好きの理由
「……没」
原稿の不採用を告げる声が狭い部室に響いた。
机に肘をつけ、目を閉じながら審判を待っていた僕は心の中で溜息をつき、声の発信源である要先輩に視線を向ける。
先輩はパイプ椅子に片足を抱え込むようにして座っている。
行儀の悪い座り方だが、その膝頭に原稿を乗せて読む先輩は不思議と絵になるのだ。
正面に座ると下着が見えそうで気が気じゃないのだけれど。
「やっぱり文章力がまだまだね。レトリックを全然使いこなせてない。ストーリーはよくなっているからこの調子で」
厳しくも優しい批評がうなだれる僕に突き刺さる。
先輩は赤ペンで僕の原稿用紙に細かな添削を始めた。なんとなく手持ち無沙汰になった僕はしばらく先輩を眺める事にした。
集中しているのだろう。透き通った黒い瞳と長い睫毛は原稿用紙に落とされ、唇は軽く開かれている。
整った顔立ちと清楚な佇まい、時折見せる子供っぽい無邪気な笑顔が魅力的で、なかでも紺のゴムで二つに結ばれた艶やかな黒髪が僕を虜にしてやまない。
……そう、僕は先輩に虜にされている。僕は要先輩に恋しているのだ。
時折何かを考えるようにペン尻を右耳の辺りに持って行く。ペン尻に押された耳朶が柔らかく形を変える。
そんな何気ない仕草にときめきを感じる事が出来る。それだけ好きな人と二人きりでいられるこの場所が僕は好きだ。
二人きりの部室。──うちの文芸部には部員が僕と要先輩の二人しかいない。
五人以上いなければ部として成り立たない。だから五月の生徒総会までに部員をあと三人確保する必要がある。
それでこうして春休みに集まって新入生配布用部誌に載せる短編を書いているのだ。
先輩が添削する間静寂を保つ部室は、遠くから聞こえる野球部の掛け声やトランペットの高音とは別世界だった。まるでこの部室だけが学校から切り離されいるかのような錯覚を覚える。
窓から差し込まれる一条の金色の光は埃で反射し道を作り、いたるところに積みあがった本の塔に陰影を付ける。
そんな幻想的な空間で先輩と過ごす毎日が幸せだった。
夕暮れ時、部活を終えた僕と先輩は住宅街を肩を並べて歩いていた。
車が通らない車道の真ん中で歩を進める僕らを自転車が追い越してゆく。
歩道の電柱は影をどこまでもどこまでも延ばし、切ないほどのオレンジ色は僕の胸を甘く締め付ける。
暑さ寒さも彼岸まで、とは言うが細身の先輩にはまだ寒いのだろうか、クリーム色のマフラーを巻いていた。風が吹くとそのマフラーと一緒に耳の横で毛先が揺れ、寒風に身を強張らせるのが見てて面白い。
「見て、尚君。あそこの家」
先輩が嬉しそうに顔を綻ばせながら指を指す。
白く細い指の先にはごく普通の一軒家があった。
「あの換気扇の下にね、草が散乱してるでしょ?」
体を家に向けたまま顔だけこちらに向けて説明する先輩。
灰色の換気扇カバーの下、赤土が敷き詰められた庭に不自然に枯れ草が捨てられている。
「本当ですね。なんなんでしょう?」
僕が相槌を打つと先輩はますます嬉しそうな表情をしてから続けた。
「あのね。アレは雀が巣を作った残骸なの。だからきっとあの換気扇の中には雀の巣があるんだよ。雀が巣を構え始めるこの時期を七十ニ候では雀始巣と言って、春の訪れの象徴でもあるの」
知識を披露するときの先輩は本当に楽しそうだ。
「へぇ……。先輩、博識ですね……」
見ている僕まで思わず頬が緩んでしまう。
「……そっか、春か。もう、尚君と会ってから一年になるんだね」
先輩が懐かしそうに呟いた後、ふと寂しげな笑みを見せる。
「尚君と過ごせるの、あと三ヶ月くらいだね……」
