第1話:東京へ
彼は小さい頃から走ることが大好きだった。
永遠と田んぼに挟まれて、遠く続いているように見える道をただひたすらに走ることが。
彼は数えてまだ六つの時から、既に走ることの虜になっていた。その時は、いつしかこの道の
終わりまで行くのが夢だった。彼はそこにはきっと違う世界があると信じていたから。
「かあちゃん、犬助見なかった?」
押入の襖を開けて中を見回しながら、少年は母親に叫ぶ。
犬助とは少年の家で飼っている犬のことである。犬のくせに姉である和美の風呂を覗くから、犬と助平をくっつけて犬助だ。
先ほどから、ずっと家の中を探しているのだが、全然見つからなかった。
「いっちゃんさきに車に乗ったで?春ちゃんが臭いんと違ったん?」
そう言って、母親は一人くつくつとテンポの悪い笑い方をする。母親は良く笑う人で、何か一人で言っては笑っている。
「何くだらんこと言っとるんじゃ!!千春もお前もさっさと乗れ!」
玄関の外からクラクションの音が響く。
「五月蠅いわ!あんたのパンツがバッグに入りきらんのじゃ!せかすなら全部履いていき!!」
母は負けずに怒鳴り返す。
「千春!あんたはさっさと乗りんさい。はよいかんと、父ちゃんのパンツ被せるで?」
少年は急に青ざめて、いややと何度も繰り返すと車の中に逃げ込むように乗り込んだ。それを眺めて、母親はまたくつくつと笑っていた。
二つ目のパーキングエリアで休息をとる。
「まだつかんのぉ…?しんどいわぁ」
千春という少年は、ワザとフラフラと歩きにながら、トイレから父親と出てくる。
「我慢せい。向こう行けばでっかい家が待っとるんじゃ」
千春はその何度も聞いた父親の言葉に、目を輝かせた。やはりそれも何度目かであるが。
今日から千春達の家族は、東京に住むことになる。今まで住んでいた田舎を出て、日本の中心都市である東京に引っ越しをするのだ。
父親は運送会社に勤めていた。しかしトラックなどの運転ではなく、デスクワークが中心だったのだが、この度、本社の課長として本社から抜擢されて、本社のある東京へと向かっている。
「ほら、さっさと車に戻るぞ。姉ちゃんが待っとる」
父親はそう言うと、さっさと車に戻りはじめる。千春はそれについて行くには、小走りになる必要があった。
「なぁなぁ?向こう行ったら、沢山走れるのじゃろうか?どうなんじゃろうな」
父親はそれにたいして何も反応をしなかった。千春も別に反応を待っていたわけではない、ただ自分の疑問を聞いて欲しかっただけだった。
東京は僕らの町から車で四時間かかる。かれこれ二時間半は車に乗っている。
「なぁ、東京いっても住む場所ってどこ?」
和美が車の後部座席で、怠そうに窓に頭をつけて尋ねる。千春は和美を振り向いた。
「あのな、区なんじゃ!知っとるか?23区じゃ!!すごいのう。初めてじゃ!区って僕のとこにはなかったしのぉ」
千春が少し自分が利口な気がして、自然に笑顔が出た。
「お前は馬鹿?あたしが聞いてるのは、地名!別に区がなんとか聞いてないし」
和美が冷たい目で千春を見る。千春はムスッと黙って、そのまま前に顔を戻した。
「なに弟に突っかかってんじゃ!!世田谷区ってとこじゃないかね?」
母親が助手席から和美にさらりと答える。しかし和美はそっぽを向いてふーんと言ったきり、黙り込んでしまった。
千春は知っていた。何故、和美の態度が悪いかを。
千春は段々と瞼が重くなってきているのを感じた。そのまま少しだけ目を閉じた。千春はそのまま深い闇の中に落ちていった。