7話
「ねぇ、何とか言ったらどうなんですか?」
口調だけは辛うじて丁寧だけど、僕の隣では吼える小型犬のような彼女の声が刺々しく発射されていた。
しかし、それを正面から受け止めるサワダは、まるで聞こえていないかのようなそぶりで手元のパネルをいじりながら
「じゃ、適当に頼むからな」
と注文をしている。
軽快な電子音とは裏腹に、どんどん重くなっていく空気に、俺は戸惑いながらも、サワダの手の下の手帳をじっと見た。
サワダが何者だろうが、とにかくあの手帳を手に入れる、いや借りるだけでもいい。それが先決じゃないだろうか。帰る方法はまだわからない。でも、とりあえず目的があるうちはそれを目指すべきだ。
俺はふと、トレーニングのことを思い出した。
タイムが延びない時期っていうのは、選手を長くやっていれば必ず何度かやってくる。もちろん、コンマ一秒を削るのが最大の目的なんだから、それを目指すのは当たり前なんだけど、その方法が見つからない時、とにかく目の前に見えていることから一つ一つを解決して行くしかないんだ。
一見、何の役にも立たなさそうな筋トレやイメトレ。時にはスポーツ学なんかも学んで、フォームや食事に気を配ってみたりもする。遠回りでも、進んでいるのか後退しているのか、はたまた足踏みかもしれないことでも、何かをやり続けていると、そのうちパッとその先への道が続くことがあるんだ。
通過点で迷っちゃいけない。通過点でこだわってたら、先へは進めないんだ。
だから……。
「その通りだよ。今は通過点だ」
「え?」
顔を上げると、サワダが鋭い瞳で僕をじっと見つめていた。
その迫力と言葉の重さに圧倒される。
「なに? なに?」
彼女が隣で俺達を見比べている。でも、俺はそんな事にかまっていられなかった。無意識に手が怪我をした足に伸びる。
見透かされているのだと、思った。
往々にして同じスポーツをする人間は察することが多いが、彼もまたそうなのかもしれない。俺の姿、俺の表情、そんなのを見て、察したのかもしれない。
そう思うと、とたんに悔しくて恥ずかしくて、その場にいるのすら嫌になった。
俯く。でも、サワダの視線は俺を追ってきた。
「迷うな。お前にはこれからやるべき事がある」
サワダは全てを知っているかのような口調でそう告げる。なにかが机の上をスライドするのが視界の端に見えた。顔を上げると、手帳が俺の前に差し出されていた。
「俺はまだ辿りつけていない。でも、お前ならきっとたどり着ける」
「え、どういう……」
どういうことだ? あの走りをした人間にたどり着けない場所って、あるのか?
「自分達の時間に戻るんだ。そして、やるべきことをすればいい。未来なんて……」
そこでサワダは唇を止めて、彼女の方を見た。
じっと、静かに、まるで懐かしい人を眺めるように。
「なんですか?」
彼女がたじろぐ。サワダのほほが細かく痙攣した。泣き出すのかとさえ思えるその表情に、少なからず俺は驚いた。
目を細め、口をわななかせ、拳を固く握っている。
そこにはあの王者の風格はまるでなく、まるで過去を懺悔に来た哀れな罪人のようだ。
「君達が探している未来なんか、君達の手でいくらでも変えられるんだ」
「……」
俺達は言葉を失いサワダを見つめる。
やっぱり、サワダは知っているのだ。俺達のこと。でも、どうして?
サワダは小さく微笑むと、ちょうどやってきた店員から俺が頼もうとしていたサンドイッチと、俺達二人分だけの飲み物を受け取り、黙って並べた。
俺達はただ、それを眺める。
陶器が跳ね返る音だけがする。
「あの公園に戻るがいいよ。あの赤い印にもう一度触れたら、君達は帰られる」
サワダはそいうと、立ち上がった。もう、自分のすべきことはこれで全てだと言わんばかりに。
「あ、あの」
「ん?」
思わず立ち上がったが、俺は何を言うべきかわからなかった。まだ、不審げな目をやめない彼女の無言の圧力に耐え切れなかったわけじゃない。なんだか聞くべきことはたくさんある気がしたんだ。でも、その聞くべきことは何かわからなくて……。
「大丈夫」
サワダがそんな俺に微笑みかけた。
大きく、深く、穏やかで厚みのある、優しい笑みだった。
「お前は前に進むための武器を、すでにここで手にした」
「は?」
前に進むための武器? もう、手にした?
なにかGETしたっけ? 首をひねり、彼女を見る。彼女は肩をすくめ、手帳を指差してみはするが、どうもしっくりこなかった。
「頼んだよ」
サワダはそういうと、背を向けた。
俺達はどういうわけか、もうその背中を追いかけることはできなかった。王者はもう、僕らを振り返ることはないだろうと、感じたからかも、しれない。




