事にしましょう」
そう言うと、彼女はにっこりと、天使のように微笑んだ。
──────可愛い。
今まで女の子と殆ど喋ったことがない俺が、素直にそう思った感想だった。
「あー!おにーさん、コハルに見惚れたでしょー!」
ぐっ…。
このノアって子、子供っぽい割に鋭いな。
「こーらノア。あまり彼をからかわないの。ほら、リビングに向かうわよ」
コハルさんにパシッと腕を掴まれたノアが、無様に連れ出されていった。
…さて。
本当なら、食事も喉を通らないほどにヤバい状況なのだが。
"…ぐぅぅぅぅ"。
......俺の腹の虫は、悲しいほどに正直だった。
「──────うまぁい!!」
俺は感嘆の声を上げ、とにかく食べた。ひたすら食べた。
いやなんかもう、食べないと色々とやってられない気がした。
そんなことはどうだっていい。
テーブルの上に並べられたパン、スープ、小麦粉を拵えて作られたパスタ。
とにかく、どれを食べてもうまかった。
「ふふ、それは良かった」
朝からとんでもないフルコースを振る舞ってくれたコハルさんも、嬉しそうに微笑んだ。
「はい!ほんと美味しいですよ!料理、すげー上手なんですね」
あまりの美味しさに、俺の"コミュ障"すら緩和されていた。
女の子相手に、普通に話すことが出来ているのだから。
まったく、料理の力ってのは恐ろしい。
「へへー!コハルの料理は天下一なんだからー!」
「もう…ノアまでそんなこと言って」
コハルさんに…ノアちゃん、だっけか。
2人とも、物凄く仲が好さそうだ。
出来ればもっとこの2人のことを知りたいし、この"場所"についても色々と聞きたい。
丁度良く腹も膨れたところで、俺は意を決して切り出すことにした。
「ごちそうさまでした。早速なんですけど…」
『きたか!』と言わんばかりに、姉妹(?)2人はうんうんと静かに頷いた。
「…………ここ、どこスか?」
あまりにも質問が直球すぎたかもしれん。
聞きたいことがありすぎて、言葉を纏めきれてなかった。
「──────ふっ」
刹那、このリビングの空間に亀裂が入ったかのように、ピシッとした"何か"が沸き起こった。
「あはははははは!!!」
──────ノアちゃん、大爆笑。
コハルさんもコハルさんで、釣られるようにクスクスと笑っていた。
「え、なにがおかしいんですか!?俺、変なこと言いました!??」
「ひひー!いやね、だっておにーさん。確かにそんなニュアンスのことは聞いてくると思ったけど」
「お、おう…」
「なあに『ここ、どこスか?』って!!あまりにも大雑把すぎて反応に困っちゃったよ~」
精一杯低い声を出して俺の真似をしてからかう彼女。
可愛いけど、若干の殺意を覚えた。
「こらこらノア、そうやって人をからかうんじゃありません」
──────いやそういうコハルさんも、かなりニヤけてますからね!?
「っだあああもういいっすよ!聞き方が悪かったですって。ここは、どこなんですか?少なくとも、日本ではなさそうですけども…」
「──────ふふ」
…?
さっきまでゲラゲラと笑っていたノアちゃんが、俺の質問を聞いた途端に、次は静かに笑った。
そして、やや重くなったその口元を、再び開いた。
「…ここはね。楽園みたいな、そんな場所なんだ」
「え…楽園…?」
「…うん」
あまりにも意外な言葉に、理解するのが難しかった。
コハルさんは間に入ることもなく、ただ、ノアの話を落ち着いて聞いていた。
「けどね、楽園だけど…"悲しい運命"を背負った世界でもあるの」
「悲しい…運命…?」
──────しゅん、と。
さっきまで人を小馬鹿にしていたおてんば娘とは思えないほどに、彼女は寂しい表情を浮かべていた。
しかし…そう思うと、次にはぱっと明るい表情に戻っていた。
「でも──────」
「今はまだ、そんなことは考えなくていいよ。本当に楽しいところだから、おにーさんにも、楽しんでほしいなっ」
"ニコッ"
無邪気にはしゃぐ子供のような、本当に純粋な、可愛い笑顔だった。
「……ああ」
──────そうか、そういうことだったのかよ。
俺は彼女の言葉を理解し、結論を出した。
「──────いや、全然質問の答えになってねーし!!!!!???」
……俺はツッコんだ。もう全力でツッコんだ。
「バレた」
「バレたわね」
女2人そろって、『な~んだ、つまんないの』的なリアクションをかましだす。
「いやいやいやいや!確かになんとなくいい雰囲気に流されつつあって『ああ、それが答えなんだ』的な神秘性もあったよ!?あったけども!!」
はぁ…はぁ…。
高校出てから全く運動をしていないせいか、連続で喋るだけで息切れがする…。
「『楽園みたいな』とか言われてピンとくる奴がいるかーい!!もっとわかりやすく説明してくださいよッ!!?」
「ええ~めんどくさ~い」
ぷくぅと口を膨らませたノアちゃんが、いかにも気だるそうな表情でそっぽを向いた。
──────いや、もうこんなやつ、ちゃん付けする必要もない。
ノアだノア!このがきんちょめ!!
「じゃあノアはいいよ!コハルさん、俺に分かりやすく教えてくださ──────」
「──────わからないわよ」
「……へ?」
俺の言葉を遮るかのように、それもごく普通の、さらっとしたリアクションで彼女は続けた。
「だって。私たちだって、ここが正確にどんな"場所"なのか、分からないんですもの」
「そんな……」
「でも、ノアの言う通り、本当にいい所よ。急なことで驚いてるかもしれないけれど。それでも少しずつ、慣れていってほしいの…」
──────ギュッ。
彼女のか細く、真っ白な両手が、俺の手を包み込んだ。
「…ごめんねおにーさん。ノアも、ここのことは、よくわかんないんだ」
「ノア…」
今度はノアが、俺の腕にギュッと絡みついた。
「色々わかんなくって。最初はすごく怖いと思うけど」
「本当に、おにーさんには楽しんでほしいなぁ」
…ああ。
俺は、なんて大人気がないのだろう。
ノアは俺を気遣って、わざとからかったりして、楽しい雰囲気にしてくれたというのに。
「…ふふ」
「…えへへ」
この2人の、本当に優しい、心からの笑顔を見ていると、彼女達は決して間違っていることを言っているわけではないと確信出来た。
「──────ありがとう」
とりあえず、俺は2人に礼を言った。
どんな状況かは定かではないが、いきなり現れた俺を受け入れてくれたこと。
俺を励ましてくれたこと。
そして、そんな俺に、元気を与えてくれたこと。
それらに感謝しつつも、これだけで、"こっち"の世界も悪くないなって思ってしまうほどだった。
──────これは、何気ない平凡な生活を送っていた俺が、いきなり"異世界"へやってきてしまった、そんな話。
俺を向かいいれてくれた2人の"女神"は、最高の笑顔で声を揃えた。
「「ようこそ、悲しき楽園『ファタ・モルガナ』へ!!」」
【次回:子の章 吸血鬼】