その言葉で僕が目を背けていた事実が顔を覗かせた。
──六月で先輩は引退してしまう。
その日はずっと先の事のようにも感じられるし、すぐ目の前に迫っているように感じられる。
空を横切るカラスの鳴き声に僕の心がざわめく。
二人の間に重い空気が流れた。
「そうだ、久しぶりに公園寄っていこっか」
僕を気遣ってか、先輩は不自然に明るく提案した。
「先輩の場合、寄りたいのは公園じゃなくて露店じゃないですか」
だから僕も普段通りを装って軽く言った。
帰宅路から逸れ、公園に足を向ける僕ら。
「女の子に対してそういう事言っちゃ駄目です!」
僕の憎まれ口を頬を膨らませながら嗜める先輩は、もういつもの先輩だった。
石段を昇り、公園に足を踏み入れる。
人口のアスファルトとは違う、土と草の入り混じった匂いが鼻腔をくすぐる。
滑り台や鉄棒で跳ね返った夕日の眩しさに思わず目を細めた。
「あ、あったよ! タイヤキ屋さん!」
公園の敷地に入るなり眼を輝かせて移動販売車へ駆けて行く先輩。
部室ではそんな子供っぽい所が可愛いと思ったものの、高校生にもなって公園ではしゃぐのは如何なものか。
周りに誰もいないとはいえ、同伴者として少し恥ずかしい。
それでも、惚れた弱みというやつなのだろうか? やはり「そういう所も可愛い」と思ってしまう
「何してるの尚君、はやくはやく!」
公園の入り口でボンヤリと思考していた僕を先輩は急かす。
そんなに食い意地が張ってるのか、と少し失礼な考えが頭に浮かぶ。
いけない、いけない。そんな事を言ったらまた先輩に怒られてしまう。
怒ってる先輩も可愛くてついからかいたくなるがグッと堪えて小走りで先輩の所まで向かった。
僕が先輩の隣まで辿り着くと先輩は既に小銭入れを取り出していた。
先輩の小銭入れはクマの顔を形どっていて、首から掛けるための水色の紐が着いているモノだ。
その小学生が使うようなデザインの小銭入れから金色の硬貨を取り出してレジに置く。
「カスタード、二つ」
先輩が注文をした、なぜか僕の分まで。
店主のおっちゃんが「あいよ」と言って注文とお金を受け取ろうとしたので僕は慌てて抗議した。
「ちょっと待ってくださいよ先輩!なんで……」
「ここは先輩に奢らせて、尚君」
僕の言葉を遮り、左手の手のひらをこちら側に向けて差し出す。
漫画ならふふん、と書かれそうなお姉さんぶった笑みを浮かべている。
そんな見当違いな反応を見せる先輩に、そうじゃない、と前置きして言った。
「僕はカスタードじゃなくてこしあんがいいです!」
ベンチに座ってタイヤキを食べる。
タイヤキ屋は店じまいをして公園を出て行き、いよいよ園内には僕らしかいなくなった。
「もう! カスタードのが美味しいのに……」
食べながらモゴモゴと先輩が喋る。
文句を言ってる割に幸せそうに食べていた。
「カスタードなんて邪道です。タイヤキはあんこが王道なんです」
僕も負け地と言い返す。
「むぐむぐっ……んくっ。尻尾から食べる人にタイヤキを語る資格はありませんー!」
ムキになって僕の食べ方にケチをつけてくる先輩。
閑散とした公園なのでよく声が通る。
「尻尾から食べた方が最後まで具の味を楽しめるじゃないですか!」
なんとなく引けなくなってついつい反論してしまう。
そんな僕らを砂場にポツンと突き刺さった青いシャベルが笑っているような気がして恥ずかしい。
「あのね、タイヤキの尻尾は、口直しのためにあるんだよ。ふふっ、知らなかったでしょう?」
得意げに笑う先輩を見て毒気を抜かれ、あからさまに嘆息した。
肺、気管と旅をしてきた吐息が生温く口内を舐め上げ、そして──先日までのように白く染め上げる事無く──大気に溶け込む。
同時に胸のうちからまたあの懸念が浮上してくるのを感じる。
「……こんな事で張り合ってられるのも、もう長くは無いんですよね」
つい口走ってしまう。
美味しそうにタイヤキを頬張る先輩の手が止まるのを見て失言だったと思った。
だけど一度口に出した言葉はもう取り消せない。
覆水盆に返らずとは言うが、この場合「お盆からこぼしてしまった」のではなく「お盆の下に穴が開いてしまった」の方が近いかもしれない。
だって言葉は次から次へと溢れ出してきてしまったから。
「すみません、変な事言い出して。でも、僕は来年やっていける自信がありません。小説もロクに書けないし、新入生に教えるモノも持っていません。
代々OBの方々が守り抜いてきた文芸部が僕の代で同好会に格下げなんて事になったらと思うと……」
ずっと胸の内に抱えていた不安を吐露してしまった。
傍から見ればどうでもいいような悩みを先輩はずっと穏やかな微笑を浮かべたまま聴いてくれていた。
やがて先輩が口を開く。
「大丈夫だよ」
なんでそう言い切れるんですか、と叫びたかった。叫ばなかったのはその言葉に続きがあったからだ。
「尚君なら大丈夫だよ。……だってね、私はこれまでずっと、尚君を見てたから」
先輩が空いた両手で僕の頬をそっと挟む。
優しい笑顔が近づいてくる。ゆっくりと。ゆっくりと。
先輩の体から甘い匂いが漂い、頭がクラクラする。
「抵抗しないんだ?嫌なら顔背けてもいいんだよ?」
クスッと笑いながらそう囁かれ、まばたきを忘れる。
先輩の唇が軽く突き出される。ピンク色の薄い唇は唾液で湿り、光っている。
吐息が掛かる距離まで近づき、やがてその距離はゼロとなる。
押し付けられた唇は柔らかくて、温かくて、ほんのりカスタードの味がした。
「没ね。このヒロインはどうして主人公が好きなの?読者を納得させる動機が無ければ途端に物語はリアリティを失って薄っぺらくなるのよ」
先輩の批評が僕の耳を通り抜けて部室の本棚に溶け込んでいく。
今日も先輩はパイプ椅子に片足を乗せて座っていた。
昨日と何も変わらない光景。公園での出来事がまるで白昼夢だったかのようだ。
先輩の台詞に昨日の僕らが重なり、疑問が浮かぶ。
「先輩はどういうつもりで昨日……先輩が僕を好きになる動機は……無い……ですよね……」
思考がそのまま口から出てしまった。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。先輩の目線が原稿用紙から離れ、僕を射抜いた。
「ふふ、あのね……」
可笑しそうに笑いながら先輩が言葉を紡ぐ。
「現実じゃ好きになるのに理由なんてないの」
まだ肌寒い三月のある日、先輩の頬は一足先に桜色に染まっていた──。
fin.
雀始巣
読み方:すずめはじめてすくう
七十二候の一つ。二十四節気の春分の初候にあたり、3月20日~3月24日ごろに相当する。季節は仲春。雀始巣は、それ自体としては「雀が巣を構え始める」などといった意味。
出典:Weblio辞書
「季節外れじゃね?」
と思った方。その通りですw
実はこの作品、1年半程前(作中時間と同じ時期)に8割ほど書いて放置していたもので、
すっかり忘れていましたが最近PC漁っていてたまたま見つけたので、折角書いたものなので完成させて公開する事にしました。
次回作はリア多忙のため半年程先になりますが、感想、批評など貰えると嬉しいです。